7-4 慣れない非実体状態に

 慣れない非実体状態に戸惑いつつ、ともかくペルはラクスフェルド市街へと向かった。それにしても、落ち着いてみれば幽霊とはなかなか便利なものだった。まず念ずれば空を自由に飛ぶことができる。さらに実体がないゆえ、障害物によって行く手を阻まれることがない。ラクスフェルドを守っている厚い市壁でも、おかまいなく素通りできるのだ。いまならば雨粒が身体にあたることもなく、そういえば暑さも寒さも感じない。実に快適である。そこでペルはふと、実体を持たない自分が地面に潜ったらどうなるのかと思いつく。よし、やってみよう。すると身体はなんなく地面を通過するが、地中へは光が届かないので先がまったく見えない。真っ暗闇のなかで上下感覚がなくなり、あやうく地表へもどれなくなるところだった。あぶないあぶない。さらに幽霊として気になるのは、ほんとうに霊感の鋭い者にしかこちらが見えないのかという点である。街の上空にさしかかったペルは、ためしに下へ降りて人前に姿をさらしてみた。けっこうな人通りのある路地だったが、なんら反応はなかったので、どうやらその場にいる人々には認識されなかったようだ。それでも野良猫の近くを通ったとき、毛を逆立ててしゃーっと威嚇してきたので、一部の動物には見えたりするのかもしれない。

 幽霊、すばらしいじゃないか。高所から街全体を俯瞰したり、普段は入ることのできない国王騎士団の駐屯地内をのぞいたりと、思わず本来の目的を忘れそうになるペルだった。が、あまり遊んではいられない。ステラが言うには、身体と魂が切り離されて長い時間が過ぎると大変なことが起きるらしい。ペルにはまだまだこの世でやり残したことがあった。はやく女子寮の幽霊を捜しにいったほうがよいだろう。

 幽霊ならば目的地まで一直線である。翰林院にはすぐに着いた。雨天ということもあり、構内に人影はまばらだ。ペルは学舎と少し離れた場所にあるレナの女子寮へ急いだ。高等部の修練生向け寄宿舎は二棟あり、敷地の北東に位置する幅の広い遊歩道を挟んで、それらが向かい合っている。その男子寮と女子寮で生活しているのは、およそ一五〇人足らず。ペルもそのうちのひとりだった。

 さて、まずはどうやって幽霊を見つけようか。ペルが遊歩道の上空で迷っていると、考える間もなく異変が目についた。女子寮の二階の壁から、人の形をした燐光がふわふわと外へ出てきたのだ。まごうことなき幽霊だ。ペルが女子寮に近づいて窓からなかを窺うと、一階の談話室で数人の寮生がおしゃべりに夢中となっている。そこでは長椅子に座った四人の女の子たちが見えたが、すぐ近くのひとり掛けの椅子にも幽霊の姿があった。しかしやはりというか、誰も気づいている様子はない。

 レナの言っていたことは本当だった。そしてよく見れば女子寮だけでなく、男子寮の周りでも何体かの幽霊がうろついているのにペルはおどろく。彼は背筋にぞぞっと、悪寒のようなものを感じた。待ってくれ、じゃあもしかして、ぼくのお風呂もあいつらにのぞかれていたのか。いやべつに見られて困る身体ではないが、せめて最低限のプライバシーは守ってほしい。若い男の子だし。

 ついに事態はレナだけの問題ではなくなった。狼狽したペルは話が聞けそうな幽霊を求めて、あたりを見回す。しかしどれも死人みたいな顔をしていて、ちょっと近寄りがたい。幽霊であるから当然といえば当然なのだが。

 石畳の遊歩道に降り立ち、途方に暮れるペル。すると、近くのベンチに一体の幽霊が腰掛けているのが目にとまった。その幽霊は中年の女性といった容貌で、面持ちは沈んでいるがやさしそうだ。もう選り好みしている場合ではない。ペルは彼女に歩み寄り、おずおずと声をかけた。

