祥雲
O君は自他ともに認める孤高の少年だったが、森閑とした山の中腹で、何時間も空を見上げ続ける少年には、さすがに奇異の視線を向けずにはおれなかった。
(見晴らしがいいんだから、町を見ればいいのに)
小山の中腹、無住寺の敷地からは地元が一望できる。春休みが明けて幾日も経たない今日、晴れ晴れと午後の陽光の注ぐ町のそこここで、桜が白く照り返していた。
O君は腰の高さほどの木柵を背に、地べたに座って本を読んでいた。この場所を見つけたのは昨年だったか。家よりも寛げる、誰の声も聞こえない空間。以来、放課後はここで読書をすることが日課になった。とにかくひとりでいたかった。だから誰かが来れば、この特等席であっても放棄すると決めていたのだが、一昨日から姿を現し、あまつさえO君の数歩隣に陣取った少年に、どうしてか目が釘付けになっていた。
(何が楽しいんだ)
少年は柵に手をついて立ち、ぼんやりと空を見上げている。体格はO君より少し小柄なくらい、見覚えのない顔だから、町内別学区の小学生だと思われた。
こうやって横顔を凝視していても、少年は気にする素振りもない。これだけ近くにいるのだから、O君の存在に気付いていないはずはないだろうが、それなら故意に無視されているわけで、少々気分が悪かった。
少年は空を見上げたまま、大あくびをする。
「……退屈なら空なんて見るな」
無意識に声が漏れ、慌てて口を塞いだが、少年は弾かれたように振り向いた。心底驚いたように口をぽかんと開けてO君を見る。まるで本当に、今、O君に気付いた風なのが癪に障り、同時に、誰かの意識の中に存在したがっていた自分にも腹が立った。
「面白いか、空なんか見て」
不快を吐き出すように、勢い込んで言う。少年は少し考えるように首を傾げ、口を開いた。
「面白くは、ないよ」
「じゃあなんで見てるんだ」
「退屈だから」
意味が分からなかった。空を見るのは面白くないというくせに、退屈だから見ているという。なんという悪循環だろう。それを至って真面目に淡々と言うのが不思議で、O君の苛立ちは、少年への興味に移り始めた。
O君の奇異の視線を浴びて、少年は言葉を継ぎ足す。
「面白くはないけど……不思議だとは思う。空は方角や時間で色が変わっていくし、雲は形も流れる速さも違うから」ほら、と少年は空を指さす。「あの雲は犬に似てるでしょう?」
少年の視線を追って空を見上げ、目を凝らす。確かにその雲は、上下さかさまにすれば犬に見えないこともなかった。
でも面白くはないんだな、と言いかけて、O君は吸いこんだ息を、ゆっくり吐いた。
(理由があるんだ)
何時間も日が暮れるまで、この場所でひとり立っている理由が。面白くもない空を見上げてまでも、
無言のまま座るO君を、少年は黙ったまま見つめている。ひとりでいたい――家に帰り辛い理由があるのかもしれないと思うと、その、やや猫背な立ち姿はどことなく寂しげに見えた。
(オレと同じかもな)
O君は文庫本を閉じて立ち上がり、尻についた砂を払う。
(だったら話しかけても邪魔なだけだ)
本を小脇に挟み、両手をポケットに突っ込む。じゃ、と短く言って去りかけると、
「明日も来る?」
背に投げかけられた小さな声に、撃たれたような衝撃を受けて立ち止まる。一拍置いて振り返ると、少年は眉を歪ませて、さも深刻そうな顔をしていた。
「明日も、来て」
その
O君は帰宅後、ひとりで夕食を摂りながら、自分が無意識に顔を綻ばせていることに気付かなかった。
翌日も翌々日も寺へ上った。読書のためであると自分に言い聞かせていたが、少年の姿が視界に入ると、心なしか鼓動が弾んだ。
少年は
「雲の中はあったかいのかな」
「いや、寒いよ。高いところにいくほど、気温は下がるんだ」
