4.先生と大和撫子①

 八月


 犬なのに桃太郎という、ややこしい名前を持つ男、もしくはおすを最後に見てから二ヶ月が過ぎた。しばらく会わないと、また次第に「あれは夢だったんじゃないか」と思うようになり、呪いのことも気にならなくなってきた。

 それに仕事にも職場にも慣れるのに必死だ。研修を終えて現場に配属されると、心に余裕はなくなってきた。同期の高杉くんは優秀だった。同じ部署に配属されるまでほとんど喋ったことはなかったが、工学部出身ということもあって、分析力とか、論理的思考とか、パソコンの扱いとか、デジタルの知識とか、俺とは初期値が全然違う。少なくとも今の時点で彼に勝とうとするのは諦めた。本当は悔しがるべきなんだろうが、そんな気すら起きず、むしろ高杉くんがいてくれるおかげで、なんとか仕事をこなせていると言ってもいい。彼にエクセルを教えてもらうことができなかったら、俺は本当に何もできないまま終わっていたかも知れない。

 そんな高杉くんについて、その有能さ以上に驚いたのが、実家が静岡のお寺である、ということだ。いずれは実家を継ぐ予定で、その時のために経営とかマーケティングを実施でやりたかったというのが入社動機らしい。お坊さんがサラリーマンをやる、というのが不思議な感じだ。それから「今やお寺にも、経営とかマーケティングっていう発想が必要」ということに驚いた。なんというか、神社仏閣は、浮世のビジネスやお金などとは切り離された聖域みたいに考えていたからだ。

 配属になったコンサルティングの部署は、気疲れはするものの拘束時間という面では、かなり恵まれている部署だと思う。ほぼ毎日、遅くても午後九時には会社を出られる。土日もだいたい休める。ブラックからは程遠い。この上、夏休みが短いというのは贅沢だろう。そんな短い夏休み中に、桃太郎は再び俺の前に姿を表した。

 やはり夜であった。大学時代の友人と飲んだ帰り道、見覚えのある長身のすらっとした青年が木陰から姿を現した。しばらく会っていなかったためか、彼の出現に緊張した。

「元気か?」

「久しぶり、元気だ。そっちも元気か?」

「まあまあだ。ところで、お前明日の午後四時半に代々木口に来られるか? 会社を休まなくてはいけないだろうが……」

 会社というものが学校とは違うことは認識しているらしい。ちなみに、代々木口とは、今いる原宿駅から近い方の入り口ではなく、JR代々木駅から近い方の明治神宮への入り口である。

「いや、夏休みだから大丈夫だよ」

「良かった。よろしく頼む」

 青年はわずかに顔をほころばせた、ように見えた。

 そういえば、こいつがちゃんと笑った顔はまだ見たことがない。俺も愛想が良い方では決してない。むしろ悪い方である。正直、今でも無事就職できたのが、信じられないくらいだ。でも、そんな俺から見ても、この男の表情は変化に乏しい。

「何かあるのか?」

「明日話す」

「今日じゃダメなのか?」

「ああ、明日じゃないとダメだ」

 まどろっこしいなと思ったが、我慢した。幸い明日はなんの予定もない。

「分かった。四時半に代々木口だな」

 そういうことになった。桃がまた木陰に消えようとした時、ふと彼の服装がこの前会った時と異なっていることに気がついた。

「お前、どこで夏服調達したんだ?」

「言う必要はない」

「盗んだのか?」

「そうじゃない」

 俺に疑問を抱かせたまま、桃太郎は消えた。


 昼に桃太郎と会うのは不思議な気分だ。四時半ぴったりに代々木口に着くと、彼はもう来ていた。明るい場所で彼をみると、つくづく美青年である。この姿で原宿にいて、スカウトされないのだろうか。

 驚いたことに今日は一人(一匹?)ではなかった。一緒にいたのは若い男性だ。若いといっても俺よりはだいぶ年上で、三十代前半か半ばくらいに見える。会社でその年頃の先輩は第一線でバリバリ仕事をしていて、「俺、仕事しているぜ!」感を周囲に撒き散らしている人が多い。俺は正直「そんなに強く主張しなくても……」と暑苦しく感じてしまうのだが、目の前のこの人からはそんな感じが全然しない。

 ベージュのパンツにライトブルーのシャツ、白のスニーカーという夏らしい爽やかな出で立ち。柔和な表情からは、優しげな印象を受ける。はっきりとした目鼻立ち、アーティスティックな雰囲気を醸し出すゆるいパーマ。桃太郎とはタイプは違うが、これまた俳優みたいに整った造形の顔だ。背も桃太郎と同じくらいで、一八〇センチ以上はあるだろう。ここ最近、会社の外で知り合うやつはイケメンばっかりだ。いったい何をしている人だ? もしかしてこの人が以前言っていた「師匠」だろうか? などと考えていると、紳士的に自己紹介してくれた。

寶井たからいと申します。京都の大学で専任講師をしております。専門は日本神話や民間伝承など、まあ日本文学と民俗学の中間みたいな感じです。僕の時間に合わせていただく形になりすみません。たぶん、貴重な夏休みだったのではないでしょうか」

