5-4 遠くのほうから聞こえたのは、
遠くのほうから聞こえたのは、空気を揺るがすほどの音だった。まるで、大量の火薬でも爆発したような。ペルとローゼンヴァッフェは、ふたりともが音のしたほうへ同時に首を回した。
「あれは、わしの家のほうじゃぞ」
とローゼンヴァッフェ。しばらく呆気にとられていたペルだったが、彼ははっと息をのんだ。
「ステラさんだ!」
言うなり、ペルは駆け出した。荷馬車へとび乗り、手綱を握る。
「はわわ、わしをおいてゆくでない」
自分を待たず動き出した荷馬車に、ローゼンヴァッフェは大慌てでしがみついた。
できるかぎりの速度でペルは荷馬車をとばした。先ほど通ったばかりの森を抜け、ローゼンヴァッフェの家へ取って返す。すると道の先、遠くのほうで薄く黒い煙が立ち上るのが見えてくる。いったい、なにが起こったのか。ローゼンヴァッフェの家の手前で、それは判明した。ゾンビである。ローゼンヴァッフェ邸が、ゾンビに囲まれている。どこから集まったのか、その数は二〇体を超えていよう。さらにおどろくべきことには、家の正面にあたる壁が、丸ごとなくなっていた。いまローゼンヴァッフェ邸の前庭には、壁の破片だろう焦げた木っ端が盛大に散らばっている。先の爆発音は、どうやらこれのせいだ。よく見ると屋根のあたりがちろちろと燃えているので、おそらくはなかにいたステラがゾンビに気づき、見境なく火球の呪文でもぶっ放したにちがいない。
「おいー、わしの家があーっ!」
マイホームを台無しにされたローゼンヴァッフェが悲痛に叫んだ。
ペルは尻込みする馬に鞭をくれて、半壊したローゼンヴァッフェ邸へ強引に荷馬車を近づけた。光輝が閃き、彼は一瞬、目が眩む。ステラのアンデッド殺しだ。しかし家のなかからでは壁に遮られ、光輝が届くのはごく一部だった。正面にいたゾンビの何体かは灰の山となったが、家の横手の別なゾンビたちが、ぞくぞくと内へ入ろうと回り込んでくる。
ペルは荷馬車から転げるように降りると、邸内へ駆け込んだ。ずいぶんと風通しのよくなったそこで、ステラの姿を探す。いた。彼女は家の奥の壁に背をつけ、床にしゃがみ込んでいる。するとペルの姿をゾンビと勘違いしたのか、ステラが悲鳴をあげた。そして、あろうことか持っているマグシウスの杖を振ると、ペルに向けて魔弾の呪文を射ってきた。力場の矢がペルの頭上をかすめる。魔弾は決して狙いを外さぬ攻撃呪文である。ステラがまともだったならば、まちがいなくそれはペルの身体を貫いていただろう。
「ステラさん、ぼくですよ!」
ペルは混乱状態のステラに走り寄る。二の腕を摑んで揺さぶると、暴れはしなかったが浅く速い呼吸をくりかえすばかりで、彼女は完全に正気を失っている。これはどうしようもない、と思った。とにかく、この場から連れ出さねば。ペルは嫌がるステラを無理やり立たせて、彼女に寄り添い歩き出す。
そのころ、家の前ではローゼンヴァッフェが刺股でゾンビと戦闘中である。
「ローゼンヴァッフェさん、これを使ってください!」
ペルは言って、首にかけた退魔の護符をローゼンヴァッフェに投げつけた。ローゼンヴァッフェはゾンビの隙を見て足下の護符を拾うと、刺股の先端にあるトゲトゲにひっかけた。それを襲いくるゾンビどもにかざすと、一時的にではあったが退けることができる。
ローゼンヴァッフェに守られ、ペルとステラはなんとか荷馬車までたどり着いた。ペルがステラを荷台に押しあげると、彼女はそこで震える自分の身を抱いて横になった。おびえた表情をした顔には脂汗が浮かんでいる。いつも気丈なステラが、こんなふうになるなんて。戸惑いつつ、ペルは御者台へ移った。それからローゼンヴァッフェの老体を引っ張りあげようと、彼に手を差しのべる。が、ペルの手を取る寸前、ローゼンヴァッフェは横手から身体の大きなゾンビに組みつかれる。最悪なことに、その拍子に退魔の護符が刺股から外れて、遠くのほうへ飛んでいった。ローゼンヴァッフェは地面に倒れ、さらにゾンビにのしかかられた。
