第八章
8-1 朝方のラクスフェルド上空
朝方のラクスフェルド上空からはすっかり雨雲が去っていた。晴れ渡る青空はどこまでも澄み切って、雨により空気中の塵芥を洗い流されたようだ。オーリア国王騎士団駐屯地の周辺では朝陽を浴び、新緑が映えていた。
「以前より思っていたのですが──」
砦の格子窓から外を眺めながらフィリドールが言った。
「国王騎士団の駐屯地は、なぜこのような場所にあるのですか」
「このような場所とは?」
自身の執務室で事務処理をしていたクリスピンは、書類の文字を目で追いながらそう訊き返した。
「丸太杭で囲んだだけの砦では、あまりにも守りが薄い。人員を駐屯させるならばブルーモス要塞が適切でしょうに。なぜ防戦で不利な市壁の外に」
「ブルーモスはラクスフェルド城と王族を守るための要塞だ。騎士がこもるところではない。有事においては常に先駆するのが騎士ではないか。ゆえに、国王騎士団の駐屯地はここなのだ」
「なるほど」
軽く感銘を受けたフィリドールは両の眉を吊りあげた。国難とあれば危地とて迷わず先駆ける──フィリドールは、クリスピンが建前でなくそれを実践する人物だと知っていた。
署名した書類に吸い取り砂を振りかけ、ほかの羊皮紙と重ねると、騎士団長は椅子の背もたれに身体を預けた。彼はここ数日、ろくに睡眠もとらず細務に明け暮れていた。腕を回し肩をほぐしながら、両足をのばして楽な姿勢をとる。自然とうめき声が喉より漏れた。
「フィリドール、きみがここを訪れるとはめずらしいな。また今日はどうして?」
「ええ。少々、確かめたいことがあって」
「ほう」
フィリドールは窓から離れて応接用の長椅子に腰掛けた。その間、どうやって切り出したものか迷ったが、よい方法は思いつかなかった。なので、彼はざっくりと端的に切り出した。
「しかしクリスピン卿、感染性のあるゾンビとは大変な事態となりましたな」
上を向き目のあいだを指でつまんでいたクリスピンは、ふと表情を硬くしてフィリドールのほうへ首を回した。黒いローブの死霊術師はともかく、ゾンビについては、まだごく一部の者しか知らないはずの案件だった。
「誰に聞いた?」
「モロー枢機卿です」
「あいつが? なんと言われたのだ?」
「黒ローブを召し捕る際に手を貸してほしいと要請が。正体不明の死霊術師が相手では、いざというときなにが起こるかわからぬと危惧しておられるようです。魔術師を制するには魔術師をあてるということなのでしょう」
「王宮魔術師はユエニの枢機卿に従う立場ではなかろう。察するに、難癖をつけて駆り出された、といったところか」
「まさしく」
的確なクリスピンの推量にフィリドールは薄く笑った。
「モローはきみを軽く扱い、自尊心を満たしたいだけだ。あるいは保険だな。不手際で黒ローブを取り逃したとき、責任を押しつけるための」
「わたしはそれを承知で引き受けたのです。危急の事態、それにローゼンヴァッフェ様が絡んでいるとなれば、あの方の弟子であるわたしが助力するのも筋かと」
「そうか。では、わたしに異存はない。もともと本件に関しては神聖騎士団の主導で捜査が行われているしな」
「よろしいのですか。騎士たちにもゾンビのことは伏せられていると聞きましたが」
「今回は事が事だ。情報の統制は致し方あるまい」
「部下を危険にさらしても?」
「さよう。迂闊に事実を広めれば無用な騒ぎとなる。ただしオーリア軍の医務局には、万が一の場合に備え指示を与えてある。そのようなことにならぬのを願うが」
騎士団の古参であるクリスピンは経験豊富な叩き上げだ。その彼の判断ならば問題はあるまい。フィリドールが国王騎士団の駐屯地を訪れたのは、モローの独裁的な指揮で事態が混迷しているのではと思ったからだった。が、どうやら杞憂のようである。
「それを聞いて安心しました」
