7-2 オーリア王国の王族が

 オーリア王国の王族が住まうラクスフェルド城は、北側にある双子山の裾野を利用し、城下を見おろす場所に建てられている。その城とラクスフェルド市街の中間地点には、ブルーモスと名づけられた要塞があった。下手から城へ攻めてきた外敵に対する、最後の要衝である。常時、多くの兵が配される要塞には武器庫や糧食庫のほか低級武官の住まいなどもあり、それ自体が小さな街のようになっていた。

 深夜、輪番の夜警とて気が緩む時刻。篠突く雨が篝火さえも消してしまい、ブルーモス要塞はすっぽりと夜に包まれていた。しかしその闇のなかにあって、とある一画にぽつりと光源が見える。ひときわ大きな建造物の壁に嵌められた窓の硝子が、淡い光を反射している。それは普段、オーリア王国軍が司令部として使っている煉瓦造りの建物だった。

 どうやら司令部では、この真夜中にまだ誰かが起きているようだ。窓のそばにある一階から地下へ降りる階段の先で、ぼんやりと黄色い光が揺れていた。地階は牢獄である。だがいまそこに並ぶ檻房は空ばかりで、罪人が収められているものはひとつしかない。房内の冷たい石床に突っ伏した罪人の男は、腰布を巻いただけの姿で、さらに手足を太い鎖で繋がれている。やけに厳重で、非人道的な処遇といえよう。そしてその様子を、ひとりの男が鉄格子を隔てた外よりじっと見つめていた。身なりからして獄卒ではあるまい。彼はこの場にそぐわぬ、洗練された魔術師風の青いローブを身につけているのだ。

 ローブを着た男の名は、フィリドールといった。濃い青のローブはオーリア王国が召し抱える最高位の魔術師としての証。つまるところ、彼は王宮魔術師である。

 いくらかの時間が過ぎた。ふいに、うめき声が聞こえた。檻房の罪人が悶えはじめ、それから、はげしく咳き込んだ。

「モロー殿」

 フィリドールが険しい表情でいずこかへと呼びかける。すると彼の背後で椅子に座り、船を漕いでいた枢機卿のモローが、はっとなり目を覚ました。モローは微睡みながら手に持っていた酒杯を卓に置くと、角灯を携えてフィリドールの隣へと並んだ。ふたりの前で罪人の男は苦しげに身をよじるばかりだ。そしてしばらくのあと、奇怪なことが起こる。罪人の肌が、変色しはじめたのだ。異様な光景にフィリドールは目を瞠った。

 いったい、なにが起こっているのか。もはや罪人の身体は全身が土気色となってしまった。それをよく見ようと、フィリドールが檻房へと近づく。その矢先、急に罪人の男が身を起こし突進してきた。手足を鎖で拘束されている彼は鉄格子に体当たりしたあげく、転倒してしまう。が、それでもなお、檻房の外にいるフィリドールとモローへ襲いかかるのをやめようとはしない。白く濁った瞳で彼らを見据え、意味のない叫び声をあげながら。

 予期せぬ事態に面食らったフィリドールは、数歩退いて後ろの卓に腰をぶつけた。だがもう一方のモローはといえば、平静そのものである。冷ややかな眼差しをした彼は、胸のメダリオンへそっと手を触れた。

「去れ、邪悪の使徒よ」

 モローがつぶやく。するとユエニのメダルが柔らかな光輝を発しはじめた。乳白色の輝きは見る間に光量を増してゆく。そして罪人の身体がだしぬけに、爆ぜた。檻房内に薄く煙が舞い、さっきまで罪人のいた場所に、どさりと灰だけが積もる。

