【小説】「人魚になれる街」
那須野里見
人魚になれる街
寂れた無人駅を出ると、僅かに磯の匂いがした。
駅前に人影は無い。目につく店も日曜の昼過ぎだというにどこもシャッターが下りて閑散としている。
時代に取り残されたシャッター通り。浮かんできた安っぽい見出しを飲み下しながら、私は無人のタクシー乗り場へ足を向けた。
当然、タクシーを待つ人間など他にいない。そもそも漫然と待っているだけで捕まるだろうか。あまりの静寂さに不安を覚えていると、意外にも五分ほどで一台のタクシーが乗り付けた。
街中ではほとんど見かけなくなった一昔前のセダン。そのドアが開くのを待ちながら駅舎の方を振り返る。後発の列車からは誰も降りてこなかった。
タクシーに乗り込み、行き先を告げる。
四十代くらいだろうか。白髪交じりの運転手は行き先を聞いた途端、露骨に眉をひそめた。
「あんなところに行っても面白いもんなんて何にもないよ。悪い事は言わない。辞めた方がいい」
「そう悪いことばかりではないかもしれませんよ」
怪訝な表情を浮かべる運転手に名刺を差し出す。
「『月刊オカルト』……。あんた、あの噂を聞いて来たのか」
「ええ、人魚になれる街。ネットではこの街はそう呼ばれている」
運転手は嘲笑するように乾いた笑いをこぼした。
「馬鹿馬鹿しい。誰が言い出したのか知らないけど、そんなこと、あるはずないだろう」
「よもやま話は得てしてそういうものですよ。この街では『人魚の崖』と呼ばれる場所から海に飛び込むと人魚になれるという噂がかなり以前からあったようですね。そして今でも年に数人、実際に飛び込む方がいらっしゃる」
「人魚になんてなれやしない。数日して水死体が港に流れ着くだけだ。あんなもの自殺者の体のいい言い訳だよ」
吐き捨てるようにそう言って運転手が私の顔を見る。私は何も言わず、運転手の顔をじっと見つめた。
音の無い時間が続いた。それは数秒だったか、あるいは数分だったか。運転手の目に諦観(ていかん)が浮かんだのを見て、私は人あたりが良いと評判の笑顔を顔に貼り付けた。
「よろしくお願いします」
運転手がギリリとハンドルを握り直す。ややあって、車は静かに動き出した。
「港に赤いシャツを着た爺さんがいる。年中同じ格好でいるからアンタでも分かるだろう。あの人に聞けば何か知ってるかもしれないな」
「その人はどんな方なんですか?」
「さあね。詳しくは知らないけど、何十年もの間毎日港から海を眺めてるんだ。……正直、気味が悪いよ」
「悪いけど取材が終わるまで待っててくれ、なんて言われても無理だからね。あんなところ、近づくのだって嫌なんだ」
「はい、帰りはまたタクシーを捕まえるので大丈夫です」
「そうしてくれ。…………椅子の所に俺の名前が書いてある名刺があるだろう。そこに載ってる番号に電話すれば迎えのタクシーを寄越してくれる。俺の名前は出すんじゃねぇぞ」
「肝に銘じておきます」
番号をメモしながらお礼を言うと「物好きなやつもいたもんだ」と運転手は重い息を逃した。
そこからは特に会話は無かった。ラジオから流れる時代遅れのポップスに耳を傾けながら、揺れに身を任せた。
港には二十分ほどで到着した。料金を払い降りると、タクシーはすぐに走り去っていった。
――随分と嫌われたものだ。
一段と強くなった磯の香りにひかれるように港の方へ目を向けた。ザザッ、ザザッ、という波の音が嫌に大きく聞こえる。
小型の漁船が数隻停泊しているだけの港は、駅前と同じか、それ以上に寂れた雰囲気をまとっていた。まるでここだけ時間が止まっているような、そんな錯覚さえ覚える。
人の営み、その気配を全く感じない港は不気味ささえ漂う。もしも他者と連絡が取れる携帯が普及していなかったら、確かに近づきたくもないと思っただろう。
こんなところに本当に人がいるのだろうか、急激に湧き上がってきた不安を押し留めていると、視界の端に人影が映った。
見れば老人が一人、椅子に座って海を眺めていた。何をするわけでもなく、ただ海をぼうっと見つめている。