フィリドールが長椅子から腰をあげた。
「もうゆくのか」
「はい、わたしはこれで。徹夜は身体に障りますよ。どうかご自愛ください」
クリスピンの執務室を辞したフィリドールは砦の裏口から外に出た。そこは砦と一体になっている市壁の内側にあり、近くに箱馬車を待たせてあった。フィリドールが御者に告げたつぎのゆく先は、ロザリーフ大聖堂である。途中の道すがら、市街では何度か国王騎士たちの姿を見かけた。どれも板金鎧を着込んだ、いかめしい装いだった。おそらくはゾンビ対策だろう。たしかにクリスピンは万全を期している。しかし平素とはちがう様子に戸惑う市民もいるかもしれない。フィリドール自身も、それを見て心がざわめく感じがした。
ロザリーフ大聖堂の裏手に馬車で乗りつけると、すぐに出迎えが現れた。いま大聖堂の診療施設にいるローゼンヴァッフェへ面会したいという旨は、すでに伝えてあった。控え目にしゃべるユエニの僧侶が、フィリドールを診療施設まで案内した。緑の芝生、手入れのゆき届いた庭木、噴水や水盤など、贅を凝らした庭園を横目にしばらく歩いた。どこか遠くから賛美歌が聞こえる。朝の礼拝に訪れたユエニの信徒たちは皆、板石張りの通路を歩むフィリドールとすれちがうたびに笑顔と礼を欠かさなかった。外と打って変わり、見かけ上ここは平和だ。
大聖堂の診療施設は平屋建ての小さなものだった。敷地の隅にあるそこには癒し手がおり、病人や怪我人の治療にあたっている。ただし、その奇跡を使った治療を受けられるのは、オーリア正教へ多額の浄財を寄進した一部の者たちのみにかぎる。
フィリドールを案内する僧侶の話では、ローゼンヴァッフェは診療施設と棟つづきの建物にいるという。長期の治療が必要な者らが滞在する場所である。僧侶に導かれフィリドールがそこへ足を踏み入れると、毒中和の呪文により広範囲で浄化されているのがわかった。ほかの患者はすでに他所へ移されており、一種の隔離だが、ゾンビ因子感染の危険性を考えれば仕方がない。
扉が並んだ廊下で案内役だった僧侶と別れたあと、フィリドールはいちばん奥の部屋の前に立った。扉をノックすると、気のない寝言のような声がそれに応じた。扉を静かに開け、なかに入る。狭くはないが簡素な室内にある寝台ではシーツが膨らんでおり、上に開いた本が立っていた。そして、ふいに本がぱたっと倒れると、そこになつかしい師の顔が現れた。
「おお、リージスか」
読書用の眼鏡をずらし、寝台に寝ていたローゼンヴァッフェが目を細めて言った。後ろ手に扉を閉めたフィリドールは軽く頭をさげてから、寝台の横にある丸椅子に座った。
ローゼンヴァッフェがフィリドールに筆頭王宮魔術師の席を譲ったのは七年前。ふたりが顔を合わせるのはそれ以来だった。師弟時代は良好な関係であったものの、いささか若くして要職に就いたフィリドールが忙しさにかまけていたのと、王宮を去ったローゼンヴァッフェが世捨て人のような生活に入ってしまったのが、疎遠の主な原因といえよう。
「ご無沙汰しておりました。お身体の加減はいかがです?」
「ここはユエニの総本山じゃぞ。死んでも生き返るわい」
そのとぼけたローゼンヴァッフェの口ぶりは、あいかわらずだ。フィリドールの顔に思わず笑みがこぼれる。
「しかしゾンビになってからまた蘇るとは、この歳ながら貴重な体験をしたわい。うほほ」
「それで、いったいどういう経緯なのです?」
「なんじゃい。わしの身を案じて見舞いにきたのかと思えば、さっそく事情聴取か」
「ここへきた目的は、その両方ですよ。大筋はモロー枢機卿から聞きました。彼はあなたがゾンビの原因だとも言っていた。ほんとうなのですか」
「んー、まあ半分はな」
「とおっしゃいますと?」
膝を乗り出してくる弟子にローゼンヴァッフェは渋い顔で口ごもった。しかしフィリドールは追求する手を緩めない。