 ややの沈黙のあと、フィリドールが口を開いた。

「なぜ殺したのです? あれは、貴重な検体でしたのに……」

 モローは答えず、逆にフィリドールへ問うた。

「それで、貴君の見立ては?」

「枢機卿のおっしゃった通りでしょう。あれはゾンビにまちがいありません。ユエニの聖なる光輝を浴びて滅したのが、なによりの証拠」

「うむ。残念ながら、わしの予想が的中したようだな」

 フィリドールは言葉もなく、鉄格子の向こうに残った人の形をする灰の山を見つめた。つい数時間前──いまからすれば、もう昨日──危急の要件としてモローにここへ呼び出され話を聞いたときは、半信半疑だった。ラクスフェルドにゾンビが現れたこと、ましてやそれが、かつての自分の師匠であるローゼンヴァッフェだったなどと。さすがに、はいそうですかと信じられる案件ではなかった。いましがた、とんでもないものを見せられるまでは。

 あの罪人はモローが用意した者である。彼にはあらかじめ身体に傷を付けて、そこへ、まだゾンビだった時点のローゼンヴァッフェから採取した体液をすりこむ処置が施されていたのだ。ローゼンヴァッフェのゾンビ化には謎な点があった。先ほどのは、それを解き明かすための人体実験である。モローはこういったことを平気でやる奸物だ。彼にしてみれば他人とは自分のために存在する道具でしかない。篤実な聖職者の皮を被った人でなし──モローに関しては、そう表現しても言い過ぎとはならないだろう。

 だがいずれにせよ、悪魔的な実験は結果を示した。ローゼンヴァッフェの保有していたゾンビ因子に感染し、新たなゾンビが生まれることは確認されたのだ。

「昨夜にゾンビの体液を投与して、いまは夜明け前。およそ半日ほどだ。それで、ひとりの生きた人間が、おそるべきアンデッドとなった」

 とモロー。

「そんなに短時間で……」

「おそらく個人差はあろうがな。ローゼンヴァッフェは魔術師ゆえ、もしかすれば感染に耐性があったのかもしれん」

「枢機卿、これは由々しき事態ですぞ。すぐにでもなにか手を打たねば」

「然り。だがその前に、わしは事の振り出しのほうも気になるのだ」

「と言うと?」

 モローは近くの卓へ歩み寄ると酒杯を取りあげ、内に残っていた少量の葡萄酒を床に捨てた。そして陶器の卓上瓶から酒杯へ新たに葡萄酒を注ぐと、それをぐいと呷る。

「ときに、貴君は考えてみたことがあったかね。ゾンビに襲われた者がゾンビになるという俗な迷信が、まさか現実になろうとは」

「いいえ、まったく」

 モローの要を得ぬ会話の運びに、少々戸惑いながらフィリドールは答えた。

「では貴君の師であるローゼンヴァッフェが、アンデッドに関する研究を行っていたのを見たり聞いたりしたことは?」

「なにをばかな。断じてありません。死霊術など、真っ当な魔術師からすれば唾棄すべき外法ですぞ」

「ほんとうかね? 場合によっては、貴君の研究室を調べることになるかもしれんのだぞ」

 それを聞いてフィリドールは愕然となった。よもや自分が疑われるとは夢にも思っていなかったのである。にわかに表情を硬くしたフィリドールは口を開くと、低めた声でゆっくりと重く言った。

「わたしども師弟を疑っておいでなので?」

「現時点で感染源とおぼしきゾンビと接触があったのはローゼンヴァッフェだけだ。彼がゾンビの研究中、誤ってゾンビの因子を身体に宿したとも考えられる。そして、貴君はその愛弟子だ」

「あのお方は、たしかに変わり者でした。しかし人の道から外れることはないと存じます。それに、そもそも動機がありませんよ。わたしにせよローゼンヴァッフェ様にせよ、感染性のあるゾンビを作り出して、いったいどんな利を得るというのです」

「まあ、そうだな」

 口では言いつつ、薄笑いを浮かべるモローに納得した様子は見られない。その態度に歯がみをするフィリードル。常々、枢機卿のモローは油断のならない人物だと聞いていた。もしやこの男、自分たちに濡れ衣でも着せようというのか。

