第4話 待ちわびた鈴の音
「さあ、こっちだよ」
ユニガンの貴族を名乗る男性に連れられて、ベルはカレク湿原に来ていた。
歩幅の広い革靴の後ろをベルが歩く。
この奥でソリクを見つけ保護してくれたという、笑顔を絶やさず立ち振る舞いも穏やかなこの男性。
細やかな金刺繍がなされた袖から覗く手が、行手を示しベルを促した。
(どんどん、カレク湿原の奥へ連れていかれているような……)
「ほんとにソリクがここにいるんですか?」
「ああ、額に十字の白い模様がある黒猫だろう?」
「は、はい!」
「さっきこの奥で弱っているのを見つけたんだ。」
ここ気をつけて。と水溜りを指差してベルをエスコートする男が笑顔で促した先は鬱蒼と木が茂り、いよいよ普通の人が立ち寄らない整備すらされていないエリアだった。
「ほら、この奥だよ。猫にはこの薬をあげるといい。」
男は繊細な金刺繍の装飾がなされたジャケットのポケットを弄ると、ベルに手のひらほどの小さな袋を渡した。しっとりと重みをもったそれは何かが入った麻袋だった。
ベルの手にわずかに触れたその男の手は、やたらとジットリとしていた。
ベルが手のひらに乗せられた麻袋を見つめていると、貴族の男は泥が跳ねることも厭わず、よく磨かれた革靴で未舗装な地へと踏み入っていった。
「……」
ベルは自分の足元へと視線を落とした。
「……あなたが見つけてくれたんですよね?」
「ああ、そうだよ。たまたま見つけて急いで君に知らせに来たんだ。ずいぶん探しているようだったから早く教えてあげなきゃってね。さぁ、こっちへおいで」
男は穏やかに微笑んだ。
ベルはごくりと唾の塊を喉に押し込んだ。
「……私、行きません」
「え?」
「………。
整備された道を歩いて往復しただけで、私の靴はこんなに汚れてるのに……」
今日の湿地の往復により、ベルの赤い靴には泥が跳ね、乾いた汚れがいっぱいにこびりついていた。アルドに制され、歩いていたにも関わらず。
反して男のよく磨かれた革靴は今なお滑らかに光り、裏と側面に真新しい泥水がついているばかりだった。
さっきまでこの未整備のエリアの中に踏み入り、そこから急いで村まで来たと言うにはあまりに綺麗な靴だった。
「……どうしてあなたの靴はそんなに綺麗なんですか?」
今まで笑顔を浮かべていた男の顔から笑みがスッと消えた。
「見つけたぞ!!」
後方から呼び止める青年の声がした。
「アルドお兄ちゃん!」
振り向くと、そこにはアルドが険しい顔で立っていた。
「ベル、そいつから離れるんだ」
「う、うん」
ベルが後ずさり、急いでアルドの後ろへと身を隠す。
「どうしたんだい?私は本当に彼女の探している仔猫のところへ案内したいだけなんだ」
「それは嘘だ」
「うーん……なにか誤解させてしまったかな?」
きっぱりと否定するアルドに、男は貼り付けた笑顔で穏やかに答える。
「親切のつもりが嘘つき呼ばわりとは心外だな。なにか証拠はあるのかい?」
証拠。
ベルが抱いた不審点も証拠というには言い逃れが易く、アルドもまさか自分こそがソリクだからと言うわけにもいかず、急いで頭を回転させる。
「ソ、ソリクなら俺が見つけたからだ!」
「えっほんと!アルドお兄ちゃん!」
後ろにいたベルが、アルドを見上げる。
「この子を人気のないところに連れていって一体何を企んでいる!」
男の顔からは笑顔が完全に消え、恨めしそうな顔でこちらを睨み付けた。
「くそっ バレたなら仕方がない。」
男は舌打ちすると、その姿を変化させた。
青く硬い皮膚はぬめぬめと光り、ギザついた牙を口の端から覗かせてにたりと笑う。
目は落ちくぼみその虹彩に光はない。先ほどの貴族の男の面影はどこにもなく、人の肉を一振りで容易く切り裂けるであろう鋭い爪を持つ手には、自身と同じ身の丈ほどの巨大な斧を掲げていた。
「きゃああ!魔獣!」
「魔獣軍の残党か! ベルは下がってるんだ!」
アルドは急いで腰の剣を抜くと、魔獣に向かって構えた。
「ユニガンで猫を探している子供の話を聞いて利用して食ってやろうと思ったものを……」
「そうはさせるか!」
魔獣が振り下ろした斧の重たい一撃をアルドは剣で受け止める。
剣で力を受け流し、魔獣の腹に蹴りをいれるとあっけなく魔獣は吹き飛ばされ、
間合いを詰めたアルドの剣の切っ先が魔獣の首に狙いを定めた。
「ひぃ! つ、強い!」
「この程度か」
「すまなかった。反省している!だから命だけは…!今日を最後にもうここには来ない!誓おう!」
命乞いをする魔獣に、アルドは魔獣の光のない虹彩をじっと睨み付ける。
