6-2 今年もエルダーフラワーが

 今年もエルダーフラワーが咲きはじめる時期になった。デイモンは低木の枝にある白い花房を指で持ちあげ、それに顔を近づけた。甘く爽やかな香り。心が安らぐ。

「のあ! のあーっ!」

 かん高い声に自分の名を呼ばれ、デイモンはそちらに目をやった。すると小さな女の子が、水を湛えた重そうな桶を両手で運びながら、あやうい足取りで歩いてくる。デイモンのそばまでやってきた少女は、ふうと大きく息をついて桶を手放した。どすんと地面に落ちた桶は倒れはしなかったが、衝撃で中の水が撥ねて、少女にも飛沫がかかってしまう。

「ありがとう、ペトラ」

 デイモンは少女の前で屈むと、彼女の顔についた水滴を腰の手ぬぐいで拭いてやった。思いのほか強く顔をこすられたのか、ペトラはデイモンから逃れようと、いやいやをして身をよじった。

 そこは花々が咲き乱れる庭園だった。デイモンが所有する場所ではない。ここらの荘園を管理しているゴック男爵の屋敷にある中庭だ。庭園で栽培されているさまざまな草木に簡単な手入れをするのは、デイモンの日課だった。屋敷には園丁もおり、ゴックの食客であるデイモンにとってそぐわない仕事のようだが、彼はそれを自ら進んで毎日こなしていた。

 デイモンは手首から先が作り物となっているフック状の左手に桶の取っ手を引っかけ、持ちあげた。そしてもう片方の手で柄杓を使い、水を撒きはじめる。たくさんある花壇を順に回り、傷つきやすい草花へは水差しを使った。途中で桶の水がなくなると、さきほどのようにペトラが庭の片隅にある池から汲んできてくれる。ペトラはデイモンの孫くらいの歳の少女だが、血の繋がりはなかった。ある事情により、天涯孤独となった彼女を同じ境遇のデイモンが引き取ったのだ。

 中庭のいちばん日当たりがよい場所には芝桜が植えてあった。地面を覆う花弁の薄紫が目にも鮮やかだ。その近くではローゼンヴァッフェが寝椅子で横になり日光浴をしていた。浮かない顔の彼は、身体のいたる箇所に軟膏を塗って巻軸帯を巻かれている。多くの傷はゾンビに襲われて負ったものである。昨日、ステラの起こした天変地異により家を失った彼は、古くからの腐れ縁があるデイモンの仲立ちにより、ゴックのところへ身を寄せたのだった。ローゼンヴァッフェはその際、ゴックとデイモンにゾンビ騒動の顛末を断片的に明かしたが、面倒になりそうなのでステラのことは黙っておいた。あの窪地についてはラクスフェルドで大事件となっており、下手をすればなにかの罪に問われかねないと案じてのことである。

 寝椅子でぐったりしているローゼンヴァッフェにデイモンが声をかけた。

「気分は?」

「よくないのう」

 ローゼンヴァッフェはひどく落ち込んだ声で応じた。

「ゾンビの毒か? ちゃんと解毒はしたはずだが」

「わからん。わしも老いたわい……」

「いい薬だ。これに懲りて、もう突拍子もない研究などは控えるのだな」

「かーっ、おまえはいつもいつも、口を開けば説教ばかりじゃな」

「いいや、今回のはいつもとちがう。面白半分でゾンビを作って遊ぶなどもってのほかだ。憲兵隊に通報されないだけ感謝しろ。事情を知りつつ、居候させてくれるゴック殿にもな」

「へいへい、わたしがわるうございましたよ~だ」

 ローゼンヴァッフェはふてくされたように言うと、身体を回して寝返りを打った。

「うう、気分が悪い。ひとりにしてくれ、わしはちょっと寝るぞい」

 デイモンはあきれて肩をすくめた。昔からこうだ。ローゼンヴァッフェがなにか騒動を起こし、デイモンがその尻拭いをさせられる。年齢はデイモンより上のはずだが、自由奔放な生き方をするローゼンヴァッフェは子供のようだった。外見が老いぼれてもそれは変わらない。

 水撒きは半分ほどが終わっていた。デイモンはまたペトラに水を汲んできてもらい、作業をつづけた。庭園の奥では花の咲き終わった蔓薔薇が枝を伸ばしている。冬には整枝をしなければならないが、蔓薔薇の剪定にはコツがある。たしか古くて成長が見込めない枝は根元から切り、芽が出ている枝は先のほうだけを落とすのだ。デイモンは棘に気をつけながら、蔓薔薇の枝を丹念に調べた。しかし素人のデイモンでは見極めることができない。口をへの字に曲げ、しぶしぶあきらめる。時期がきたら園丁にやり方を教えてもらおうと思って。

「よあひむ! よあひむ~!」

 ペトラのはしゃいだ声が聞こえた。デイモンがそのほうへ首を回すと、ペトラとローゼンヴァッフェが遊んでいた。寝椅子から起きあがったローゼンヴァッフェの周囲を、ペトラは笑いながら走り回っている。ローゼンヴァッフェのほうはちょこまかと逃げるペトラを捕まえようとするが、うまくいかない。いや、わざとそうしているのか。おそらくは怪物ごっこだろう。傍目には孫と祖父が戯れ合う和やかな光景だった。しかし、ふとデイモンの表情が曇る。

 ローゼンヴァッフェの様子が、妙だ。いま緩慢とした動きでペトラを追う彼は激しく身体を震わせ、ときおり異様なうめき声を発していた。演技にしては、あまりに真に迫っていまいか。あれではまるで──