 感情の高まりに沸き立ち、顔を歪ませるフィリドールをふいにモローが手で制した。足音が聞こえた。人払いしたはずのここへ、誰かがやってくる。

 まもなく上階へつづく階段の暗がりから姿を現したのは、神聖騎士団のアイシャだった。雨でずぶ濡れになったマントのフードをさげると、彼女はふたりへ黙礼した。

「夜分に申し訳ございません。枢機卿はこちらだと聞いたもので。早急にお耳に入れたいことがあり、参じました」

 言うと、アイシャはいったんフィリドールへ向けた視線をすぐにモローへと移した。目配せで伺いを立てた彼女にモローは煩わしそうに手を振る。

「かまわん。もう彼も当事者だ」

「そうでしたか、ならば──仰せのとおり黒ローブの捜索に国王騎士団を向かわせましたが、取り逃したとのことです。現地で地元住民の抵抗に遭い、市民を相手には手荒なまねもできなかったようで」

「なに、しくじったか。使えん奴らよ!」

 アイシャの報告を受け、モローは苦いものを吐き出すように言った。だが彼はすぐに渋面を緩めると、

「いや、しかし旧市街はフィーンドがのさばる場所。奴らが協力したとなれば、これで容疑は固まったぞ。くそう、もう少し早く黒ローブとゾンビの関係に気づいておれば、最初から我ら神聖騎士団で……」

「それともうひとつ。ラスクフェルド市内へミロワの角笛とおぼしき者が入り込んだようです。おそらく、黒ローブを追ってきたのではないかと」

「ミロワの角笛? ミロワ・オーダーの配下ですな」

 と、これはフィリドール。

 ミロワ・オーダーとは物質界の魔術師たちが集い、興した魔術結社である。魔術神ミロワを信奉するところからすれば、一種の宗教団体といえなくもない。いずれにせよ主宰となるのはネビュラーゼという名の女魔術師で、世に正しく魔術を敷衍させ、それを以て物質界を魔術的に平定することを理念としている。魔術師以外には排他的な一方、大陸の各都市に置かれる魔術協会の運営を行っており、一般社会とのつながりはことのほか強い。そして、そのミロワ・オーダーの命に服す隠密集団がミロワの角笛だった。

 角笛が世に放たれるのは、悪滅の命を受けたときだ。すなわち、物質界の平穏をおびやかす勢力が表立った活動を見せたとき。ならば、あの戦僧と枢機卿が口にする黒ローブとはフィーンドの類いか。フィリドールは横で話を聞き、そう推察した。

「おのれ魔術主義の過激派どもめが、勝手に他人の庭にまで踏み入りよってからに。──おっとすまんな、貴君のことを言ったのではないぞ」

 さして悪びれた様子もないモローが、フィリドールを横目でちらりと見やる。

「かまいませんよ。わたしはあれらと無関係ゆえ」

「ほう、それは興味深いな。魔術師も一枚岩ではないということか」

「魔術師だからと十把一絡げにされては困ります。いまのわたしはマントバーン王へ忠誠を誓った身。オーリア王国の安寧こそが本懐であると考えていただきたい」

「おお、よくぞ言った。それはわしとて同じよ──」

 モローは急に態度を豹変させ、文字通りフィリドールへと身をすり寄せてきた。近くにきた彼から、ぷんと葡萄酒の香りが鼻に届き、フィリドールはわずかに顔をしかめた。

「そこでだ、折り入っての提案がある。今回の件、わしと貴君で収拾しようではないか」

 ようやく本題を切り出してきたか。今夜モローが自分をここへ呼んだのはそのためなのだと、フィリドールは納得した。

 つまりはこうだ。オーリア正教会は国内外に点在する無数の教会を繋ぎ、巨大な諜報網を敷いている。言ってみれば世にあふれるユエニの信徒すべてが間諜なのだ。それによりモロー枢機卿は市井の噂から他国の深い内情まで、さまざまな生の情報に触れることができる。不審人物である黒ローブについても早い段階で見つけていたにちがいない。そして彼はその立場を利用し、オーリアの治安を守る国王騎士団を出し抜いて、手柄を独り占めする算段のようだ。