「……武器はここに置いていけ。二度と人の領域に来るんじゃないぞ。」
アルドは牽制していた足を魔獣の腹から除けると、剣を収めた。
魔獣は斧を置いてドスドスと一目散に逃げていった。
「アルドお兄ちゃん、助けてくれてありがとう!」
「ああ、危ないところだったな」
「うん。心配かけてごめんなさい。お兄ちゃん、ソリクを見つけてくれたって本当?」
「ああ、元気だよ。今連れてくるからベルはここで待っててくれ」
アルドは猫へ変身するべく人のいない木陰へと姿を隠した。
ベルは待っている間、何となしに男に促された奥を覗き込んでみた。
大きな葉を掻き分け覗いたその先には、もちろん何もない空間が広がっていた。
周囲は大きな植物に囲まれ外からの目を阻んでいた。
もしここに言われるままに入っていたなら、アルドにも見つけることはできなかっただろう。そう考えるとベルはぞっとした。
そういえば、男から渡された麻袋の存在を思い出した。それは小さな手のひらほどの茶色い袋だった。
袋を覗きこむと、そこにはハーブのような香りのするドロリとした泥のようなものが詰まっていた。
「何これ……」
アルドお兄ちゃんに聞いてみよう。そう思っていた時だ。
「にゃーん」
不意に聞こえた鳴き声に、ベルはばっと顔を上げる。
夢みるほど待ちわびたその声は
「ソリク!!!ソリクなの?!」
「にゃーん」
目の前にはずっと行方不明で探し続けていた 額に特徴的な模様のある黒猫がいた。
ベルの問いかけに答えるように大きく鳴くと、ベルの方へと駆け寄ってきた。
ベルが膝をつけ腕を広げると、黒猫はベルの胸へと飛び込んでいった。
「ああ!ソリク!会いたかった!!」
「にゃーん!」
腕いっぱいに抱きしめる。この匂い、この感触。懐かしい!
ソリクの頭に顔をうずめ、胸いっぱいに吸い込むと暖かいお日様の匂いがした。
「あれ?ソリク重たくなった?」
いつものソリクのはずだが、わずかながら違和感があった。
抱きしめたソリクを離し、改めてじっくり見てみると仔猫だったはずのソリクは、ずっしりとした質量をしていて、その顔立ちは丸みがなくなり、四肢も伸び筋肉質になっていた。
「見ない間に随分おっきくなってる?!」
(……キロスの姿だからな……)
クロノス博士の元へ何年もいたソリクはすっかり成長し、とても仔猫とはいえない風貌になっていた。
「きっと、探検してる間にたくましくなったんだねぇ……」
ベルは感慨深そうにそう呟いた。
ベルからすればほんの数か月程のことであり、通常であれば仔猫がここまで成長するわけはないのだが、ベルなりに納得してくれたようだ。
大きくはなったがその鳴き声、毛並み、瞳の色。すべてが知っているソリクだった。
怪我も異常もどこにも見たらない。
「ソリク」
「にゃーん」
「ソリク!」
「にゃーん」
「ソリクだ!!!」
堪らなくなってぎゅっとその腕に再び毛玉を抱きしめると、
その拍子にチリン、と涼やかな音がした。
「あ、私があげた鈴、まだちゃんとついてるね」
嬉しそうにそう言うと、ソリクの首元の藍色のリボンについた金色の鈴を、人先指の先で軽く弾いた。
「ちゃんと帰ってきてくれたんだね」
ソリクの碧色の瞳を見つめながら優しく頭を撫でた。
――あれはずっと昔、ソリクを拾ってから間もなくの頃。
「ソリク。ほら、これあげる」
「にゃーん?」
室内でソリクとゆったりと過ごしていた時のこと。
少女がおもむろに取り出したのは藍色のリボン。そして掌の上で転がるのは、小さな丸い飴玉のような金色の鈴だった。
転がすとチリンと澄んだ音がする。
「きれいな音でしょ」
リボンを鈴の頭の穴に通すと、仔猫の細い首へと回す。
「迷子になっても私が必ず見つけてあげる」
「離ればなれになっても、絶対ここに帰って来れるように。お守りだよ」
ソリクの首の後ろでしっかりと結んでやると、ソリクはすまし顔で胸をはる。
黄金の鈴が勲章のように誇らしげに輝いた。
「ソリク似合う!この藍色のリボンも、ぴったりだね!」
「あたしのお気に入りの髪の毛のリボンと一緒だよ!」
「ソリクだーいすき!」
そういってソリクをぎゅっと抱きしめる。
ベルの髪の毛のリボンと自分の胸元のリボンが交差した。
(そうか……この鈴はベルからもらったものだったのか……)
気が付いた時には、首にこの鈴はついていた。
(てっきりクロノス博士がくれたものだと思っていたが、時を超える前からずっと一緒だったんだな……)
「それにしてもアルドお兄ちゃん遅いなあ?」
アルドがしんみりしていたところに、思わずぎくっと躰がはねる。
(しまった、そっちを忘れてた!)