「ひい、わしはもうだめじゃ。おまえたちだけでも逃げるがよい!」
仰向けとなったローゼンヴァッフェは刺股の柄を両手で保持し、噛みつこうとするゾンビを抑えるので精一杯だ。ゾンビの吐く甘い息が、間近で顔にかかる。
倒れたローゼンヴァッフェへゾンビが殺到しはじめた。ペルはそれをなすすべもなく見ていた。もうだめだ。彼は助からない。ペルは自分の無力さを感じた。情けないことに身体が動かない。怖じ気づいて、声を発することすらできないのだ。しかし、動けたとしてなにができよう。ペルには敵をやっつける腕力も、攻撃呪文も、なにひとつない。
ゾンビの蝟集するなかから、断末魔に似た悲鳴がペルの耳へ届いた。
次は自分が、ああなる──
「あたしがきらいなのはあああああああ、蛇と、蚯蚓と、餃子と、ゾンビいいいいいいいいいいいいいいいい!!」
喉も裂けよというほどの絶叫。それは、ペルの背後にいるステラが発したものである。恐怖のあまり、とうとう気が触れたのかと思ったが、そうではなかった。ステラは荷台で膝立ちとなり、マグシウスの杖を高く天に掲げている。青白い燐光に包まれた彼女の姿が、ペルには涙で滲んで見えた。周囲に魔力がわきあがってくる。いままでにないほどの勢いで。にしても、これは異常だ。ペルは肌をちくちくと刺すほどに高まったエーテルの励起状態におののいた。いったい、なにが起こるのだ。ステラは自身が生みだしたありったけの魔力を、なにかに使おうとしている。
あたりが薄暗くなってきた。いつの間にか頭上で暗雲が渦を巻いているのにペルは気づいた。これはステラが呼び寄せたのか。曇天の空に光の軌跡が走る。いつか見たステラがアスポートのポータルを開いたときと似ているが、しかし規模がまるでちがっていた。幾筋もの光の軌跡は、やがて空に途方もなく巨大な魔術陣を形成する。そうして、ペルは自分の目がおかしくなったのかと疑った。魔術陣の中心、そこに、黒く丸い穴が空いたのだ。空の一部分だけが夜になったような、常軌を逸する光景。穴は底の知れない深淵だ。しかしずっと奥には、まっすぐに光の線が引かれている。頭上を見あげながら、ペルは呆然となる。そして彼はなぜか、その暗黒の遥か彼方には金色の地平線があるのだと思いついた。
「ふおおお、なんじゃなんじゃあ!?」
ゾンビに腕をかじられているローゼンヴァッフェが、あわてふためいてそう言った。突如として、彼らの近くでつむじ風が起こったのである。それはすぐに勢いを増し、まるで竜巻のように猛威を振るいはじめる。砂塵が舞い、ローゼンヴァッフェ邸の木片が吸いあげられ、やがては地上にあるものすべてを持ちあげようかというほどになる。
ローゼンヴァッフェ邸が、みしみしと軋みながら崩壊してゆく。そしてついにはゾンビまでもが強風にさらわれだした。一体、二体と宙に浮かび、それらはばらけた家の破片とともに、空にある黒い穴へ吸い込まれた。吹きすさぶ暴風は、もはや人間をも軽く巻きあげるほどの強さである。ペルのそばを木の葉みたく浮きあがったローゼンヴァッフェが、空中でもがきながら通過していった。が、ペルはすんでのところで彼の手を摑み取るのに成功した。
「ペルよ、手を放すでないぞ! 絶対に、死んでも、放すでないぞ!」
ペルと手を取り合い、ほぼ垂直となっているローゼンヴァッフェが、必死の形相で訴える。だがペルのほうも、荷馬車にしがみつき自身を繋ぎ止めるので精一杯だ。