「包み隠さずお話ししていただきますぞ。この件、もはやただのゾンビ騒動ではありません」
「大げさに言うでない。わしはただ、ゾンビをなんか便利なことに使えないかなーって思っただけじゃぞ」
「ゾンビの用途や死体の調達手段については目をつむりましょう。わたしがお伺いしたいのは、あなたにゾンビパウダーを売り渡した黒いローブの死霊術師のことです」
「ああ、またか。それなら神聖騎士団に締めあげられて、洗いざらいしゃべっちまったわい。モローの奴め、か弱い老人を異端のように扱いおってからに」
「黒ローブとは顔を合わせたのでしょう。その者に見覚えはなかったのですか」
「ないない。あれば話しておる」
ローゼンヴァッフェは煩わしそうに顔をしかめた。
「何者かの陰謀では? あなたを陥れようとする者に心あたりは?」
「現役のころならいざ知らず、わしはもう引退した身じゃからな。それはなかろう」
ならば国王騎士団、神聖騎士団、そしてミロワの角笛という三つの組織から追われている黒ローブの目的は、いったいなんなのだ。フィリドールは床に目を落とし黙考した。黒ローブに関しては、ゾンビのほかに郊外の墓地で召喚陣を用い、アンデッドを召喚していたという新情報もある。なにかラクスフェルド内で不穏な活動しているのはまちがいない。だがどれも断片的であり、黒ローブの目的の全貌はいまだ見えてこない。
「どうやら手詰まりですな。モロー枢機卿の話では、黒ローブはフィーンドに与する者のようですが」
「フィーンドか。厄介な連中よ」
とローゼンヴァッフェ。
「はい。それを追って、ミロワの角笛がラクスフェルドへ現れたようです」
「あやつらとフィーンドは天敵どうしじゃからな、さもありなん。──待てよ、となると、黒ローブの目的はステラかのう」
「ステラ? 誰ですそれは」
「ゴック男爵のところで居候している娘じゃよ」
「たしか、新興貴族の?」
面識はないが、魔術師組合の絡みでフィリドールはゴックの名前だけは知っていた。
「うむ。素性はよくわからんが、どうもわけありな娘のようでなあ。わしの見立てでは、桁外れな魔術の使い手じゃぞ。あの手練、おそらくはミロワ・オーダーで培ったものにちがいない。おまえも緋の妖星という通り名には聞きおぼえがあろう」
「緋の妖星……噂ばかりが先行しているようですが、かなりの腕を持つ女魔術師だとは耳にしたことがあります。それがラクスフェルドにいたとは」
「ミロワの角笛である彼女を狙って、フィーンドが黒ローブを差し向けたと考えればどうだ」
「たしかに、いくらかは腑に落ちますな」
となれば、今回のはオーリア王国とは無関係の外部勢力が、ラクスフェルドを舞台に騒動を巻き起こしているということである。思いもよらぬ、とんだとばっちりだ。フィリドールは被ったはた迷惑にあきれ、同時に心の内でローゼンヴァッフェがただ巻き込まれただけだったのにほっとした。
「ほれみい。やっぱりわしは無実じゃろうが。いや、むしろ被害者ではないか」
「なにをおっしゃいます。平素の振る舞いが乱れているから、そういった輩につけこまれるのです。宮仕えから離れて野に下ったとはいえ、自重してもらわねば困りますぞ」
「はい……」
ぴしゃりと弟子に窘められ、しゅんとなるローゼンヴァッフェ。
ふたりの話がひと段落ついたところを見計らったかに、誰かが部屋の扉をノックした。フィリドールが応じると、扉が開いて戸口にひとりの男が姿を現す。紫紺のマントをはおったユエニの戦僧──神聖騎士団だ。
黙礼し、大股で部屋を横切った男はフィリドールのそばまでくると、身を屈めて耳打ちするように小声で告げた。
「黒ローブの居所が判明しました。旧市街です」
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