きっとあの老人が運転手の言っていた人だろう。直感的にそう判断した私は老人に近づき声をかける。
「すみません。少しお話を伺いたいのですが――」
歳は七十前後だろうか。日に焼けた健康的な肌と、潮風に打たれてくたびれた赤いシャツははつらつとした若さの残滓(ざんし)を感じさせ、彫りの深い顔立ちは精悍(せいかん)とさえ思える。
老人は窪んだ眼窩(がんか)をギョロリとこちらに向け、無言のまま私を射抜いた。
「……こんな所に何の用かね?」
構えていた予想よりも遥かに柔らかい声音(こえ)だった。私は驚きを悟られないように努めて老人に名刺を渡した。
老人は私から名刺を受け取ると目を細めながら名刺を確認し、私の顔を物珍しそうにまじまじと見つめた。
「…………人魚の事を聞きたいのかい?」
少しの沈黙の後、老人は私にそう問いかけてくる。遠くの方でカモメの鳴き声が聞こえた。
「はい。ご存知の範囲で構いません」
「そんな事を聞くためにわざわざ」
「仕事ですから。やむなく」
そう肩をすくめて見せると老人は吹き出し、声をあげて笑った。
「いやあ、笑ってしまってすまなかったね。……まあ、これも運命と言うやつなのかな。いいよ、人魚の謎を君に話そう」
「ありがとうございます」
「ただし、条件がある。これから話す事は絶対に記事にしてくれ。絶対だ」
「……分かりました」
老人の強い口調に戸惑いながらも私は首を縦に振った。そうすると老人は満足そうに頷き、話を始めた。
――
――――
まず、結論から話そうか。
あそこに見える崖があるだろう、そうあの崖。あれが人魚の崖。あそこからとんだら人魚になれるなんて話だけど、その話は真っ赤な嘘だよ。
どうして言い切れるかって? あそこからとぶと人魚になれるって言いだしたのが私だからだよ。
……。
…………。
昔の話だ。私がまだ学生だった頃、この港には多くの船と漁師が集まり、街全体が活気に満ちていた。
私には幼馴染の女の子がいてね、小学校、中学校、高校と私はその子はずっと一緒にいたんだ。もしかしたらこれから先も同じ道を歩いていけるのかもね、なんて青臭い話もしたものさ。
悩みもたくさん打ち明けた。気心の知れた親友のような、苦楽を共にする家族のような――手を取り合う恋人のような……そんな関係でね。心のどこかできっとこの子と結婚するんだろうな、なんて思っていたよ。
ただ、まあ……。その子の父親もこの街の漁師だったんだが、かなりの博打好きでね。
高校を卒業する少し前、どうしてそうなったのか結局詳しい経緯は分からなかったんだが、その父親が博打に大負けしてとんでもない借金を作ってしまってね。その借金のカタとして、船やら家やら、金になりそうなものはとにかく全て持っていかれたそうだ。
しかし、ありとあらゆる物をかき集めても、必要な額には全く届かなかった。そうして差し出す物が無くなると、借金取りは鬼の首を取ったように口を釣り上げて笑ったよ。本当に馬鹿げた話だった……。
父親とその家族が借金を返せるまでその子を連れていく。彼らはそう宣告した。
家族は皆、泣いてせがんだ。親類に、知人に、隣人に助けを求めた。それでも、当時はよくある凋落話(ちょうらくばなし)だと、諫める(いさめる)者はいなかった。
高校を卒業したら東京に。借金のカタとして働かされるということがどういう事か、分からないほど子供じゃない彼女に救いは無かった。
それからしばらくしたある日、彼女は私に、自殺するから最後を見届けてほしいと言ってきた。
私は彼女を止めることも助けることも出来なかった。
今でも鮮明に覚えている。まだ風が冷たかった頃の日曜日。私と彼女は一緒に人魚の崖に行ったんだ。
その子は自殺するために。そして私はその子の最期を見届けるためにね。
私達は互いに別れを伝え合い、その子は崖の先に向かって走っていった。でも、ギリギリ、あと一歩の所で飛ぶことができなかった。
誰だって死ぬのは怖い。どれだけ覚悟を決めていても、最後の一歩は途方もなく恐ろしい。
