(2)
仕事開始の初日。結月は征志郎よりも早く薬草学院にやってきた。誰に言われたわけではない。が、その足で学院の朝の庭にやってきた。
気持ちいい。
どこかで雲雀がさえずる朝の庭。朝靄の春の日差し。足元のハーブは風の中、笑っているようだった。
まだ作業内容を知らされていない彼女は、勝手に草花の手入れはしない。まずは広い敷地の場所を覚えようと考えていた。
学院の東西南北を囲むようにある庭は農園というべきか。間には小川が流れている。今は山の雪解け水が混ざり、冷たい水だ。地上に注がれたの雨水が大地を濾してミネラルを含みそして流れている。キラキラと酸素を多く含んだ清水は潔かった。
緑の香りの空気を吸いながら学院内を歩く結月は、車椅子の彼を発見した。彼女は駆け寄って挨拶をした。
「おはようございます」
「おはよう。ずいぶん早いですね」
寝癖の髪の橘はまだ私服のコートの姿。メガネ越しに静かに畑を見つめていた。少し息が上がった結月は彼の隣に並んだ。橘は桜を見上げながら呟いた。
「昨日はお疲れでしたでしょう」
「はい。でも、今日からなのでワクワクしてます」
「そう。それは良かった」
橘はタイヤを回しながら進んだ。新枝の雀はパッと飛び立った。
まだ彼の車椅子を手伝うような仲ではないと思った結月は黙って後を歩いていた。
「僕なんか。最初は緊張していて。最初の頃の思い出はないです」
「そんなに緊張されたんですか」
「ええ。人間相手は疲れます。今でもですけどね?」
ふふふと微笑んだ二人は職員玄関まで歩いていた。橘も昨日の入学式で紹介されなかった。ということは自分と同じ、非正規職員。すなわち御庭番になるはずだ。これを聞こうとした結月に彼の方から話し出した。
「ところで。もう気がついていると思うけれど、僕も君と同じ御庭番です。ここは正規社員とそうでない人が区別されているから。出鼻を挫くようで悪いけど覚悟しておいたほうがいいよ」
事前に知らされていた話。結月は橘の素直な助言に目をそっと伏せた。
「了解です。あの、他の御庭番の人は」
「そのうち会うよ。あ?おはようございます」
「おう。おはよう!もう仲良くなったのか?」
二人の間に入ってきた片桐は白い歯をニカと見せた。大柄の彼はスーツ姿で大きなあくびをした。薬草学院に似合わない筋肉体型。隣を歩く結月は歩きながら呟いた。
「一緒になっただけです。変な言い方しないでください。橘さんに失礼ですよ」
「そうか?これは、失礼橘くん」
橘はしれとした顔で車椅子を息良いよく回した。
「そうなんですか?僕は仲良くなったと思って嬉しかったのに」
「光栄です」
「おい。俺の時と態度が違うな?」
朝日が刺す並木道。笑顔の三人は校舎へと入っていった。
◇◇◇
職員室には朝の鍵当番の教師が来ているくらいでまだ新人教師は来ていなかった。橘はどこかに消え、片桐もロッカー室に着替えに行ってしまった。
まだ仕事の指示を受けていない結月は、勝手に仕事をするものは憚れる。しかし、職員室でひっそり座っているのも落ち着かない。そこで、職員室にいた教諭に声を掛けた。
「私。玄関掃除をしています」
「わかりました。掃除道具は自由にどうぞ」
結月はスーツ姿のまま、玄関に戻った。そしてホウキを探し出し、外の落ち葉を掃除し始めた。昨夜の風で落ちた桜の葉。他にも樹木の葉が落ちていた。時間潰しの結月は一人で黙々と掃除をしていた。
背後には生徒達のおはようの挨拶が聞こえていた。自分とそう変わらぬ年齢の彼らに結月は挨拶をして行った。
「おはようございます。って。あれ?昨日の柊さんのお姉さん?」
「おはようございます。私はここの職員なんすよ」
征志郎と同じクラスの楠が椿原と一緒に驚き顔で立っていた。結月はホウキを持ち直した。
「職員?!嘘」
「お姉さんが?」
「そうなんですよ」
騒がしい女子二人。早く校舎に入って欲しい結月が言葉を選んでいた時、それがやってきた。
「姉さん。おはよう」
「柊君?」
「おはよう。さあ君達、今日は初日だよ?僕が先に行くね」
姉にウィンクをした彼は、先に行くと二人の女子を誘った。
登校時刻に近づき生徒達の足音が増す玄関前。その中に新人教師二人の顔を見た。
「おはよう柊さん。早く来てたんですね」
「やばい?僕も早く来ないといけなかったのかな」
「そんな事はないんじゃないですか」
そもそも彼らは正社員だ。自分とは違う。説明する間もない彼女は自分も掃除をやめて一緒に職員室に戻った。そこには教師達は揃い慌ただしく朝の支度をしていた。ここで教頭が結月を手で呼んだ。
「何でしょう」
「君に紹介します」
廊下に出た教頭は結月と歩き出した。
「あの。こんな話を歩きながらで悪いが、君は正社員じゃないですよね」
「はい」
「この学院は男女平等、雇用均等を目指しています」
まだ誰もいない廊下。教頭は言いにくそうに話を続けていた。目指している、という事は、そうではない、という事だ。
