第六章
6-1 メイラーが窪みの際に立つと、
メイラーが窪みの際に立つと、柔らかい地面にブーツが沈んでゆくのがわかった。
「足下にお気をつけください、メイラー卿。縁は崩れやすくなっているようです」
盾持ちのウォレスが背後から声をかけた。メイラーはそれを聞いてゆっくりと一歩退く。そして腰に手をあてて、彼はあらためて信じられないような光景に目を向けた。
「なんだこれは」
見たままの感想が口をついて出た。とてつもなく大きな窪地、その円を描く外周部にメイラーたちはいた。まるで計ったように丸くえぐられたそこは、地表といちばん深い部分の落差が四〇〇キュビットはある。反対側の縁は白く霞むくらいに遠い。すり鉢状になっており、中心へゆくほど高低の差が大きい。ゆるやかな傾斜ではあるものの、誤って下に落ちれば危険だ。いま土がむき出しな斜面のあちらこちらには、メイラーの部下たちの姿が見えた。その青と白の短衣を身につけた者らは皆、オーリア国王騎士団である。彼らは、ラクスフェルド郊外に一夜にして現れた巨大な窪地──その怪事の謎を究明すべく、早朝から調査にあたっているのだ。
地表より垂らされた綱をたぐり、騎士のひとりが穴の底から上まで登ってきた。足が脛の中程まで泥で汚れている。彼は台無しになったブーツを両方とも脱ぐと、それらを左右の手に持ち、裸足でメイラーのところまでやってきた。
渋面の騎士がメイラーに報告する。
「底には水が溜まっています。ぬかるんで、ひどいもんですよ」
「ご苦労」
メイラーは相手のなりを見て思わず笑みを漏らした。
「それ以外に収穫はなにも。いったい、なんなんですかね、こいつは。向こう岸までは距離にして半レウカほどもあるでしょう」
メイラーは、部下が持ちあげたブーツのつま先が示したほうへ顔を向けた。なるほど向こう岸か。たしかにここは、水が涸れかけた湖か入江のようにも思える。しかし、昨日までこの場所にそんなものはなかったはずなのだ。
「メイラー卿──」
ウォレスがメイラーに顔を寄せて耳打ちした。
「三ツ目騎士団です」
ウォレスのは剣呑とした、やや低めた声だった。メイラーが彼の視線をたどると、紫紺のマントをはおった誰かが、自分たちのほうへやってくるのが見えた。
「かまわん。おれが呼んだ」
とメイラー。
オーリア王国にはふたつの騎士団がある。ひとつはメイラーたちが属するオーリア国王騎士団。そしてもうひとつは、オーリア正教会のユエニ神聖騎士団だ。規模が大きいのは国王騎士団で、神聖騎士団は大主教の私兵ともいえる小集団だった。両者は完全に独立しており、結びつきはない。しかしどちらもが似たような活動を行う組織であるため、縄張り根性がたたってしばしば衝突が起こっていた。国王騎士団は神聖騎士団を隷属すべき騎士団くずれと見下していたし、神聖騎士団のほうは、向こうを権力を笠に着て幅を利かせるだけの有象無象だとして、互いに反目し合っているのだ。
いま颯爽とした足取りでメイラーたちの前に現れたのは、神聖騎士団の女騎士──ただしくは聖女──だった。その場にいた国王騎士から注がれる疎ましげな視線を、ものともしていない。褐色をした肌からは、彼女が異国の出身であることがわかる。しかしマントのフードを目深におろしているため顔貌はよく見えなかった。金糸で縁取りがされたフードの正面には、三角形の頂点に丸い点を打ったかの地母神ユエニのシンボルがある。ウォレスがさきほど三ツ目騎士団と揶揄したのは、ユエニの騎士がフードをおろしていると、それで目が三つある異形のように見えるからだった。
近くまできた女騎士をメイラーが親しげに迎えた。
「わざわざご足労すまんな、アイシャ。そちらにも連絡するよう上からの達しがあったのだ」
「ああ」
素っ気なく応じた女騎士はメイラーの前を横切ると、窪地の手前で足を止めた。そして、
「なんだこれは」
アイシャがまったく自分と同じ反応をしたため、メイラーはくっくと笑った。このような光景を目の当たりにすれば無理もないだろうが、常に冷静沈着な彼女がいまどんな表情なのか、見られないのが実に惜しい。
「縁は崩れやすいから気をつけろよ」
面識のあるふたりだった。メイラーは少し歩き、窪地の底を眺めているアイシャのすぐ隣に並んだ。
「近くの荘園の農奴から聞いた話では、昨日このあたりで竜巻が起こったそうだ」
「竜巻? そんなものでここまでになるわけがない」
アイシャはオーバーニーのブーツが汚れるのも厭わず、片膝をついて窪地の様子を吟味した。さらに彼女はメイラーには見えないものを見ているように、周囲のさまざまなところへ目を走らせる。
「まだわずかにエーテルが活性化しているな。気づかんか、一帯に魔術の痕跡があるぞ」
「ほう」
メイラーは興味深げにアイシャを見た。アイシャはバトルクレリックゆえ、ナイトのメイラーよりもエーテルの動静に敏感だ。剣さばきならともかく、魔術絡みとなれば彼女にはかなわない。