「もしかしてソリクったら、お兄ちゃん置いてきちゃったの?」
ソリクを抱きかかえながら、ベルは辺りをウロウロと見渡す。
「アルドおにいちゃーん! アルドおにいちゃーん?」
「おかしいなぁ。どこまで行っちゃったんだろ」
(そろそろ戻らないとあやしいか?)
ぴょん、とベルの腕から逃れると草むらへと駆け込んだ。
「あっソリク!どこいくの!」
ベルがこっちに駆け寄る前に変身を解く。
何食わぬ顔でアルドとして戻る。
どんな顔をしてもわざとらしい気がして、アルドは一番自然な顔で戻ったつもりだったが実際ベルの目にはどう映っただろうか。
「ベル」
「あっアルドお兄ちゃん!」
ぱあっと顔を明るく輝かせたベルがアルドに駆け寄る。
「私ソリクに会えたよ!!!ソリクを見つけてくれてありがとう!!」
「すごく逞しくなってたの。かわいい仔猫がちょっと見ないうちにすっかりハンサムになっちゃった!」
ぴょんぴょんと飛んで全身で喜びを表現する。
「そうか、それはよかったな」
思わずくすぐったくなって鼻の下をこする。
「……なんでアルドお兄ちゃんが照れくさそうなの?」
「ええ、いやぁ……」
「まったくソリクったら、どこ行っちゃたの?!せっかくアルドお兄ちゃんが戻ってきたのに」
ベルはキョロキョロと見まわし愛猫の名を呼ぶ。
「ソリクー!」
「にゃー」
「え?」
口を押えた時にはすでに時遅し。目を丸くしたベルと目が合い、固まる。
「……いや、ちょっとした冗談だよ」
「ふふふ、へんなお兄ちゃん!」
「ははは……」
(あぶない。返事をしちゃったじゃないか!)
(これは危険だ。さっさと安心させて、帰ろう!)
「ええとじゃあちょっとソリクを探してくるよ。危ないからベルはここにいてくれ」
「うん、わかった。きっとまだすぐこの辺にいるはずだから」
再び鬱蒼と木が生えた物陰に隠れ、姿を変えてベルの前に現れる。
「にゃーん」
「あ!ソリク!もう!」
腰に手を当てたベルが頬を膨らませる。
「アルドお兄ちゃんが戻るまで、もうどっか行っちゃだめ!」
ぎゅっと抱きしめてソリクを拘束する。
そんな少女を陰から見つめる不穏な影があった。
それは憎しみに顔を歪めさせて、ベルとソリクを睨み付ける。
「くくく……。俺を逃がしたのが運の尽きだったな。あれで終わりと思うな……」
魔獣の男が遠くの木陰からベル達を見つめていた。
「さっきのは作戦の内に過ぎない。
……さあ、そろそろか?」
ベルの足元に落ちている麻袋に入れられたハーブの香りが周囲に蔓延し、静かに過ごしていた湿原の魔物たちがザワザワと落ち着きをなくし始めた。
「さあ、あの娘とあの男を殺せ!」
「俺は後からゆっくりと命乞いをする様を見せてもらうとしよう……」
アルドを探す少女の後方に、ワニ型の魔物のリチャードの群れが迫っていた。
「にゃーにゃー!!!」
(ベル!あぶない!はやく逃げないと)
いち早く周囲の異変に気が付いたソリクはベルの腕から逃れようとジタバタともがくが、
また逃げ出すと思ったベルも離そうとしない。
「ん?急にどうしたのソリク」
「にゃーー!!」
(ベル!逃げるんだ!)