「あのう、すみません──」

 すると、青白く発光して見える幽霊が、ゆっくりとペルのほうを向いた。

「あら、あなた翰林院の生徒さんね」

「はい。高等部の一年生です」

「知ってるわ。たまに見かけるもの。朝、遅刻しそうになって男子寮からあわてて出てくるのをね」

「あ、ぼくのことご存じなんですか?」

 と意外そうな顔をするペル。

「ええ。わたし、ここにずうっと座っているのよ。翰林院の若い人たちはいいわ、見ているとこっちまで元気になるから。でもあなた、どうして幽霊なんかになっちゃったの?」

 ペルは返答に困った。まさかほんとうのことを言うわけにはゆくまい。そもそも古代魔術で魂と身体を分離したなどと、信じてもらえるかどうか。

「えっと、実は、このあいだ暴れ馬に踏んづけられまして」

「まあ、若い身空で気の毒に。だめよ、大きな通りを歩くときは気をつけないと。あ、死んでるんだからもう遅いわね、ふふ」

「あはは……あのそれで、ここでなにをしてらっしゃるんですか」

「なにって、そうねえ、誰かを待っていた気がするけど、忘れたわ。もうずいぶん昔のことだし」

 そう言うと中年女性の幽霊は寂しげな表情をした。幽霊は皆、この世に未練を残しているらしいので、彼女の生前に関係することなのだろう。あまり深く訊かないほうがよさそうだ。察したペルはすぐに話題を変えた。

「それにしても、幽霊ってたくさんいるんですね。普段からこんなにいるのかな? ぼく、幽霊になってから日が浅いので、よくわからないんですけど」

「いいえ、とんでもない。数が増えたのはつい最近よ。ほら、街の裏に共同墓地があるでしょう。あそこからやってきたみたい。やっぱりみんな幽霊になっても人恋しいのかしらねえ」

「裏の共同墓地──」

 たしかにラクスフェルドの市壁の外、北側には大きな墓地がある。ペルは翰林院からそう遠くはないそちらへ首を回した。なるほど幽霊は死者の魂であるから、死者を弔う墓地からくるというのは道理だ。

 役に立ちそうな情報が得られた。ペルは女性の幽霊に向き直ると、

「ぼく、ちょっと墓地の様子を見てきます。調べたいことがあるので」

「そう。でも気をつけてね、たまにガラの悪い幽霊がいるから。悪霊っていうのかしら、ああいうのは話が通じないのよ」

「はい。ありがとうございました。お話しできてよかったです」

 ぺこりと頭さげてお礼を言うと、ペルは急いで寄宿舎を飛び越えて共同墓地へと向かった。

 ラクスフェルドの外れにある共同墓地は、街の住人たちによって管理されるごく一般的な墓所だ。よほどの富裕層や貴族でない者が亡くなると、ほぼそこへ埋葬される。ペルはラクスフェルドの北側から市壁をすり抜けると、地上に見える細い閑道を辿った。あまり使われることのない道は雨でぬかるんでいたが、いまの空を飛ぶことのできるペルならばなにも問題ない。まもなく緩い登り坂となり、下では雑木が繁りはじめる。共同墓地はこの雑木林の先にあるのだ。

 降りしきる雨に加え、ねじくれた椚や欅の木が繁っており、あたりは陰鬱とした雰囲気だった。墓場へ向かっているといういまの状況がそう思わせるのだろうか。やがて、木々の梢すれすれに飛んでいるペルの目に共同墓地を囲む塀が映った。そのもっと手前、ペルと共同墓地とのあいだには、幽霊らしき燐光が漂っている。

 ペルが慎重にそれへ近づくと、いままで出会ってきた幽霊とは見た目がちがう。人の形をしていないのだ。大きな人間の頭だけの形態で、その表情は苦しげにゆがんでいた。幽霊というよりは、人の感情が具現化した思念体とでも表現したほうが、しっくりくる。

