3-3 正午の鐘の音が聞こえる。
正午の鐘の音が聞こえる。ベッドから飛び起きたペルは窓に駆け寄り、もう中天にまで昇っている太陽を見あげて愕然となった。自分はなんてばかなんだと頭をぽかぽか叩いたあと、ルームメイトのフラビオが使っているベッドを見ると、シーツが乱れたままのそこはもぬけの殻だ。どこかへ出かけたのか、それとも昼食を食べにでもいったのか。もしかすればペルがあまりにぐっすり眠っているので、気を回して起こさなかったのかもしれない。フラビオには不要な詮索をされぬよう、レナとのことは黙っていたのだが、こんなことならば話しておけばよかった。
いまさら後悔しても仕方がない。とにかく急がねば。ペルは寝巻を脱ぐとクローゼットで最初に目についたローブを頭からかぶり、自分の雑嚢を引っつかんで部屋を出た。
翰林院の敷地を走り抜け、商店街の通りへ出る。休日は商店街の近くで特別な市が立つため、人出が多い。ペルは雑踏をかきわけ、ようやく太陽門前の広場へたどり着いた。広場の一隅で息を整えながら、レナの姿を探す。異国風の装束を着た一団、憲兵、旅芸人、触れ役、物乞い、荷馬を連れた行商人──外とつながる市門の近くでは、さまざまな人が行き交う。ペルは必死の形相で首を左右に振りながら、埃っぽいなかを歩いた。まさか怒ってもう帰ってしまったのだろうか、と最悪の結末を思い描いたとき、やっと見つけた。あの明るい草色のミニスカローブと、薄い黄色のリボン付きニーソックスは、レナにちがいない。
「レナ!」
ペルは市門のすぐ横にいる彼女の姿に呼びかけ、走り寄った。
「ごめん。寝坊した」
息を喘がせつつそう言うと、ペルは苦しさから身をふたつに折った。レナは頬の片方をふくらませてしばらくペルを睨んでいたが、そのうちぷっと吹き出してしまう。ペルが呼吸するのに合わせて、彼の髪についた寝癖がひょこひょこ動くのが、おかしくて我慢ならなかったのである。
「もー、やっときた」
「だいぶ待った?」
「ううん、そんなことないけど」
「ほんとにごめん」
平謝りするしかないペル。レナはそんな彼へ笑顔を向ける。
「うん、もういいよ。でも、ちょっと心配しちゃった。ペルくん、もしかして今日の約束、忘れてるんじゃないかなって」
「わ、忘れるわけないよ! 言い訳すると、レナといっしょに出かけるんだって思ったらうれしくて、それで昨日の夜は、なかなか眠れなくて──」
おいおいなにを言い出すんだこいつは。言ってからペルは顔を赤くした。それを聞いたレナもちょっとびっくりしたあと、頬を染めて顔を伏せてしまう。
しばらくうつむいて、言葉を失くすふたり。
「じゃあ、はやくいこ……」
レナが言って、歩き出す。ペルは黙って肯くと彼女につづいた。
ふたりが目指すのはラクスフェルド市街の東に位置する林間地である。距離的にはそう遠くない場所だ。そこへ向けて、街道を並んで歩むペルとレナ。だが、さっきペルが口をすべらせたことで、妙に互いを意識するようになってしまった。たまにちらりと横目で相手を見るだけで、会話がない。
なんともいえない微妙な雰囲気。ペルはそれに耐えつつ、話の種はないかとずっと考えをめぐらせていた。と、そこへ見えてきたのが魔術師組合である。
「あ、見なよ。あれが魔術師組合の本部だよ」
「へえ、あそこがそうなんだ」
ペルの指し示す、街道から外れた場所にある一軒家を見てレナが言った。
「じゃあ、ステラさんがいるのかな。ちょっとご挨拶しに寄っていく?」
「ええっ、いいよいいよ! 寄り道したら遅くなっちゃうし」
あわててペルが言う。そんなことをすれば、どうせふたりの関係をステラに勘ぐられて、ろくな目に遭わないのはあきらかだ。
「そう?」
とレナ。しかし、彼女はペルのあわてぶりをいぶかしみ、ちょっといたずらっぽく彼の顔を覗き込むと、
「ペルくんてさあ、もしかして、ステラさんのこと苦手?」
図星ではないが、それに近いところを突かれてペルはぎくりとなる。
「そ、そんなことないよ。あの人、けっこう面倒見がいいし、魔術師としても優秀だし、それに──」
「それに、美人でスタイル抜群?」
「そうそう。あー、でもどちらかといえば、ぼくは内面のほうを重視なんだよね。もうちょっと控え目で、守ってあげたくなるタイプが好みかなあ」
