2-3 どうやら、なめくじ大量発生
どうやら、なめくじ大量発生の謎は氷解した。しかし他人への嫌がらせにこれだけの労力を割くとは、よほど暇を持て余しているのか、相手への憎しみが募っているのか。カネ持ちや貴族に酔狂者が多いのは世の常である。とはいえ巻き込まれた無関係な者にとってみれば、たまったものではない。
「さてと、真相が判明したのはいいとして。とりあえず、あの卵をなんとかしなくちゃね」
ステラがその場にしゃがみ込んで下を見る。いまある大なめくじの卵は、レストブリッジ卿が運んだうちのまだ孵化していないものか、それとも新しく産みつけられたものだろうか。いずれにせよ、けっこうな数がある。
「なんとかするって、まさかあれを手で集めて運び出すんですか? いやだなあ……」
「あたしだってやーよ」
と口をとがらせてステラ。
当然である。あんなもの、誰だって絶対に触りたくはない。その結果、大なめくじの卵は、ステラのアスポートでどっかへ強制転移させてしまおうということになった。
ペルの見守るなか、ステラが魔術杖を掲げて精神を集中させる。彼女の杖の先端にある水晶が輝きはじめた。ペルは空気中のエーテルが励起するのを感じた。魔力が錬成される際の、びりびりとした波動が肌に伝わる。ちっぽけな鬼火の呪文を唱えるのとは、わけがちがう。のちに本人から聞いた話だが、ステラは膨大な魔力と引き換えに、ありとあらゆる呪文を触媒なしで行使することが可能なのだ。つまりは呪文を唱える直前、古代魔術の物質生成で必要な触媒を無から生み出し、それに魔力を乗じて発動させているのだという。燃費がネックとなるものの、なんという理不尽かつ、うらやましいスキルだろうか。
「アスポート!」
ステラが命じる。すぐさま魔術の法則がそれに呼応し、物質界で顕現した。大なめくじの卵がかたまっている場所の上に、小さなポータルが開く。するとその虚空への入口が、見る間に卵を吸い込んでゆくではないか。空中を移動しつつ、すっぽんすっぽんと実に手際よく。
「うひゃあ、便利だなあ」
呆気にとられるペル。そうして、さして時間もかからず、大なめくじの卵はすべて消えてなくなった。
「こんなもんかなっと」
一仕事を終えたステラが、ふうと息をついて額の汗を拭った。
「もう残ってませんか」
「と思うけど」
そんなことを言いつつ、ふたりが下の暗がりを覗き込もうと足場の縁まできたときだった。
ずるっ──
「わーっ!」
ステラが落ちた。ペルが咄嗟に手をのばしたものの、わずかに届かなかった。足下に苔が生えていたのである。それを踏んで足をすべらせたステラはそのまま落下し、ついで、ぐちゃっという音が聞こえた。どうやら落ちた先に大なめくじがいたようだ。
「ステラさん、大丈夫ですか!?」
ペルは呼びかけつつ、壁際の傾斜路を使って下に降りた。
「いったあ~い……」
どこからか聞こえたステラの声に安堵するペル。とりあえずは生きているようだ。薄暗いなかでがらくたに躓きながら、彼はステラを探した。鬼火を呼び寄せ、声のしたほうを光で照らす。ほどなくのあと、見つけた。ステラは地面に尻餅をついていた。その下で一匹の大なめくじがぺしゃんこになって潰れている。
「よかった、無事みたいですね」
「無事じゃないわよ、ったくもお」
杖をつき、腰をさすりながら立ちあがるステラ。しかし、その姿にペルは目を丸くする。
おかしい。先ほどまでのステラと、なにかがちがう。いや、というか、徐々に変化している。妙なのはステラのローブだ。いったいどういうことか、彼女が着ているローブの布の面積が、みるみるうちに減少してゆく。
さしたる時間もかからずに、かろうじて緋色の布きれが体に引っかかっているだけの状態となってしまうステラ。なんというラッキースケベだろうか。ペルは状況が理解できないながら、思わず神に感謝した。ああステラさん、いつもチラ見せするだけだったローブの中身は、こうなっていたんですね──あわわ、そんな場合じゃない。
「ス、ステラさん、服が! 服が!」
「ん?」
顔を背けてしどろもどろのペルに、怪訝な顔をするステラ。しかしなんだかやけに涼しくなっていることに気づき、彼女は首を曲げて自分の身体を見下ろす。
「あらら、ちょっとやだあ、なによこれ」
さすがにステラくらいの人生経験を積めば、こういうときでも小娘みたくあわてふためいたりはしないのである。
「きっと大なめくじの体液ですよ。モンスター事典には、酸性の唾液を吐くことがあるって書いてありましたから」
おそらくステラが落下して大なめくじを圧死させたとき、酸性の体液が彼女に飛び散ったのだ。そしてそれがローブを溶かしてしまったのである。
「待ってください。いまぼくのローブを貸しますから」
言いつつ、ペルは後ろを向くと、自分が着ている翰林院の修練生用ローブを急いで脱いだ。そうしてラクダシャツと股引だけになったペルが、ステラへローブを差し出す。
「あ、やさし~い」
などと茶化しながら、ステラはうれしそうにローブを受け取った。