そうなんだ、と大は呟きながら、空に浮かんだ種々の雲を見上げる。その退屈、というよち夢うつつな様子を見ると、ふと大が煙のように消えてしまいそうな気がして、O君は無理にでも話を続けることで現実世界に戻してやりたくなった。
「あれは高積雲っていうんだ。羊の群れみたいだから、羊雲ともいう」
「聞いたことある」
「それから羊雲の奥のずっと高いところに、細い筋みたいな雲があるだろ」
「ある」
「あれが巻雲。かなり横に広がってるから、上は風が強いんだろうな」
へえ、と大の返事は素っ気ない。しかしO君の示した雲を、ちらちらと目で追っているのは、話を真摯に受け止めてくれている証だった。
(素直で、良い奴なのに)
この春に転校してきたという。両親は共働き、年の離れた中学生の兄がひとりいて、入学早々、部活でレギュラー入りを目されているのだ、と大は話した。
家族との隔たりと同時に、学校での疎外感も強烈なものだろう、と思う。転校してきたばかりで当然な気もするが、あまり社交的とは思えない大の様子は、転校前でも孤独な学校生活を送っていたのではないかと想像させた。
(いいんだ、ひとりでも。周りの目なんか気にしなくていい)
親心というものは、こういう感覚なのだろうか。O君は自分が堂々と孤高でいる姿を、なんとか大に示したかった。ひとりでも強く生きられるのだ、と。
そんなことを考えながら感慨深げに大の横顔を眺めていると、ふと彼の小さな顔が強張った気がした。微かに口元が震えている。
「……あれは、あの雲は」
大は弱弱しく人差し指を出す。指を追った先――西の空には、夕陽の照りを受けて黄金に染まった雲が浮かんでいた。
「あれは……ちぎれ雲だな。もとは、この羊雲のひとつだったんじゃないか。今日は西風だから、来る途中ではぐれたんじゃ……」
言いながらO君は、とても悲しいことを話している、という気がして、声を小さくしていった。ちぎれたとか、はぐれたとか、適切な描写でありながら、大の前で使うべきではない、という気がした。
その日、大は喋らないままだった。悲しみで傷ついている風ではなく、何かを思案しているようなのが救いだったが、O君は取り返しのつかないことをした、と悔恨で胸がいっぱいだった。
無言の日が二日続いた。
三日目――大が隣に立ち始めてから一週間目、O君が寺への長い石段を上りきると、そこに大の姿はなかった。不吉なざわつきを覚えながら、いつも大の立っていた場所へ歩む。
(三百六十五日来られるわけじゃない)
一日姿が見えなかったくらいで、何を心配する必要があるのか――。
自嘲の笑みを浮かべながら、柵に手を突く。無意識に真下を見下ろした。
柵の向こうは急峻な斜面になっている。草が青々と茂って土は露出していないが、あちこちに小さな岩が突き出ているはずだった。O君は地元の奉仕作業で、この斜面――といってもかなり下の方だが――の草刈りをしたことがあった。
(落ちたら、死ぬ)
言い知れない危険を感じ、そして下生えの緑に向けて目を凝らした。
――そんなことをする奴じゃない。
懸命に何かを否定しながら、斜面に異常のないことを確かめる。ひと通り見終えたあと、それでも見落としがありはしないかと、再び端から目を動かし始めた。まだ涼しい四月に、汗がじわりと噴き出してくる。何度も斜面を往復し、乾いた眼球がひりひりと痛みを訴えだしたとき、首筋をひやりと風が掠めた。
ぴくりと肩を痙攣させて振り向く。真後ろに大が立っていた。
虚空を見つめる乾いた目、真一文字に閉ざされた口、胸元に上げた両の手のひらは、こちらに開かれ、今にもO君の胸に付きそうなほど近接している。
「お、驚かすなよ」
かろうじてO君が苦笑を浮かべながら言葉を発すると、大は静かに手を下ろした。