「この場所、こうなる前にはなにがあったのだ?」
そのアイシャの問いにはウォレスが答えた。
「街から離れた辺鄙な場所なので、老人がひとり住んでいただけです。行方は知れません。竜巻にさらわれたのかも」
「魔術師か?」
「そのようです。名前は──たしか、ローゼンヴァッフェとか」
「ローゼン……待てよ、どこかで聞いた名だな。素性は?」
若いウォレスは首を横に振る。しかしメイラーが当該人物のことを知っていた。
「ローゼンヴァッフェ殿ならば存じている。団長と旧知の元王宮魔術師だ。さっき魔術の痕跡があると言ったが、では、これは彼がやったと? 竜巻を起こす呪文でも使って?」
「かもしれんが、そう結論を急くな。あそこを見てみろ」
アイシャに促され、メイラーは空を見あげた。朝の日の光がまぶしい。メイラーは目の上に手をかざした。空にはなにもないようだったが、しばらくすると視界の隅で青白い小さな火花が散った。そして、そのあたりに黒ずんだ染みがあるのにメイラーは気づいた。空に染みがあるとはおかしな話だが、しかし、そうなのだ。距離感が把握できず、空中のそれはどんなに目を凝らしてもよくは見えなかった。
「よく見えんな。煙、か?」
「あれはおそらく空間の綻びだろう。ここでなにかしらの魔術が使われたのはまちがいない。それも、次元の境界を破ってしまうほどの、強力なやつがな」
「そんなことが魔術で可能なのか」
メイラーは半信半疑だ。頭上からアイシャに目をもどすと、彼女は拳を口元にあてて、なにかに思いをめぐらせていた。
「まるでフェイタルホライゾンだな」
「なんと言った?」
メイラーにはアイシャのつぶやきがよく聞こえなかった。
「フェイタルホライゾン──伝説の魔術師であるマグシウスが編み出した古代魔術のひとつだ。マグシウスはその呪文によって、都市を丸ごとひとつ滅ぼしたと古い文献にある。空に暗黒が口を開き、そこへ吸い込まれた者は最後に終焉の地平線を見た、とな」
「なんとまあ。だがそいつは、おとぎ話の類いだろう」
メイラーは一笑に付した。彼もマグシウスのことは知っていたが、いくらなんでも話が常識から外れすぎだ。同時にしかし、とメイラーは思う。そんな空想かおとぎ話でもなければ、この状況を説明できないのも事実だった。
考えあぐねたメイラーはため息をひとつつき、窪地とは反対側へ首を回す。そちらには野次馬の人垣と、ラクスフェルドの市壁が遠くに見える。
「近頃は、立てつづけで妙なことが起こっている。なにかよからぬ兆候でなければよいが」
「例の黒ローブか」
とアイシャ。
「うむ。そちらでも摑んでいたか」
「なにを言っている。その情報を渡したのは神聖騎士団だ。不審な黒ローブの魔術師が国内へ入り込んだゆえ、警戒せよとな」
それを聞いてメイラーは眉をひそめた。意外だった。秘密主義が高じて、普段は絶対に国王騎士団と情報を共有することのない神聖騎士団が、警告するとは。
アイシャが立ちあがり、膝についた土を手で払った。そして彼女は胸の前で腕を組むと、
「ともかく、こんなことができる高レベルの魔術師は限られているはずだ。もしかすれば黒ローブとも、なにか関連があるのかもしれん」
「黒ローブのことはすでに魔術協会へ問い合わせた。あそこは大陸中の魔術師を管理しているからな。それと思しき者が登録されていれば、身元は割れよう」
「こちらも協会へは問い合わせた。が、返事はまだだ。もぐりの魔術師とも考えられるぞ」
「それならばそれで捕らえる理由になるじゃないか」
とメイラー。その鼻息も荒いメイラーを見て、アイシャはこっそりフードの下で笑みを漏らす。単純だが、彼はいつもまっすぐだ。アイシャは常日ごろから、メイラーのそういったところを好ましく思っていた。
「ほう、ならばそうしてもらおう。実は、わたしもおまえに用があったのだ」
「なんだ?」
「昨日、旧市街で宿なしに食事を提供しているユエニの僧侶から、報告があった。オンウェル神殿の付近で、黒いローブを着た魔術師を見かけたとな」
「なに、そいつは気になるな」
「だろう? 帰りしなにでも寄ってもらえると、こちらも助かる。捕らえる容疑はなんでもよかろう。そもそも黒いローブを着ている時点で公序良俗を乱している」
「しかし、よいのか。こちらが手柄を横取りする形になってしまうが……」
「かまわんよ。つまらん雑用は国王騎士団へ回せという枢機卿からの指示だ」
「ふん、言ってくれる。ようし、では黒ローブの捜索はおれに任せろ」
メイラーが自分の胸を拳でどんと叩いた。そして彼はウォレスとほかの部下たちに向き直り、声を張りあげる。
「みんな聞け。われらはこれより旧市街へ向かうぞ。野次馬をどけろ。近くの荘園の農奴たちに、当面ここへは近づくなと触れを出せ」
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