ペルは背後の衣擦れの音を聞きながら、そわそわしている。自分のすぐ近くで女性が生着替え中となれば、当然だろう。もういいわよと声をかけられ振り返ると、そこには濃紺のローブに着替えたステラの姿があった。しかしペルの背丈はステラより頭ひとつ分くらい小さいのだ。サイズが合わずにちんちくりんである。
「これ、ちょっと胸がきついわね」
「しょうがないですよ。そこは我慢してください」
と、ご不満な様子のステラにペルが言う。実は胸だけではなく、腰のあたりもぱっつんぱっつんである。いや、むしろこれはこれでよいと思うのだが。
大なめくじ大量発生の謎は解けたし、原因となる卵も処理した。となれば、もうここに用はない。ふたりは廃坑の外へ出るため、来た道をもどることにした。
意気揚々としたペルの足取りは軽い。
「これで残るは、外に出た大なめくじをどうするかですね」
「そうね。でも大なめくじが塩に弱いからって、あれだけの数を退治するには相当な量が必要よ」
ここラクスフェルドでは塩が専売制となっている。税金も高いため、気軽に買えるものではないのだった。
「ううん、さすがのゴックさんでも、すぐには用意できないかもしれませんね」
「となれば、人海戦術か……いざとなれば、国王騎士団にでも、掛け合って……」
「あれ、ステラさん?」
ステラの口調に異変を感じ、どうかしましたかとペルが言いかけたとき、ふいに彼女が肩に手を置いてきた。ステラはそのまま力任せにぐいっとペルの向きを変えると、いきなり彼に体を預けた。のしかかられ、たまらず後ろへ倒れるペル。背中をしこたま地面に打ちつけた彼は、反射的に目を閉じてしまう。そうして目蓋を開け、ぼやけた視界にふたたび焦点が合わさると、ステラの顔が真正面にあった。
「ペル、どうしよ……あたし、なんか変みたい……」
両手でペルの顔を挟み、潤んだ目で彼を見下ろすステラが言った。その顔が近い。互いの鼻先が、触れそうなほどに。急に豹変したステラにペルは固まってしまう。いま自分に覆いかぶさっている彼女からは、甘い匂いがした。豊かな胸の重みを、みぞおちのあたりにずっしりと感じる。
ペルが覗き込んだステラの瞳のなかには、ピンクのハートが見えた。これはあれです、完全に欲情してます。そしてステラの、半ば開いてしっとり濡れた唇がペルのそれと重なる瞬間──
「ちょ、ちょっと待ってくださああああああああああい!」
ペルは火事場の馬鹿力でステラを押しのけると、手に持っていた魔術杖を思い切り振りおろした。窮地に追い詰められた者の無我夢中な行動だった。しかし彼はその最中、鈍い音とともに相手を仕留めたという確かな手応えを感じた。
数瞬ののち、へし折れて半分くらいの長さになった魔術杖を持つペルは、自分がやらかしてしまったことに気づく。その足下では、身を縮こまらせて丸くなったステラがぴくぴく震えていた。
「ペル! あんた、手加減なしで殴ったわね!」
地面に横たわり、魔術杖でぶたれた頭を押さえているステラが涙目でそう喚く。
「力ずくで乱暴されるところだったんですから、あたりまえでしょう!」
あやうく純潔の危機を逃れたペルは、息を喘がせながらそう怒鳴り返す。
どうやら、さきほど大なめくじに触れてしまったステラは、その粘液に含まれる催淫効果により我を失っていたようである。いわゆる魅了状態だ。
高位の魔術師であるステラは、それゆえに呪文抵抗力も並外れている。よって、彼女に幻惑系の呪文などを放つのは徒労といえた。ところが大なめくじを含む、一部のモンスターが生得的に備える能力により引き起こされる状態異常には、さほどの耐性がないらしい。ちなむと状態異常は僧侶などの聖職者が使う信仰呪文で解除可能なのだが、場合によってはいまのように強いショックで正気を取りもどすこともある。
「杖で殴るほかに、やりようがあんでしょうが。状態異常の解除くらいおぼえておきなさいよ」
ふらつきながらも壁に手をついて立ちあがったステラは、いまさっき自分がしでかしたことを覚えているのか、心なしか頬を赤くしている。
「無茶を言わないでくださいよ。信仰呪文なんてステラさんも使えないじゃないですか」
「いや、あたしは使えるから。死亡以外なら、どんな状態異常でも解除させるくらいは余裕なの!」
「はあ? なんですかそれ!?」
またひとつステラの万能性が発覚してしまった。秘術系と信仰系、さらに古代魔術にも通じるというステラの完全無欠に、ペルはあきれてしまう。
「あっ、たんこぶできてる! もおやだ、帰る!」
自分の頭をそろそろ撫でたステラは、そのままぷんすかと坑道の出口へ歩き出した。
ペルはしばらくステラの後ろ姿を呆然と眺めていたが、やがてのろくさと彼女のあとを追う。
「……不条理だ」
打ちひしがれるペル。だが、それも無理はなかろう。魔術師志望の少年ペルは知ってしまったのだ。おそらく自分ではどうやっても到達できない高みが、確実に存在するのを。
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