浮かんだ涙を零さないよう懸命に恐怖を抑え込みながら、彼女は私にこう言ったよ。
ほんの少し、力を貸してほしい、と。
だから私はその子のそばによって、こう言ったんだ。
死ぬと思うから怖いんだ。生まれ変わると思えば怖くない。ここから飛び降りたら人魚に生まれ変わることができる。そう思えば怖くないだろう、ってね。
私の言葉を聞いて、彼女は顔をくしゃくしゃにしながら笑った。
そして私は彼女が飛び降りるのを見届けた。彼女の背中が崖の上から消えてなくなるその瞬間まで、私はずっと彼女を見続けた。
…………彼女の父親が首を吊ったのはその翌日だった。
葬儀を終え、やがて事件も風化していく中、私は彼女の死体が上がるのを待ち続けた。雨の日も風の日も。海が荒れればひょっとすると、とも考えた。しかし、どれだけ打ちつけても、潮が引いても再び彼女が見つかることはなかった。
そんな日々を続けながら、ある時思ったんだ。もしかしたら彼女は死んでいないんじゃないか、本当に人魚になったんじゃないかって。
そう思えば楽になれる気がした。だから私は皆に『その話』をしたんだ。
私はとても恵まれていた。そんな馬鹿みたいなことをなにも言わず聞いてくれる人がいた。寄り添ってくれる友がいた。「きっとそうだ」、「彼女は人魚になって生きている」、なんて話を合わせながら微笑んでくれる家族がいた。
ほどなく、この話は街の中に広まり、やがて街の外へと広がっていった。
そこから先は君が知っている通りだ。この街は人魚になれる街と噂され、あの崖は人魚の崖と呼ばれるようになった。
――
――――
老人は話し終えると、大きく息を吐いた。
「あそこが自殺の名所になってからは悲惨なものだ。街の人間は気味悪がって港に近づかなくなり、水死体が上がる漁場なんて売れるはずもない。もともと漁業を生業に栄えた街だ。客が離れ、漁師が離れれば船はあっという間に姿を消した」
「嘘だったとは言わなかったんですか?」
「言ってみたこともある。だが、私の手を離れ一人歩きを始めた噂話は、もう一人が何か言ったところでどうすることも出来ないほど大きくなりすぎていた」
「だからその話を私に。記事なればこの都市伝説が嘘だったと広まるかもしれないから……」
私の言葉に老人は自嘲気味に笑った。
「分かっているさ、仮にそうなったとしても何も変わりはしない。この街は寂れたままで、人魚に救いを求めてあの崖から飛び降りた者がいることも変わらない」
老人はそういうとゆっくりと椅子から立ち上がった。その腰は曲がり始めていた。
「君はここに来る前、あの崖から飛べば本当に人魚になれると思っていたのかい?」
「いえ」
「そうだろう。誰だってそうさ。あの話を全て信じている人間なんていない。結局、人魚になれるなんて、追い込まれた人間の、最後の一歩を踏み出すための言い訳なんだよ。最初からずっとね」
老人の目が再び海を映す。どれだけの後悔と戦ってきたのだろう。その横顔はどこまでも力強く、ひどく傷ついていた。
「さて、今日は君と話して疲れたから私はもう帰るよ。老人の長話に付き合わせてしまってすまなかったね。」
「いえ……。貴重なお話をありがとうございました」
老人は「気にするな」とでも言うように私の肩をぽんぽんと叩き、港に背を向けた。その背中を見て、私は思い立った質問をぶつけた。
「最後に一つだけ聞かせてほしいんですが、どうして毎日ここで海を見ているんですか?」
老人は振り返る事なく答える。
「今でも待っているんだよ、その子が上がるのを。これは彼女を見届けるという私に課せられた義務だからね」
老人を見送った後、私は彼が座っていた椅子に座り海を眺めた。
何の変哲もない、真っ青な海がそこには広がっていた。
発行日 2020年4月21日
制作 からすとうさぎ
著者 大鳥
編集 那須野里見
【小説】「人魚になれる街」 那須野里見 @nasuno_satomi
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