レナのかまかけに引っかかったあげく、自分の女性観まで語ってしまうペル。ちょろい。ちょろすぎる。
たまらず笑い出したレナを見て自分の過ちに気づいたが、もう遅い。どうやらペルにとって、今日はなにをやってもうまくいかない日のようだ。とはいえ、その場の空気が和んだことに彼はほっとする。せっかくふたりで出かけるのだから、レナにはやはり笑顔でいてほしい。
安心して気が緩んだのだろうか、ペルのお腹がぐうと鳴った。
「あはは、そういえばぼく、今日はまだなんにも食べてないや……」
「んもう、ペルくんたら」
あきれるレナ。街道を歩くふたりはもうラクスフェルドの農耕地帯を過ぎ、林間地の近くにまでさしかかっていた。街道の両脇には木々が立ち並ぶものの、開墾されその数はまばらである。将来的にはここも農地となるのだろう。
ふたりは街道を外れ、木立のなかへ入った。そこで昼食を兼ねて休憩することにしたのだ。寝坊したペルはほぼ手ぶらだったが、レナがお弁当を分けてくれるという。なんと心のやさしい娘だろうか。座るのにちょうどよい切り株に腰を下ろしたレナは、背嚢からいくつかの紙包みを取り出した。おなじく近くの切り株に座ったペルが、包みのひとつを受け取り開いてみると、中身はサンドイッチだ。具材はなにかといえば、まず定番のベーコンと野菜。そして潰した豆とチーズ。ほかには魚肉のパテとピクルス等々。さらに新鮮な果物や、革袋に入れた飲み物までレナは持参していた。
「うわあ、たくさんあるなあ。レナ、こんなにたくさん重くなかった?」
「うん、大丈夫だったよ。実はね、予習した重量軽減の呪文を試してみたの。効き目は弱かったけど、うまくいったみたい」
自分が持つ荷物の重さを変化させる重量軽減の呪文は、効果が地味ながら中級レベルの魔術だ。さすがレナは優秀だと感心しつつ、ペルはめぐんでもらったサンドイッチをひと口ぱくり。
「おいしい!」
「よかった。これ、わたしが作ったんだよ。ちょっとだけお母さんに手伝ってもらったけどね」
ほっとしたような表情でレナが言う。たくさんあるからもっと食べてねという彼女の言葉に甘え、ペルはふたつめのサンドイッチを頬張った。
「おいひい!」
まるでひねりのない感想をつづけて述べるペル。
「そんなにあわてて食べると、のどが詰まっちゃうよ。はいこれ」
気を利かせてレナが飲み物を用意してくれた。その木の椀に注がれた白っぽい液体からは、さわやかな香りがする。ペルが受け取り飲んでみると、言うまでもなくこれもおいしい。味は甘酸っぱく、非常にコクがある。
ペルは椀の内の白い液体をまじまじと見つめた。
「これ、白葡萄のジュースだね。どこで採れた葡萄かな」
「んー、たぶん市場で買ってきたものだと思うけど、産地まではわからないなあ」
「きっとホールウォーター村の葡萄だね。あそこは砂丘地で葡萄を作ってる農家がいっぱいあるんだ。うちの実家もやってたし」
「ペルくんて、ホールウォーター村の出身だったんだ。ラクスフェルドの南にあるところだよね、どんな村なの?」
「どんなって、ふつうのド田舎だけど。農場のほかは、なーんにもないところ」
「魔術の学校とかは?」
「ないない。小さい子は村の手習い所で読み書きを勉強するんだ。ぼくもそうだったよ。で、そこにいた先生に、ぼくには魔術の才能があるから翰林院の入学試験を受けなさいって薦められてね、そのための推薦状も書いてくれたんだ」
王立翰林院という名門になぜペルが入学できたかは謎だったが、どうやらこのような経緯があったようだ。
「レナは、ずっとラクスフェルドに住んでるの?」
「うん、そうだよ。翰林院は初等部から。うちは両親がふたりとも聖職者だから、ほんとは魔術学科じゃなくて神聖学科に進んでほしかったみたい。でも卒業してから修道院に入るなんていやよ。神様と世の中の人たちに献身する生き方も否定はしないけど、わたしは自分にある魔術の力で、なにができるかを知りたいの」
レナ、一五歳。この年齢でもう人生の先行きを模索するとは、利発にもほどがある。
「へー、そうなんだ」
言いつつ、ペルは三つめのサンドイッチを口に詰め込んだ。まったくこいつはレナの話をちゃんと聞いているのかいないのか。
