7.桃太郎②
寶井さんと電話で話した翌々日。水曜日の晩だった。会社からの帰り道。桃太郎が人間の姿で待っていた。
「こんばんは、桃」
「まだ呪いは解けていないな」
「それなんだが、何の影響もないので、いっそ放っておいてもいいんじゃないかと思っているよ」
桃は少し声を荒げた。
「いいわけないだろう。呪いはあんただけじゃなく、家族にも不幸をもたらすかもしれないんだぞ」
それは嫌だな。自分自身の不幸よりも、そっちの方が恐ろしい。
「もっと真剣に考えてくれ。だから先生が俺のところに来たんだぞ。わざわざ家にまで」
先生、というのは寶井さんのことだ。光さんがそう呼んでいるからだろうか。俺は今が聞くタイミングだと思った。
「以前、師匠に相談しに行くって言ってたけど、あの人が桃の師匠?」
「違う」
残念ながら、師匠という人には断られたらしい。やむにやまれぬ事情がいくつかあって協力できない、とのことだった。「先生には言わないでもらいたい」と断り、説明を続ける。師匠の協力を取り付けることができず困っていた時に、自分の言葉が通じる不思議な人間のことを思い出した。その人間は「僕で力になれることがあれば言って欲しい」と言っていた。借りを作るのは本意ではないが、他に何も手が思いつかない。とはいえ、師匠以外の人間に協力を仰いだことはないので、寶井さんに事情を話す前に師匠に意見を求めた。
「慎重だな」
「どんな人間だって、そう簡単には本性なんて分からない」
そういや、四国犬は警戒心が強い、みたいなことネットに書いてあったな。
「あの人は得体の知れないところがある。そもそも俺の言葉が理解できる時点で普通の人間ではないだろ」
結論から言うとお師匠さんは寶井さんに相談することに全面的に賛成で、もし協力してくれると言うなら、包み隠さず事情を説明して良い、とのことだった。なぜそこまで信頼できると言い切れるのか。桃太郎自身も訝しんだらしいが、どうも師匠は寶井さんのことを知っているようだった。どういう関係かは桃も教えてもらえなかったらしい。師匠も桃に負けず劣らずクローズドなスタンスなようだ。
「ただし協力してくれる限りはおおいに頼って良いが、彼が協力できない場面が出てきたら、その時は潔く諦めるように」
協力できない場面、というのがどんな場面か想像できなかったが、とりあえずは全面的に頼っていいんだな。なんだか俺もスッキリした。実を言うと俺も、見ず知らずの大人を無条件で頼ってもいいものだろうか、と心のどこかで思っていたのだ。
もう一つ気になっていたことを思い出した。
「この前明治神宮で、寶井さんを紹介してくれた時、お前いつの間にかいなくなってただろ。あれは思いがけず九鬼さんが現れたからか?
「そうだ。光が今、俺を世話してくれていること、もう知ってるんだろう?
「ああ」
庭で放し飼いで、かつ光さん以外はあまり気にかけないので、桃は光さんの留守中を狙って外出しているらしい。その飼い主が突然現れたので、驚いてつい逃げ出してしまったということか。
「お前は人間の姿なんだから、光さんが気づくはずないだろ」
「冷静に考えればそうなんだが動揺してな。それに近しい人には雰囲気で気づかれるかも知れないし、光は普通の人より霊感が強いんだ。万が一ということもある」
そうなのか。俺はちゃんとペットを飼ったことがないのでその感覚は分からない
「それで伊勢や出雲への旅についてだが」
そうだ。本題はそっちだった
「お前には、誰にも見えない俺の呪いが見える。だから普通の人間には分からないものが見つけられるかも知れない。そう思ったんだ」
「そうかも知れないな」
来てくれないか、と思い切って聞いてみる。
「もともとあんたの前に姿を現したのも、その呪いを解くためだ。協力したい。俺を連れていくための作戦も先生から聞いた。ずいぶんいい作戦を思いついたもんだな。先生の発案だろ?」
お前じゃ思いつけないだろ、と言われているようでちょっと癪に障ったが、全くその通りなので、素直に頷いた。俺はこの反応をOKだと解釈した。だがそう上手くはいかない。
「ちょっと問題があるんだ」
「どんな問題だ?」
「俺自身もどうしたらいいのか分からない問題だ」
具体的な中身を聞きたかったんだけど……そう言おうと思って覗き込んだ桃の顔は、とても寂しそうな顔だった。初めて見る表情だ。