 モローにかぎらず、オーリア国内の聖職者が国王騎士団へ特別な対抗意識をたぎらせているのは周知だった。それは数十年前、ラクスフェルドの地で起こった旧騎士団の蜂起に起因する。当時まだ神権政治により治められていたオーリアの聖職者たちは、その謀反で権力の座から引きずりおろされた。そうして彼らに代わり、貴族や騎士、魔術師が新たな王国の中心となったのだ。以来、オーリア王国で聖職者は市民より上だが貴族未満の扱いを受けている。

 弾圧された側の現体制に対する反発心がどれほどのものか、想像するのは易い。しかしいま問題となっているのは、感染性を持ったゾンビの出現という前代未聞の事件である。事態の詳細を明かさぬまま独断専行で解決に手間取り、ゾンビが蔓延して国難にでも発展すればどうするつもりなのだ。功名や主導権争いにいっさい興味がないフィリドールからすれば、正気の沙汰ではない愚行である。

「話を聞いたかぎりでは、このゾンビ騒動、どうやら黒ローブなる者が首謀のようですな。わたしやローゼンヴァッフェ様ではなく」

 棘を含んだフィリドールの言葉に、モローはさもおかしそうに笑った。

「まだわからんがな。いまのところ、その公算が大きいとわしは見ている」

「何者か、正体の目星は?」

「いや皆目。だがおそらくはカネか黒魔術の秘法を餌に、フィーンドが雇ったはぐれ死霊術師にちがいない。フィーンドはそういった堕落した人間を手駒としたがる。奴らにしてみれば使いやすいのだろう。こと物質界においてはな」

「それで、具体的にわたしはなにをすれば?」

「黒ローブの行方は現在、我が神聖騎士団で捜索中だ。貴君には、彼奴を捕らえる際に立ち会ってもらいたい。どうも力量の知れぬ相手なのでな、捕り物の最中、なにが起こるかわからん。貴君の魔術があれば、非常に心強い」

 危険な提案だとフィリドールは思った。下手をすると、重大な危機を知りつつ伏せていたかどで反逆罪に問われる危険がある。

 だが、断ればどうなる──

 モローが先にフィリドール自身とローゼンヴァッフェを疑っていると匂わせたのは、あてつけでも戯れでもあるまい。もしここで拒絶すればローゼンヴァッフェともども、件に関わったと捏造され、告発の憂き目に遭うことも考えられる。モローならばやりかねない。もとよりローゼンヴァッフェが、なんらかの原因でゾンビ因子を身体に宿していたのは事実なのだ。つまるところ、もうフィリドールはこの問題に片足を突っ込んでいた。

 フィリドールは目を伏せ、しばらく迷っていたが、やがて心を決めた。

「わかりました。ですが、これは先代の王宮魔術師であるローゼンヴァッフェ様の疑惑を晴らすため。その旨、ご理解のほどを」

「ああ。なんでもよいわ。ただ、できれば黒ローブは生かして捕らえたい。本件のゾンビには謎が多い。もしかすればゾンビ化した者の浄化方法なども知っているかもしれん」

「善処いたしましょう」

「よろしい。貴君の働きに期待するぞ。黒ローブ捜索の進捗は、城へ使いの者を送って逐一知らせよう」

 思惑通りに事を進め、モローは満足げだ。その彼へアイシャが訊いた。

「ミロワの角笛はいかがなさいましょうか」

「当面はほうっておけ。しかし監視はつづけるのだ。あわよくば、黒ローブの行方がわかるやもしれん」

「すでにそのように」

 話はそれで終わりだった。去り際、モローが振り返りフィリドールに念を押した。

「言うまでもないが、今夜ここで見聞きしたことは他言無用だぞ。マントバーン王へのご注進も事態が収まってからでよかろう。いまの不確かな状況のなかで、陛下のお心を惑わしすることもあるまいて」

 なにごとも秘密裏に、か。ひとりになったあと、フィリドールは薄暗い牢獄の隅にある拷問器具を見つめた。モローは実に他人を従わせるのがうまい男だ。しかし、そのような手管を弄す者は、いずれ自分もそうなる。そして、そうなるまで、絶対に気づくことはないのだ。

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