「ごめん……ちょっと裏を見に行ってて」
「裏?」
大は頷いて、寺の本堂を指す。
「お堂の裏から、道が続いてるでしょう。山の奥へ続く道が」
ああ、とO君は記憶を辿る。確かに深い森が続いていて、山を越えると隣町まで続いているはずだった。整備されておらず危ない、という大人たちの忠告を、O君は律儀に守っていた。
「とても景色の良い場所があるんだ。来ない?」
無表情で提案する大から視線を逸らし、西の空を見る。まだ夕暮れというには遠い時間だった。(行けるけど)隣町まで続いているとはいえ、この山は小さい。たとえ山の周りを迂回しても、さほど時間は掛からないはずだ。(景色の良い場所?)純粋に、未知の場所へ行ってみたいという興味はある。けれども――。
大に向き直る。――まただ。憐憫を誘う表情。断れば一体、どれぼど悲痛に歪むのか。
「……いいよ、行ってみよう」
鬱蒼と広葉樹の茂る森を道なりに進んだ。一応山というのだから頂上があるに違いないのだが、皿をひっくり返したようになだらかなせいで、知識のないO君には見当もつかなかった。そしておそらく大は頂上を目指していない。途中でいくつか分かれ道があったが、上り坂を避けて選んでいるように見えたからだ。
しばらく一本道を道なりに進むと、道の脇――斜面を少し下ったところに小さな池が現れた。助走をつければ飛び越えられそうな程度の池だったが、水が驚くほど黒い。底が真っ黒な泥なのか、もしくは相当深いのかもしれなかった。
大は迷わず、池へと斜面を下りた。O君も後に続く。
二人は水際に並んで立った。生ぬるい微風が、水面にごく細い波紋をたてている。
おもむろに大がしゃがみ、指先で水面を撫でた。
「冷たいよ」
触ってみて、というように、大が場所を譲る。立ち上がった大と入れ違いにO君は水際に腰を下ろした。水面に手を翳しかけたとき、背筋に悪寒が走った。(さっきと同じ)O君は反射的に立ち上がり、後ろを振り返る。(やっぱり)先刻と同じように、大は胸の前に、開いた両手を構えていた。
無表情でO君の目を見つめ、不自然なほど緩慢に手を下ろす。唐突に
――何が。
一体、大に何があったというのだろう。様子がおかしい。上下に揺れる小さな背中を追いながら、O君は考えていた。
(学校か、家か)
自暴自棄になってしまうようなこと。
(そんなの、いくらでもある)
O君は走り始める。もう樹木に紛れて消えてしまいそうな大の身体を、なんとか視界に保とうとした。
一度、大の姿を見失った。全速力で走っていたO君は、大が道から逸れたのだと思って、足を緩めた。ふわりと諦念が漂った。ただでさえ視界の悪い樹林の中、山道を外れれば、もうO君には追いかける手立てがない。そうして途方に暮れながら歩いていたので、道脇の木陰に
大が背を向けて立っていた。O君の声に、僅かに振り向く。
「……急に、置いて、いくなよ」
息を弾ませるO君を悲しげに一瞥し、細い脇道へと進んでいく。
「待て、どこ行くんだよ。そっちに、見せたい景色があるのか」
大は無言で立ち止まり、振り返らずに浅く頷く。O君はついていくしかなかった。
すぐに道が途切れた。しかし大は頓着することなく、辛うじて人の通れる獣道を踏み分けていく。(こんな人気のない)O君は考えることを何度もやめようと試みたが、上手くいかなかった。(ひとりで、悩んで)大のしようとしていることを信じたくなかった。
唐突に視界が拓けた。樹林が消え、黄金がかった夕空の下に三角の影が連なっている。
「屋根が見える……山を抜けたのか」
O君は大の隣に立つ。数歩先は急峻な斜面、もはや崖と呼べる角度だ。
大は南の空を指した。藍と黄金の狭間の虚空に、一羽のとんびが螺旋を描いていた。自らの存在を訴えるように