 相手を安心させる柔らかな話し方だ。この人が講義をしたら、きっと女子学生の人気は高いだろう。俺も自己紹介をした。

「この時間はまだこのあたりは人通りが多いですね。それに立ち話じゃ落ち着きませんから、座れる場所へ行きましょう」

 俺は戸惑った。桃太郎がらみの話を人がいる場所でしたくはない。そんな俺の心中を察したのだろう、寶井さんという人は笑いながら言った。

「大丈夫です。人がいないところですよ。明治神宮の中です」

「中も人がいますよ」

「大丈夫、あと三十分で閉まります」

「そしたら僕たちも出なきゃいけないんじゃ……」

 寶井さんは何事もないように言った。

「僕はここの道場で弓道を習っている、門人です。だから稽古がある日は夜でもいられるんですよ。水木さんは今日、僕の紹介で見学に来たということにしましょう。そうしたら境内から出なくてすみます」

 俺は二十年近く、ほぼ毎日明治神宮の前を通っていたのに、道場があるのを知らなかった。神社に道場とは何やら神聖な感じがして、なかなか趣深い。


 寶井たからいさんの下の名前は耳慣れない感じで、覚えられなかった。この人は和歌山出身で、同県出身の著名な民俗学者にあやかって命名されたらしい。

「多少は今の研究分野と被っているので、まあご利益があったということですかね」

 俺は元ネタのその民俗学者を全く知らなかったので、あいまいに笑った。寶井たからいという苗字で十分珍しいのに、さらに名前まで難しくしなくても、と失礼なことを考えてしまった。

 境内の中、人気のない道場の近くに腰を下ろし、寶井さんは話し始めた。

「話は桃太郎くんから聞きました。きっとすごく混乱したでしょう」

「ええ」

 桃太郎がいる手前、「彼の話、信じます?」とは聞かなかった。

「桃太郎くんとは数ヶ月前にこの神宮で会いまして。その時、『時々来るから困ったことがあれば相談に乗る』と言ったんです。そして先日ここに来た時、彼から水木さんの話を聞いたというわけです」

 そうだとすると「師匠」ではないのかも知れない。

「桃太郎くんのことは、なかなか信じられないでしょう。しかし、私の言葉も信じてもらうしかありませんが、彼にはあなたや私には見えないものが見えます。そして彼は嘘をつきません」

 寶井さんはなんだか楽しんでいるように見える。

「それで呪いについてですが」

 桃太郎についてはそれ以上言うことはないと思ったのか、話題を移した。

「特定の誰かに恨まれた記憶はないと」

「ええ、自分の記憶の限りでは」

「分かりました。おそらくそうなのでしょう。仮にあるとしても、今の世の中で普通の人間が誰かに呪いをかけるなんてそう簡単には出来ないことです」

 そうであって欲しい。誰も彼もが自分の恨みを晴らすために他の人に呪いをかけられるとしたら、恐ろしい世の中になる。

「とすれば、人智を超えた存在が関わっている、と考えるべきです」

 桃太郎には悪いが、初対面の人が「呪い」とか「人智を超えた存在」とか言ってもそれを鵜呑みにすることはできなかった。それがどんなに常識人に見える人であっても。これまでの人生でオカルトや超常現象の類には全く関わらずに生きてきたのだから仕方ない。とはいえ、やはり桃がそばにいる手前、今更話を蒸し返すのも気が引けたので、最大限遠慮気味に言った。

「そんなこと本当にあるんですか? 疑うようでごめんさない。でもこれまでの人生で、こんな話聞いたことなくて」

「確かに普通はないことですね」

 あっさり肯定する。それから少し間をおいて、

「ここ一年の間に出雲大社と伊勢神宮に行ったそうですね」

「はい。去年の十一月に。出雲は友人と。伊勢は一人で」

「出雲大社と伊勢神宮ですか! 日本屈指のパワースポットですね」

 寶井さんは少し興奮気味だ。

「ふーむ、ちょっとその時の様子を思い出せる限り詳しく説明していただけますか?」

 俺は去年の旅について、思い出せる限り詳しく説明した。恥ずかしかったが、蛇を見て怯えた話や、出雲でのやや後ろめたい言動も含めて。寶井さんはしばらく黙って思案している様子であった。いつの間にか夕日が沈みそうになっていた。八月も中旬を過ぎると、だんだん日暮れが早くなってくる。俺は暑いのが苦手なので、夏は好きじゃないのだが、夏の終わりを感じると物悲しくなってくる。今年は夏らしいことを何もしていない。

 隣にいる桃太郎は、さっきから一言も発しない。無理に話題に入ってこようという意思も全くないようだ。かといって話を聞いていないわけではなく、ずっと真剣な表情でこっちを向いている。控えめなのか、必要がなければ話さないというスタンスなのか。木々に囲まれた神宮の夏はゆっくり暮れていく。あたりが暗くなった時、一人の若い女性が近づいてきた。

「先生、こんばんは」

 先生とは、寶井さんのことのようだった。

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