ソリクの視線の先を追い、ベルが迫りくるリチャード達に気が付く。
「きゃああ! ま、魔物……!」
ドスドスドス、と地鳴りのような音と恐ろしい唸り声と共にリチャードの群れががすぐそこまで来ていた。ハーブの香りで興奮したリチャード達の目は血走り、鋭い牙の間からは涎が糸が引く。岩のように大きな拳に握られた剣はギラギラと鈍い光を放っていた。
(今ここで変身をとけば、俺がソリクだとバレてしまう……)
(物陰で変身を解いてる暇はない!)
ベルは逃げようとするが恐怖で足がすくんで、躓いてしまう。
「きゃっ」
(ベル!!)
転んでもなおソリクを手放さない。
恐怖でその瞳には涙を浮かべながらソリクに覆いかぶさる。
「私がソリクを守るんだもん!」
ガアアアアッッと叫び声とともに、リチャードが剣を振りかぶった時、
ソリクはベルと地面の間から渾身の力で抜け出した。
「あっ、だめ! ソリク!!!」
ベルは必死にソリクの黒い躰へ腕を伸ばしたが、あと数寸とどかない。
ベルの手が虚しく宙を掻いたその瞬間、
ソリクの躰が発光し、一瞬の閃光に反射的に目を庇う。
「きゃっ」
再び視界に色が戻ったとき、目の前に飛び込んできたのは、
広くたくましい背中。
すこし癖ある黒い髪。
力強くしなやかな四肢。
―― そして、彼の首もとの鈴が、チリン、と揺れた。
「アルド……お兄ちゃん……」
よく見慣れたその背中は剣を構えて少女をかばうように前に立ちふさがっていた。
その時、なぜかベルは、ソリクがゴブリンの前に立ちふさがって守ってくれた時のことを思い出していた。
「ベル!安全なところに下がるんだ!」」
「う、うん、わかった! アルドお兄ちゃんも気をつけて!」
あっけに取られていたがアルドの声で我に返る。
下がりながら前に駆けだしてしまった自分の愛猫を探す。
「ソリク!! どこ?!」
きょろきょろと見回すがその姿はどこにも見あたらない。
「ソリクなら大丈夫だ」
焦るベルの前に立つアルドが、こちらを見ずにそう言った。
「ちゃんと無事だ」
「えっどうして……」
わかるの。ベルがそう言う前に
「大丈夫だから」
そう、きっぱりと言い切った。
アルドは体と剣をリチャードに構えたまま、顔をこちらへ寄越した。
「これが片づいたら、全部、話すよ」
「え……?」
それは、静かな宣言だった。
決して大きくはない、つぶやきのような声だった。
しかし、水の音や興奮した魔物の声や足音ににかき消されるでもなく、
その瞬間、周囲が一斉に時を止めたかのようにその言葉だけが確実にベルの鼓膜へと届いた。
肩口越しの顔は黒髪で陰っていて、その表情は伺うことができなかった。
いったいどんな顔をしていたのか。
ベルは妙な胸騒ぎを覚えていた。
アルドが放つ光に視界を奪われて狼狽えていたリチャード達が刺激され、
さらに激しくグオオオオオと地響きのような咆哮をあげる。
呻き声と共に、アルドに向かって突進してくる。大きな足が地に着くたびにドスンドスンと地震のような振動と音があたりに響く。
リチャードの岩のような拳が、斬り裂くより叩き潰す方が適当であろう大剣をぶんぶんと振りかざす。その隙に素早く間合いに入り、その腹を切り裂く。
「まずは一匹!」
(なんだか魔物の様子がおかしい。なぜこんなに興奮している?)