人気者のレナはいつも取り巻きに囲まれているため、翰林院ではあまり話す機会がなかった。彼女の言によれば、中等部までは神聖学科で学んでいたため、回復・治療系の信仰呪文もあるていどならば使えるそうだ。互いの身の上など、それまで知らなかったことがあきらかとなり、ペルはレナとの距離がちょっとだけ近づいた気がした。
休憩を終えたふたりは街道へともどった。少し歩いてから間道へ逸れると、その先がラスクフェルドの林間地である。森というほどではないものの木々が茂っており、近傍に住む農夫が木の実や野草を採りにくる場所だ。静かで訪れる者が少なく、恋人同士の密会にはもってこいの場所といえよう。加えて、今日は天気がよい。ペルはレナといっしょに木漏れ日の下を歩きながら、これが課題の野草集めでなければどんなによかったかと思った。
しばらくすると、ふたりが歩んでいる細い道の先に、人らしき姿が見えた。どうやらペルたちのほうへ向かってくるようだ。距離が近づくと、それは痩せた馬に跨がる初老の男性だとわかった。革鎧の上に粗織の外套をはおり、腰にはやや小ぶりな剣を吊っている。彼はペルとレナのそばまでくると馬の手綱を引いた。
「おや、ペルじゃないか」
「こんにちは、デイモンさん」
声をかけられたペルは馬上の老剣士へ挨拶した。隣のレナも笑顔で軽くお辞儀をする。
デイモンはゴックが擁している自警団の団長である。元はオーリア王室に仕える国王騎士団にいたそうだが、いまは引退してゴックのところへ身を寄せている。ゴックの荘園内で治安の維持を任されたデイモンは、魔術師組合にもよく顔を出すことがあった。
「こんなところで会うとはめずらしいな」
とデイモン。
「ええ。魔術学科の課題があって、野草を採りにきたんですよ」
「ほう、勉強の一環か。それは感心」
デイモンは表情を崩し、まるで自分の孫に向けるような目でペルとレナを見比べる。
「デイモンさんは、どうしてここへ?」
ペルが訊いた。自警団はゴックの荘園周辺を定期的に巡回しているが、その経路に林間地は含まれていないはずだった。
「うむ。実は近頃、この先の森でモンスターが出没するという噂を耳にしてな。それで様子を見にきた」
「モンスター? どんなやつです?」
「わからん。姿を見た者はおらんのだ。大きな足跡があったとか、ドラゴンのような鳴き声を聞いたとかいう話ばかりでな、はっきりとした情報はない」
「まさか。ドラゴンがこんなところに現れるなんて、ありえませんよ」
ペルは笑いながらそう言った。しかし、デイモンは真顔で首を横に振る。
「いやそうとも言い切れんぞ。これは聞いた話だがな、隣村で先月、空からバジリスクが降ってくるという事件があったそうだ。さいわいながら地面に落ちた衝撃で死んだらしく、大事にはならなかったようだが、世の中には常識を越えたことが往々にしてあるものだよ」
「そ、空からバジリスクが……そうなんですか……」
ペルにとっては、なんとなく心当たりのある話だった。というか、以前にステラが強制転移の呪文でどこかへ飛ばしたバジリスクにまちがいないだろう。あの件、予想外のところで騒動となっていたようだ。ペルはあらためて、何事もステラが関わるとろくな結果にならないのを痛感した。
複雑な表情となったペルを怖がっていると勘違いしたのか、デイモンがやさしく彼の肩に手を置いた。
「はは、そう怖がらんでもいい。こことは別な場所の話だ。いまざっと見てきたところ、このあたりにモンスターの痕跡はなかった。まあ今回の噂は、きっとどこかの閑人が流した、たちの悪いデマだろう。で、おまえたち森までゆくのか?」
ラクスフェルドの東はこの林間地を過ぎれば深い森となる。そしてさらに奥には、エルフ族が住むといわれる霧の密林があった。
「いえ、ぼくたちは野草を探すだけなんで、このあたりで用事はすませるつもりです」
とペル。
「そうか。できればわたしもついていってやりたいが、今日はこのあと自警団の連中と畑の草むしりをする約束があってな」
「心配いりませんよ。ここへは何度かきたことがあるし、野草を見つけたらすぐ帰りますから」
「それならよかろう。だが、くれぐれも気をつけてな」
そう告げると、デイモンはペルたちがいまきた道をもどっていった。ふたりはその逆の方向へと進んだ。
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