第1部 神話篇

第1章 四国犬

1.新社会人

 ダメ元で受けたコンサル会社から内定をもらえて、就職活動を終了させたのは去年の五月だ。同級生たちからは「奇跡」「信じられない」と言われた。否定できないし、その通りだと思った。俺よりはるかに志も社会適応能力も高い学生でも落ちた企業だったのだから。

 就活の緊張感から解放され、ひたすらだらけまくった後「残りの学生生活を充実させないと」と焦り始めたのは十月になってからである。単純な発想だが、とりあえず旅行に行くことにした。社会人になって何ができないかと考えると、長期の休暇を取ることだ。飲み会やDVD鑑賞なぞは社会人でもできるのだ。

 十一月に出雲に行った。偶然、旧暦十月に出雲大社に日本中の神々が集まる、ということを知ったからである。だから出雲以外では「神無月」、逆に出雲では「神在月」と言うそうだ。旧暦十月、今の暦でいうと十一月下旬である。学生の特権を使って、恋人のいない友人数人と平日に行った。出雲は「縁結びの神社」として有名であり、そもそもの目的はそれだったりする。空港の名前が、すでに「出雲縁結び空港」である。

 俺はそれまで、お寺と神社の区別もつかないくらい神社仏閣には疎く、いわゆるパワースポットにもそれほど興味はなかったが、出雲大社で境内や建築の造りをじっくり見て回っていると、えもいわれぬ畏敬の念を覚え、自分が神聖な場所にいると感じられてきた。設計が優れているのか、本当に見えない力が働いているのか、理屈は分からない。とにかくそう感じたとしか言えない。

 一方で観光地化され過ぎている気もしたので、「なんか文化とか伝統とかを、ビジネスに活用するのって嫌らしいよね。そういうことしなければもっといいのに」とか「なんでもお金儲けにしようとするのって、神様に対する冒涜じゃないのかな」などと調子に乗って喋っていたのを覚えている。今、振り返ると恥ずかしい。あと蛇を見た。参道を出口に向かって歩いていると、脇の木々の合間から一匹の蛇が姿を現し、俺の前を横切ろうとした。俺は蛇が苦手なので、距離をとって通り過ぎるのを待っていた。するとそいつは俺の方に鎌首をもたげ、目があった。ゾクッとした。緊張が分かりやすく現れたのだろう。「ビビり過ぎ。これだから都会っ子は」と友人に笑われたが、仕方がない。本当に蛇は苦手だ。苦手というか、蛇好きには申し訳ないが、生理的に受け付けない。

 とにもかくにも蛇をやり過ごし、出雲大社の出口近くにある島根県立古代出雲歴史博物館を見学した。日本神話の解説が思いの外面白く、興味を持った。空港からレンタカーで移動していた俺たちは、出雲大社と博物館を見学した後、寄り道をしながら、これまた神話ゆかりの温泉宿に向かった。移動中、窓から見える紅葉が実に美しく、もし恋人と来られたら、最高のドライブになっただろう。ただ彼女と縁結びの神社に参拝に行く、というのも変な感じがするが。

 出雲で神話ロマンがくすぐられた俺は、伊勢神宮にも行った。日本神話や神道に疎い俺でも、伊勢が由緒ある場所というのは知っていたからだ。今度は一緒に行く友人が見つからなかったため、突貫一人旅だった。伊勢一帯は江戸時代から観光地化されているため、出雲大社よりもさらに商業臭が強かったが、それでも背の高い木々の中に佇む内宮ないくうは神秘的だった。また内宮周辺のおはらい町は、江戸時代のお伊勢参りを忍ばせる活気があり、それはそれで楽しめた。

 しかし、どうやら熱しやすく冷めやすい性格のようで、日本神話への旅はそこで打ち止め、興味もあっという間に薄れていった。あとは友人と沖縄、スノボ、ヨーロッパ旅行という割と定番のメニューをこなし、学生生活最後の一年で「旅行」という素敵な思い出ができた。


 *


 五月


「なんか最近デジタルトランスフォーメーション、デジタルトランスフォーメーションって言われているけど、デジタルトランスフォーメーションってなに? もう色々なことについていけなくて不安だわ」

 九時過ぎ。掃除をしながら、ニュースを横目に見ながら母が聞いてきた。

 三回も言わなくてもいいのに。デジタルトランスフォーメーションって言いたいだけじゃないのか? 母が剥いてくれたびわを食べながら、深く考えずに答える。

「よく分からない」

「そんなんで、会社大丈夫なの?」

「分からない」

 今度は母は呆れたようだった。でも俺も本当に分からないのだ。デジタルトランスフォーメーションが具体的になんなのかも、会社でうまくやっていけるのかも。

 俺は入社してからも実家暮らしである。一人暮らしも考えたがJR原宿駅まで徒歩十分でいけるこの家から出るほど強い理由もなかった。とりあえず月五万円収めることで、食住の心配はない。使い慣れた部屋も、広くはないが不自由はしていない。少し物件調べもしてみたが、この金額で、同じ条件で、これ以上の部屋があるとは思えなかった。俺は一人っ子で、親との関係も悪くはない。母親とも、一緒に出かけたりはしないが、時間があれば普通に会話する程度には仲は良い。

 なんで母が急にデジタルトランスフォーメーションの話をしたのか少し気になったので、聞いてみたら、母の実家の話になった。母の父、つまり祖父が秋田で営んでいる地元の小さな不動産会社は、デジタル化が全然進んでいないらしい。

「別に仕事に支障がなければ、いいんじゃないの? だっておじいちゃんとこだけじゃなくて、街全体そんなに進んでないんでしょ?」

「不安らしいのよ。今は大丈夫だけど、世の中どんどん変わっていくのに、自分たちだけ変わらなくていいのかって。東京とか大阪とか大都市は人が集まってるから自然と発展していくんだけど、地方は差があるみたい。国がテコ入れしてくれるところはいいけど、そうじゃないところは、なかなか自力で変われないのよ。観光地としてもそんなに認知度があるわけじゃないし」

「由利本荘はのどかなのが良いんだから、あんまりデジタル化が進んだら、俺は逆にいやだなあ。それにこれまでなんとかなっていたんだから、無理して観光地化する必要もないと思うけど」

 由利本荘とは秋田県南部に位置する日本海に面した市である。

「あんたはたまに遊びに行くだけだからいいけど、住んでる人たちは自分たちの生活をもっと便利にしていきたいし、もっと豊かな暮らしがしたいの」

「そうか。まあどっちにしろ俺はデジタルとかITとかそんなに興味ないな。誰かが生活便利にしてくれるなら嬉しいけど」

 我ながら他力本願だ。こんなんでコンサル会社やっていけるのだろうか。やはり就職できたのは、何かの間違いではなかったか。俺は話題を変える。

「ところで父さん週末には退院できるんだろ?」

「ええ。ただの胃腸炎で良かった」

 滅多に病気にかからない父が、腹痛を訴え病院に行きそのまま入院になったのはショックだった。

「やっぱり年かしらねえ」

「寂しいこと言うなよ」

 口に出したら本当に寂しい気持ちになってしまい、話題を間違えたと若干後悔した。明日も会社なのに、暗い気分で一日を終えたくない。

「このびわ、美味しいな」

「でしょ。ふるさと納税で試してみたの」

 うちは父母ともに娯楽とかファッションとかにはあまりお金はかけないが、昔から食材にはこだわっている。これも実家から出られない小さな理由の一つである。

 入社して一ヶ月。ゴールデンウィーク前までは研修期間だったので学校の延長線上のような平穏な日々だったが、いよいよ配属が決まると期待よりも不安が大きい。

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