リチャード達の動きに落ち着きがない。
ひたすら突進してきては、やみくもに武器を振り回している。
次々と襲い来るチャード達の攻撃を避ける。
一撃一撃は重いが決して素早くはない。避けるのはたやすかった。
しかし避けた先にはベルがいる。そのまま進めさせるわけには行かない。
リチャードの隆起した背中は鋼鉄の鎧のように硬い。
アルドは流れるように姿勢を低くし背中ではなく足首に向けて水平に剣を振るう。
両足の腱を斬られたリチャードがドッと膝をつく。その隙に飛び上がり真上から剣を落とす。ギャオオオオと断末魔の叫びとともに象のように重たいリチャードの巨体が地へ伏せた。
その様子を近くで見ていた魔獣が悪態をつく。
「くそっ役立たずめが!」
「お前は!!」
聞き覚えのある声にアルドが目を向けると、先ほどの魔獣の男が、リチャードの群れの後ろに立っていた。
「リチャードの興奮作用のあるハーブを使ったんだが失敗だったか。突進しては愚直に振り回すだけか。この
そう吐き捨てた。
「魔物たちが急に暴れだしたのはお前のせいか!こいつらはただ静かに暮らしていただけなのに、なんてことを!」
湧き上がってきたすさまじい怒りが眉のあたりに這う。
「二度と立ち入らないと言ったあれは嘘だったのか!」
「馬鹿め!今日を最後にここには来ないと言ったのだ!そして今日がお前たちの最後だ!」
高笑いする魔獣の男を睨み付けながら、リチャードの一撃を避けて、受け止めて、いなす。興奮させられただけのリチャードを殺したくはなかった。
リチャードの強靭な肉体から繰り出される一撃は重く、受け止めるだけでも精一杯だった。リチャードを殺さず、ベルを庇いながらの防戦一方ではアルドの体力が奪われ続ける。圧倒的に劣勢。
この戦い方ができるのは時間の問題だとベルの目にも明らかだった。
(このままじゃアルドお兄ちゃんが……)
なんとかしないと。あたりを見回すと地面に落ちている麻袋が視界に入る。
全部、このハーブが悪いんだ。それならば。
ベルは麻袋を拾い上げると魔獣の男を真っ直ぐに見据えた。
「アルドお兄ちゃん!」
ベルがハーブの入った袋を、魔獣の男に向かって全力で投げる。
「そうか! ベル!」
リチャードの刃を跳ね返し、その反動でよろめいたリチャードの頭を踏んで宙へ飛び出した。ベルが魔獣の男に向けて投げた袋を、アルドが空中で切り裂いた。
魔獣の男はその全身に泥状のハーブを浴びることになった。
「しまっ」
アルドに向かっていたリチャード達が、ハーブの香りに釣られ、グルリと向きを変える。リチャードの血走った目がすべてが魔獣の男を捉えた。
ガアアアアアと獰猛な唸り声をあげて武器を振り回して一直線に進み始めた。
「形勢逆転だな」
アルドも剣を構えて走り出す。
「お前ような卑怯者の居場所は、人の領域にも 魔物の領域にもない。」
狼狽える魔獣の男に向かって宙を跳び、剣を振りあげると、日光に反射した剣先がきらりと光った。
「落ちろ!」
「―――!!!!」
リチャードは斬られた魔獣の男にひとしきり群がった後、ハーブの効き目がきれたのか徐々に落ち着きを取り戻し、静かに自分たちの住処へと帰って行った。
アルドが慣れた様子で剣を振り 血を払うと、チンと剣を鞘へ納め、ベルへ向き直った。
「ふう。怖かっただろ。怪我はないか?」
「うん。アルドお兄ちゃん助けてくれてありがとう」
「ベルもありがとうな」
防戦一方だった状況を打開できたのは、ベルのおかげだ。
ベルはきょろきょろと周囲を見回す。
「でもソリクはまたどっか行っちゃった……」
うつむき、肩を落とす。
「……ベル」
つらい思いをさせてごめん。寂しい思いをさせてごめん。不安な毎日を送らせてごめん。そして、嘘をついてごめん。
この子を安心させることより何を優先させることがあるだろうか。
大切なことがあるんだろうか。
俺の正体、この世界のこと。それを隠し通すことよりも、ベルを安心させたいと思うのは、おれのエゴなのかな。
そもそもこうやって天秤にかけること自体、間違っているのではないだろうか。
こんなこと言っても信じてもらえないって思ったけど、でもきっと俺が決めることじゃないよな。
この子には知る権利がある。
俺がエデンが大切で何があっても助けたいと思う気持ちと、この子がソリクに抱く気持ちは同じなんだから。
中途半端で諦められるわけ、ないんだ。
納得できるわけ、ないんだ。
(今ここでベルの気持ちを見なかった振りをするのは、俺自身も否定されるようなものなのだから……。)
アルドは栗色のおさげの少女の琥珀色の瞳をじっと見つめる。
「……ベル。俺、ベルに謝らないといけないことがあるんだ。……聞いてくれるか?」
「アルドお兄ちゃん……?」
「その前に、場所を変えないか?ここは危ないから……月影の森にしよう」
あそこなら人も少なく、ここよりも安全だ。
それに、あそこは俺の
「俺の、始まりの場所だ」
時空を越える猫ソリクの
――すべての始まりの場所だ。
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