3. 腐敗した果実
ある日を境に、新しい記憶を抱くことができなくなった。その日のことまでは覚えているのに、その日以降のとは全く覚えられていない。そのXデーは、夫、律の誕生日である。
事故に遭った、とか、律と喧嘩をした、とか、そんなきっかけになるようなことは何もない。
それなのに、私は目覚めれば毎回、九月三日なのだ。そして、カレンダーを見て首を傾げ、起きてきた律に本当の日付を教えてもらい、その一日が始まるという朝だった。
「さっちゃん」
日曜日の午後、律が手招きして私を呼ぶ。律は背が高い。私と十五センチ以上の差がある。私も背が低い方ではないと思うのだけれど。律の視線を体感してみたい、一度そう言ったことがある。まだ結婚する前。律は私を抱き上げてくれて、少しだけ、違う世界が見えた気がしたのを覚えている。
律との大事な記憶。小さなものから、大きなものまで。たくさん。たくさん。今は、重ねることができない、けれど。
「さっちゃん、来て」
近くに寄れば、律から抱き締められる。突然のことに、私は驚く。
「律、どうしたの?」
「ん?ぎゅうっとしたくなったから」
律は優しいと思う。記憶障害を持つ妻を、こんなにも愛してくれるのだから。
私たちはきっと、子供をこの腕に抱くことができないだろう。
それでも、それがわかっていても、律と一緒にいたいという気持ちはずっとずっと脳にあり続ける。この、腐敗した果実のような、飾りのような脳でも、その気持ちはずっと留め置いてくれている。
私も、律の身体に腕を回す。
ああ、愛しい。
この、感情の気付きも、明日の朝には忘れてしまうのだけれど。
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