 危険な感じがした。さっき女性の幽霊に気をつけるよう忠告された悪霊かもしれない。安易に関わらないほうがよいだろう。ペルはそう考えて、思念体を避けて通ろうとした。が、彼の気配を感じ取ったのか、空中に浮遊していた思念体が急に向きを変えた。

 まずい。目が合ってしまった。するとペルが逃げる間もなく、思念体はするすると彼に接近してきた。

「うっうぉぉれはぁぁぁ誰だぁぁぁ!」

 ペルの目の前までくるや、思念体が叫ぶように言った。だが自分が誰とはどういうことだ。第一声からして支離滅裂である。

「えっ!? なんですか、どうしたんですかいったい!?」

「うぉまえはぁぁぁぁ誰だぁぁぁ!」

「ぼ、ぼくは翰林院の生徒ですけど。あの、あなた幽霊ですよね?」

「うぉれはぁぁ解き放たれたぁぁぁ! 親切なぁぁ死霊術師さんにぃぃぃぃ!」

「死霊術師?」

 ペルの顔がふと曇った。死霊術師といえば、彼には心当たりがある。

「──その人って、もしかして黒いローブの?」

「そう! それそれぇぇぇぇぇ!」

 いまの時世で、黒いローブの死霊術師などそういるものではない。ゾンビ騒動のときにローゼンヴァッフェから聞いた死霊術師と見てまちがいあるまい。まさかこの幽霊騒動にも関係していたとは。なりゆきとはいえ、意外な事実が判明してしまった。

 ちょっと恐いけど、もう少し話を聞いてみるべきかもしれないとペルは思った。しかし相手の思念体はまさに興奮状態といった様相だ。

「とにかく落ち着いてください。これじゃ話ができませんから」

 とペル。

「うっ、うぉまえぇぇ、うぉれを仲魔にしたいのかぁ?」

「なかま?」

 よくわからない展開に戸惑ってしまうペル。もしかしてこの思念体は、おなじ幽霊として自分に親近感をおぼえているのだろうか。

「……マッ貨くれ」

「は?」

 いきなり現実的な要求をしてきた思念体に、ペルは拍子抜けした。

「マッ貨って、たしかフィーンドのおカネですよね。ぼく、そんなの持ってませんよ」

「はいだめぇぇぇぇうぉまえケチぃぃぃぃぃ! ケチケチケチケチケチぃぃぃ!」

 いちど落ち着きかけた思念体は、またマッドな口調にもどってしまった。どうやら会話の運びに失敗したようだ。そして思念体はくわっと口を大きく開けると、ペルを丸かじりにでもするかに襲いかかってきた。

「わあっ!」

 ペルは横に飛んで思念体の攻撃を寸前でかわした。だが相手のほうも空中ですばやく方向転換すると、悪意のこもった目でペルをにらみつけた。

 もう話をするどころではなくなった。ふたたび思念体がペルに突進してきた。非実体状態は物理攻撃を受けつけないとはいえ、あの思念体はどうもふつうではなかった。おなじ幽霊に対して、なにかしらダメージを与える手段を持っているのかもしれない。やがて空の上でペルと思念体の追いかけっこがはじまる。が、ペルは防戦一方である。彼は死に物狂いでもがくように宙を飛び回った。そして気づけば、空のかなり高いところにまで上昇していた。振り返ると、もう思念体の姿はなかった。なんとか逃げきることができたようだ。

 ほっと息をついたペルの眼下には、共同墓地の全景が広がる。そして彼は、その墓地のあたりでおびただしい数の青白い光が蝟集しているのを目撃した。やはり幽霊たちの発生源は、あの共同墓地のようだ。さっきの思念体は自分が解き放たれたと言っていた。とすれば、おそらく黒いローブの死霊術師が共同墓地でなにか禁忌を犯したのではないだろうか。目的はわからなかったものの、現段階で幽霊大量発生の原因としては、そう考えるのが妥当だ。

 いったい共同墓地でなにが行われたのかは、考えたくもない。もう調査はこれで十分だろう。ペルは大急ぎで、ステラとレナが待つ魔術師組合の本部まで飛んで帰った。

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