後ろを振り向くのと身体を押されるのが同時だった。無意識に踏ん張っていた右足のお陰で、かろうじて身体を横に滑らせる。O君の身体が突然横に消えて、力の向きを変えられず真っ直ぐ倒れる大を、半ば叩くように横へ弾いた。
二人は互いに逆方向へ倒れこんだ。腕を踏ん張って身体を起こそうとする大に、すかさず飛び掛かる。細い両手首を握って、馬乗りになった。
「おい……さっきからオレを、突き落とそうとしてるだろ! 寺でも、池でも……なんでだ」
大は何も答えない。弱弱しくO君を見つめ、力なく指先をだらんと垂らす様子は、威圧されて言葉が出ないというより、何をする気力もないという風だった。
「何があったかなんて言わなくていい。先週会ったばかりでお互い良く知らないし、正直、相談されても上手い言葉を返してやれない。でも、オレを崖に落としても何も変わらない。……一緒に死んでも、一緒にいてやれない」
O君は腰を後ろに引く。大の両腕を引っ張って、上半身を起こさせた。
「ひとりでも生きられる」背中についた土を払ってやる。「教室の後ろでバカ騒ぎしてる奴らも、放課後つるんで自転車乗り回してる奴らも、遠くの陰で集って見下してくる奴も……みんな気にしなくていい。好きなだけ言い返してやってもいい。そいつらが笑ってる間、お前は空を見て、人一倍いろんなことを考えてるんだから。お前には、堂々とする資格がある」
(オレだって、誰よりも本を読んで――)
「……違う」
細い、けれども凛とした声に虚を突かれる。
「やっぱり、君は、僕とは違うよ」
何かを否定されている、ということは分かったが、O君には思い当たる節がなかった。
「同じであって、ほしかった。だからこんな酷いことをして……」
「何がだ……同じだろう? オレらはひとりで、だから人のいないとこに登って――」
「でも君は強い」大は俯く。「自信がある、覚悟もある、だからひとりでいられる。僕とは違う。同じひとりでも、違う」
大の手首を握っていた手が力なく離れ落ちる。中腰のまま固まるO君の手を、今度は大がそっと拾って握った。
「意味もなく騒いでみたいよ。つるんで遊び回りたい。……見下すやつにはなりたくないけど、でも、僕はひとりでいられない。いられないのに――」握ったO君の手を、自らの頬に触れさせる。上から手を重ねて抓らせた。「夢の中なら、いくらでも話せるのに、誰に会っても怖くないのに。どうして……」
――夢。
大の言った夢という言葉が、妙にしっくり頭に残った。ぼんやりと立ち尽くし、今にも消えてしまいそうな弱弱しさ――そう、大は夢と形容するに相応しい少年だった。
――夢。
光輝が、差した。西の山へと沈みゆく夕日の放つ、最後の光輝。
ああ、と大が空を振り仰ぐ。光輝を受けて目映い黄金に染まった空に、楕円のちぎれ雲が浮かんでいた。
「ああ、こわい、こわい」
大は息を荒げて、赤ん坊のようにO君にしがみつく。
「こっちに来る、連れていかれる」
ずいぶんと低いところに浮かぶ雲は、しかし悠然とそこに留まって微動だにしない。燦然と光る雲と、その光輝を映した大の瞳。しがみついた小さな体の
(消える)
咄嗟に大を抱擁した。彼が揺らいだから。炎のように、半醒した夢のように。崖下で、とんびが激しく羽搏いた。寂しげにヒョロヒョロと鳴きながら、空へと飛び去って行く。冷たい風が胸に注ぎ込んでくる。――腕はもう何者も抱えていなかった。
抱擁を解いた。奥歯を食いしばり、拳で地面を押し込めて立ち上がる。崖の際まで歩み、膝をついて真下を覗き込んだ。
(一週間)
視界に捉えた小さな
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