「ペトラ、こっちにおいで」

 デイモンが緊張した声で離れた場所のペトラに呼びかけた。しかしペトラはローゼンヴァッフェのそばを動こうとせず、彼のローブをひっぱってからかったりしている。

 ローゼンヴァッフェの口からよだれの糸が垂れた。そのいかめしい表情からして、もう悪ふざけでないのはわかった。デイモンは柄杓と桶を手放すと反射的に腰の剣を抜きにかかる。が、いま彼は帯剣していなかった。

「ペトラ、くるんだ! ヨアヒムから離れろ!」

 デイモンの怒鳴り声におどろいて、ペトラが動きを止めた。彼女は自分の着ている簡素な服をぎゅっと握りしめ、小さな口をぽかんと開けて、なぜおこられたのかわからないといった様子でデイモンを見返す。そこへローゼンヴァッフェの鉤爪のように曲げられた指が襲いかかる。だが少女の身に節くれ立った指が触れる寸前、ローゼンヴァッフェは体勢を崩して倒れた。見れば片方の足に、植物の誘引に使う園芸用の縄が絡みついている。不思議なことにローゼンヴァッフェがもがけばもがくほど、その縄は彼にまとわりついてゆくようだった。地面に倒れて暴れていたローゼンヴァッフェは、まもなく縄でがんじがらめになってしまった。

「デイモン、ペトラを!」

 屋敷の開いている窓のひとつからゴックの声が聞こえた。デイモンは命じられる前に動いていた。ペトラに駆け寄り抱きあげると、彼はすぐにローゼンヴァッフェから離れた。そのふたりに向かって、ローゼンヴァッフェが獣のような声で吠える。

 間一髪。ゴックのおかげで助かった。さっきのは彼が操縄の呪文を使ったのだ。縄に簡単な命令を下して操る初歩的な呪文。デイモンは以前ゴックから、彼に多少ながら魔術の心得があると聞いたのを思い出した。

「いったい、どうしたことだこれは?」

 屋敷の勝手口を使い、ゴックがデイモンたちのところまでやってきた。

「わからん。突然、ヨアヒムのやつが……」

 縄に絡め取られ、地面でのたうつローゼンヴァッフェを見てデイモンとゴックは戸惑うばかりだ。

「おいデイモン、この御仁、もしやゾンビになってしまったのではないか」

「そんな、まさか」

「しかし、この有様はそうとしか思えんぞ」

 ゴックの言うとおりだった。いまローゼンヴァッフェは肌が土気色になり、完全に正気を失っている。その命あるものへ敵意をむき出しにした振る舞いは、まさにゾンビだ。

 デイモンは旧友の変貌に狼狽した。彼とはついさっき、言葉を交わしたばかりだ。

「たしかに昨日、ゾンビに襲われたと言ってはいたが……」

「それじゃよ、わしは聞いたことがあるぞ。ゾンビに噛まれた者は、生きたままゾンビになるとな」

「いや待ってくれゴック殿。そりゃあ、ただの迷信だ。ゾンビは人を襲うが、襲われた者までゾンビになることはないはずだ」

 デイモンは昨夜、ローゼンヴァッフェと話したときのことを思い返した。彼はなんと言っていたろう。おぼろげながら、なにかひっかかることを口にしていたのだ。そうだ、たしか、ゾンビは黒いローブの死霊術師から買ったゾンビパウダーで作ったと。ヨアヒムは、そう話していた。

「のあ~、おろしてえ~」

 そのペトラの声でデイモンはふと我に返る。

 デイモンは抱きかかえたままだったペトラを下に降ろすと、ゴックの使用人を呼んで屋敷の敷地内にある離れまで連れていかせた。現在、デイモンとペトラはそこに住んでいるのだ。デイモンはペトラとの別れ際、おうちの扉につっかい棒をして、今日はもう外へ出ないようにときつく言い含めた。

 それからデイモンは神妙な顔でゴックへと向き直る。

「ゴック殿、たのみがある」

「なんだ」

「しばらくこのまま、ヨアヒムをどこかへ閉じ込めておいてはくれんか。地下室か納屋か、人目につかない場所がいい」

「おい、そいつは──」

「すまん。少しのあいだだけでいい」

「おまえ、それでどうするつもりなんだ」

「もしヨアヒムがゾンビになってしまったのなら、方法はひとつしかない。徳の高い聖職者に手を借りて、治療してもらう」

「ゾンビを治療だと?」

 予想外の言葉にゴックは目を丸くした。

「そうだ。ゾンビを元の人間にもどすのは不可能ではない。成功する見込みは薄いが、あいつをこのまま見殺しにするわけにはいかん……」

 デイモンは言うと、縄から逃れるべく地面でもがいているローゼンヴァッフェを、哀れむような目で見つめた。

「そこまで言うのならば、あてはあるのだろうな」

「ああ。古い伝手を頼ってみる」

「……よかろう」

 デイモンとローゼンヴァッフェの仲はゴックも聞いて知っていた。デイモンの心を汲み、ゴックは彼の頼みを聞き入れた。

 ふたりはさっそくローゼンヴァッフェを屋敷の地下室へと運んだ。念のため丈夫な縄で縛り直して、麻袋を頭にかぶせておいた。地下室はがらくた置き場なので普段は人も訪れないし、扉に鍵もかかる。さらにゴックは万全を期すべく、屋敷の者たちへローゼンヴァッフェのことについて箝口を敷いた。もちろんすべては明かさなかったが、とにかく地下室へは誰も近づかないようにした。もしもここでゾンビを匿っていると外部の者に知れれば、大変なことになる。

 それらが終わると、デイモンはすぐに馬丁を呼んで馬を用意させた。馬上の人となったデイモンが急ぎ向かうのは、ラクスフェルド市街のそばにある、オーリア国王騎士団の駐屯地だった。

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