「我々も君の職務遂行を望んでいますので。何かあれば相談してください」
「はい」
自分の事は自分で守れ、と言われた気分だ。まあ、そのつもりであったが。
「これから君の職場はこの部屋です。職員室には来なくて結構。仕事はここで行ってください。さあ。ここです」
1階の階段の向こうの奥の部屋。ここだけ別の建物のような古さだ。
「ここが君の職場だ」
庭番と書かれたプレート。このドアを教頭は開けた。
「あ。おはようございます。新人を連れてきました」
部屋にいた職員は、すっと立ち上がった。結月も背筋を伸ばした。老齢の彼はすっと立ち上がった。
「今日から入った柊さんです」
「柊結月と申します。よろしくお願いします」
「代表の松本です。よろしく」
目元涼しい彼。年は30歳といったところ。色黒の長身の彼は目を細めて結月を見た。教頭は挨拶もそのままに結月を置いて行ってしまった。結月は事務所のような部屋を見合わしていた。その時、外の扉が開き彼が入ってきた。
「あ。柊さん」
「橘はもう知り合いか」
眉を潜める松本に橘は澄まし顔で部屋の奥の自分のデスクについた。
「ええ。昨日温室で。それよりも掛けて頂いたらどうですか」
「今そうしようとしたところだ」
恥ずかしそうな松本に結月はつい微笑んでしまった。もっと意地悪な上司を想像していたからだ。松本は頭をかきながら珈琲を淹れるといい、結月を座らせた。
資料が並んだ研究室という風情の部屋。近代的な学院の建物から置き去りにされたような空間だった。
「まあ。あれだ。そんなに緊張しなくていいぞ」
「棟梁。柊さんは緊張なんかしてないですよ」
「お前は少し黙れ」
「ふふふ」
やっとデスクの上にマグカップが乗った。この湯気の中、松本はオホンと咳払いをして彼女を見た。
「私がこの庭番を預かっている棟梁の松本だ。こっちが橘。他にもいる事はいるが皆、自分の庭を管理している」
「自分の庭。担当があるんですね」
「ああ。皆ベテランなのでね。勝手に来て勝手に手入れをしているんだよ」
「確か。御庭番はみなさん元薬草師なんですよね」
結月の話に二人はああとうなづいた。現役世代の松本と橘。事故か何かでリタイヤしたのであろう。そんな自分は薬草師でも何でもないけれど。
「そうだよ。ところで。柊さんはどうしてここに入れたの?」
「こら!橘」
「だって棟梁。彼女は薬草師じゃないのに」
「ふふふ。いいです。説明しようと思っていました」
一口飲んだ珈琲は砂糖も入っていないのに甘かった。
◇◇◇
柊文蔵は結月の母方の祖父。彼女はこの祖父の元で育った。植物博士と言われた博士の庭には貴重な植物が育てられていた。文蔵は己の亡き後、親戚の手によって薬草が転売されるを危惧し、この庭の薬草を薬草学院に寄贈したいと遺言を残していた。そして彼の死後。この薬草を欲した薬草学院はこれを受け入れた。が、遺言には植物の移植の際、孫娘の結月を管理人として同行させることが条件だったのだ。
結月はこの話を二人にした。彼らは黙って聞いていた。
「確かにね。薬草だけきても管理する人がいないと困るしね」
「一ついいか。君はその、この学院に生徒して通うべきではなかったのか」
不思議そうな松本に結月はうなづきながら答えた。
「そうお思いになりますよね。実は私、父親がエラーなんです」
「エラー……そうか」
この薬草学院は古き良き名門。別の解釈では悪しき慣習が残る文明の遺物といえよう。学校の入学規定により両親ともに真緑国の者、という記述がある。この者という文面。この地で生まれた者、住う者である。逆にいうと真緑国以外の人間は不可である。ならば結月も真緑国生まれであるが、彼女は父親が不明であるのでエラーとされていた。
彼女を産んだ柊紀香は薬草師。国外任務も多く、そこでの妊娠となる。彼女は父親の名を拒んだため結月は薬草学院には入学できなかった。
「エラーなら無理だね。でも弟君は?」
「母は私を産んだ後、今の父と結婚したので。弟は問題ないです」
「……なるほど。そうか」
母をその後、真緑国の男と結婚し征志郎が生まれた。結月はしばらく祖父の柊博士の元で暮らしていた。博士が老齢で入院を機に結月は母の家族と暮らした。現在、義父は多忙であり、母は任務中の事故で療養所で過ごしていた。結月は弟と二人暮らし。彼の世話をし彼を助けていた。
「済まない。個人的なことを聞いて」
「いいえ。話そうと思っていましたので」
少し気まずい空気。その時、庭から大きな声がした。高齢の女性の声だった。
「棟梁!今日の種まきはどこからやるんですかー」
「おお!今行く。じゃあさ。柊君。その作業着に着替えて外に来てくれ。俺は先に行っているから」
「はい!」
古い事務所。粗末な施設。望んでここに来たわけではないのに。ロッカーの鏡の自分は笑顔だった。
つづく
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