「あ……いやローゼンヴァッフェさん、ぼく、もうだめかも……」
「おまえさん男の子じゃろうがあああ! もうちっとがんばれーい!」
目方のある荷馬車と馬は、まだかろうじて地面に残っている。だがこうしている間にも荒れ狂う風の勢いはますます強くなってゆく。恐慌を来して竿立ちとなった馬が、そのままの姿勢でふわりと浮いた。とうとう荷馬車の前の部分が持ちあがり、ペルは一巻の終わりを覚悟した。彼は空中で荷馬車がばらばらとなり、一頭と三人ともが不気味な黒い穴に消えてゆく様子を頭に浮かべた。
しかし、そうはならない。急に荷馬車ががしゃんと音を立てて、地面に叩きつけられた。そしてペルとローゼンヴァッフェは互いに壮絶な頭突きを交わした。
いましがたまで吹き荒れていた風が、やんでいる。ペルはちかちかする目であたりを見渡した。すると、そこはさっきまでいた場所ではなかった。ローゼンヴァッフェの家から遠く離れた、小高い丘の上。
「いてて……これは、ローゼンヴァッフェさんがやったんですか?」
頭にできたたんこぶをさすりつつ、ペルがそう言う。
ローゼンヴァッフェは荷馬車から転げ落ちていた。ペルと同じく頭をさすりながら、よろめいてなんとか立ちあがる。
「ふいい、転移の呪文なんぞひさしぶりに使ったぞい。おかげで魔力がすっからかんじゃ。しかし、あぶなかったのう。あのまま巻きあげられていたら、どうなったことか」
ペルたちのいる丘から離れた場所では、さらに状況が悪化していた。おそろしい光景だった。ペルとローゼンヴァッフェのふたりはすぐそれに目を奪われた。いま空中の穴と地上には、巻きあげられる土砂でどす黒い柱が立っていた。ローゼンヴァッフェの家に近い森の木々までもが、根こそぎ吸いあげられている。このステラが引き起こした天変地異の影響は、かなり広範囲にまでおよんでいるのだ。さらにおかしなことに、その様子はぐにゃりと歪み、妙に間延びして見えた。もしや空にあるあの黒い穴は、物体だけでなく光をも吸い込んでいるのかもしれない。
ペルはローゼンヴァッフェと身を寄せ合い、震える声で言った。
「ローゼンヴァッフェさん、なな、なんなんでしょうかこれは……」
「わしが知るもんか。ステラに訊いてくれ、ステラに」
そのステラといえば、いまだに荷馬車の後ろで魔力を放出しつづけていた。しかし無尽蔵とも思えるステラの魔力も、いよいよ尽きかけているようだ。
魔力の波動が薄らぎつつある──ペルがその兆しに気づいた矢先、ステラが手にする魔術杖を取り落とした。彼女の肢体が弛緩して、ゆっくりと傾ぐ。ペルは反射的に荷台へ跳び込み、ステラが倒れる前にその身を受け止めた。ペルの腕のなかでがくりと首を垂れたステラは、気絶状態だ。傍らに転がるマグシウスの杖を見ると、先端にあるドラゴンの脳結石は輝きを失っていた。
ペルは何度かステラが古代魔術を使うのを目の当たりにしてきたが、こんな有様ははじめてだった。おそらくたったいま見た呪文は、彼女がそうなるほどの強力な秘術なのだろう。
静かになった。空にあったあの魔術陣と黒い穴はもう消えている。
「おい、ペルよ、見てみい……」
ローゼンヴァッフェがかすれる声で言って、ペルのローブを引っぱった。
ペルが顔をあげる。すると遠くの風景が、ついさっきまでとは一変していた。ローゼンヴァッフェ邸の周辺一帯の土地が、ごっそりと消失している。ローゼンヴァッフェの家も、近くの森も、ゾンビも、ゾンビ牧場も、みんな吸い込まれてしまった。あとに残ったのは、小さな街がひとつ収まるかと思えるほどの、巨大な円形の窪地。それだけだった。
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