「まあ、とりあえず何を悩んでるのか、話してみてくれよ」
「そうだな、悩んでいるのは、俺が世話になっている家の娘のことだ。光じゃない、光の妹だ。
光さんには妹がいたのか。
「その妹さんがどうかしたのか?」
「今、高校生なんだが、問題を抱えていて心配なんだ。俺の元の飼い主も亡くなる直前まで相当気にかけていた」
もしかして、だから九鬼さんの家に来たのだろうか。元の飼い主がなくなった後、その心残りを引き継いで。そう聞いたら、
「そうだ。主人への義務だ」
俺はますます、光さん以外の家族が桃の面倒を見ないことが悲しくなった。こんなに家族思いなのに。
「だからできるだけ流奈から目を離したくないんだ」
一日や二日、目を離しただけで心配になるのはいささか心配性すぎやしないか、とも思うがこいつにとって、それくらい切実なんだろう。
「事情は分かった。もちろん無理強いはしない。お前が行けるタイミングまで待つよ」
「すまない」
そもそも光さんが行くかも分からないしな。
「気にするな。ところでお前の正体、というか人間になれることを光さんや妹さんに言えない決まりでもあるのか」
「この世の常でないものは、あんたのように特別な事情がない限り、見せてはいけないんだ。それに」
「それに?」
「俺は飼い主には犬として飼われたい」
もしかしたらこれも光さんに人間の時の姿を見られたくない理由ではないだろうか。こいつの気持ちを尊重するなら、そもそも桃を連れていくこと自体憚られる。ところでこいつが今日俺に会いに来たってことは、光さんは家にいないってことだろうか。
「今夜は流奈以外の家族はみんな親戚の家に泊まりに行っている。流奈は俺のところには来ない。念のため寝るのを待って、家を抜け出した。幸い庭で放し飼いだからな。それであんたの家に行ったら、あんたの部屋には明かりがついていなかったので、まだ帰っていないと思った。だから待っていた」
俺がすでに寝ているとは思わなかったのだろうか。もう夜十一時なんだけど。いやそれより。
「俺の家知っているのか?」
桃は決まりが悪そうに、
「あんたと最初に会った時、後をつけさせてもらった。あんたが家に入った直後に電気がついた部屋があったので、部屋も把握した。今日はどうしても会いたかったので、もしすでに帰宅していたら窓からノックする予定だった」
「お前、捕まるぞ」
つい苦笑してしまった。
「帰宅途中に会えて良かったよ」
「それにしてもあんたずいぶん遅いんだな。仕事大変なのか?」
「仕事じゃないさ。上司との飲みだったんだ」
そこで考え直して前言を撤回した。
「いや、つまり、やっぱり仕事だな」
「変な仕事だな」
「変な仕事だよ」
まったく変な仕事だ。でも、こうしてこいつと話していると少し気分が良くなった。
「大丈夫か。疲れた顔しているぞ」
「大丈夫だよ、ありがとう」
こいつはやっぱりいい奴だな。考えてみれば、「変なやつ」なだけで、最初からいいやつだった。
「こっちからお前に連絡を取りたい時はどうすればいいんだ? とりあえず家まで訪ねれば庭にいるのか?」
本当はケータイを持っていて欲しい。けど無理だろうな。一応「手に入れられないか」と聞いてみたら、「存在は知っているが、手に入れる方法が分からない」と返答され、即諦めた。
結局、桃と話したい時は、面倒だがこいつの家まで行くしかない。ケータイが使えないことによる圧倒的不便さ! しかし俺はなぜかこの不便さに、心地よさも感じていた。もしかしたら、桃の独特な時間感覚や生活リズムに合わせることで、日常のストレスから解放されているのかも知れない。実はこいつといる時間はとても貴重なものなのではないか。
「ところで寶井さんは、光さんの妹さん……流奈さんのことは知っているのか」
「さあ。俺からはあの人に何も言っていないので、分からない」
「そうか。まあじゃあ俺からもあまり細かい話はしないで、旅行は少し先延ばししたいということだけ伝えとくよ」
感謝を述べて神宮に消えていく桃の後ろ姿が、心なしか元気がないように見えた。たぶん俺はこの時には、桃があの凛々しい四国犬だと信じていたと思う。もともと犬好きの俺は、こいつの力になってあげたいと思っていた。
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