運賃(前編)

 世界が鳴動していた。大地が揺れているのか、あるいは自身が震えているのか。低く唸るような響きは、潮騒のように寄せては返し、鼓動にも似たリズムを刻んでいる。風はなく、日差しもない。ただ薄闇の中で、遠く歓声が聞こえていた。楽し気な一家団欒の声だ。そこではしゃいでいるのが誰なのか無性に気になって、扇状に手を振り回したが虚しく空を掻くだけ、彼方の声だけが陽気に響く。諦めて膝をついた。耳を塞いで、眠るようにうつ伏せて、それでも声の主を描こうとする眼球を、破裂するほど目蓋で覆い潰したところで、ようやく周囲の闇が溶けだす気配がした。


 D君は後頭部の痛みに飛び起きた。視界は明転したが焦点は合わない。刺すような痛みに頭をさすろうと右手をあげると、小さな手がくっついてきた。目をしばたかせながら腕を辿ると、その手の持ち主は、くるりと振り向き、あどけない笑みを滲ませる。

「おきたの、お兄ちゃん。外、見て!」

 少女は窓に手を掛ける。春の陽光の降り注いだ田舎の風景が枠に収まっていた。頭痛が治まるまで、しばしほうけたように見とれ、その古風な家並みが左から右へ流れていることを不思議に思う。視線を前方に戻し、自らを包む箱型の空間と、規則的に並んだ座席、ぱらぱらと突き出ている男女の後頭部――それらを順々に意識の中へ呑み込んで、やっと自分がバスの最後部に乗っていることを思い出した。

「わあ、キレイねえ」

 少女は手を繋いだまま、窓に顔を貼り付ける。子犬のように溌剌はつらつ奔放とした動きに苦笑しつつ、手を離してやった。汗ばんだ手は空気に触れて、ひやりと風が吹いたような感覚をもたらした。


 そう、一実かずみはいつもこんな調子だ。お転婆で腕白で、兄であるD君をしょっちゅう困らせる。今日だって本当はバスに乗る必要などなかったのだ。一実がどうしても観たいアニメ映画があると言ってきかなかった。それで父親と三人、車で映画館に来たのだが、帰りがけ、カラフルなラッピングをしたバスが一実の視界に入ったのが運の尽き、あれに乗るんだと駄々をこねた六歳は梃子てこでも動かなかった。

「駅までだから、一緒に乗ってやってくれ」

 父親は二人分の運賃をD君に渡し、絹のような一実の髪に手櫛てぐしを滑らせる。背中を押された一実が喜んでバス停へ駆け出すのを、D君は大儀そうに追いかけた。誰かが車で帰らないといけないことは分かるし、それは父親以外ありえない。別に妹に付き添ってバスに乗ることくらい苦ではないのだが、どうしても気が進まなかった。


 D君は嬉々として窓にかじりつく一実を見る。

(一実が楽しそうなら、それでいいか)

 気怠さは消えなかったが、ともかく不安定な気持ちに決着をつけたかった。腰のポーチを開ける。居眠りしていたから終点の駅まではもうすぐだろう、と財布を探った。

「お兄ちゃん、お山が青い!」

 そうか良かったな、と適当に相槌を打つ。六歳というのは山でこれだけ喜べるらしい。微苦笑するD君の脳裏を違和感が掠めた。

(お山が、青い)

 青い、山が。――青い?

 財布を探る手が止まる。電光石火のごとく窓に噛り付いた。

 山が青かった。遠くバスの進行方向の先には、濃紺に染まった巨大な山脈が聳え立っている。

(乗り間違えた‼)

 こんな山脈、D君には見覚えがない。映画館から駅までの間どころか、町中どこにもこんな景観はないはずだった。

「ちゃんと駅行きの表示が出てたのに……」

 身体を戻して、慌てて財布を広げる。小銭入れには父親から渡された五百円玉が一枚と、幾ばくかの硬貨――合わせても百円に満たないだろう――が入っている。どうか一枚でもと願いながら札入れを開くと、見えた二枚の千円札に、D君は安堵の息を吐いた。

「お兄ちゃん、あせびっちょりね」

「仕方ないよ。――一実、次で降りるからな」

 まだ当分寛くつろげると思っていたのか、慌てて脱いでいた靴を履き直す。お気に入りのリュックを両手で抱えるのが一実にとっての準備らしかった。

 D君は前方の電光掲示板に目を向ける。どうか運賃が足りてほしいと祈りながら、細めた目を徐々に開いたが、何も見えない。奇妙に思って目を凝らすと、升目に区切られた電光掲示板のどこにも数字が示されていなかった。

 故障だろうか、と眉を顰めていると、バスが減速し始める。停留所に止まり、ぷしゅうと乾いたガス音を響かせて前方の降車口が開くのを見て、D君は首を捻った。

(ボタン、押してない)

 記憶を探ったが、降車ボタンを押した感覚も、押されて光っている画も、次で止まります、というアナウンスも全く覚えがなかった。だから無意識に、停留所に人が待っていると思ったのだ。後ろの乗車口だけが開くのだ、と。

 車内は沈黙している。人の出入りのない奇妙な時間に困惑したものの、思い通りのタイミングでバスが止まったのを良しとしたD君は、一実を後ろに伴わせ、真っ直ぐ通路を進んだ。

(早く降りないと、料金が上がっていく)

 運転席では痩せこけた若い男がハンドルを握っていた。ぼさぼさの髪を陰気に垂らし、前髪にかげった目元で虚ろに前方を見ている。

「あの……映画館の前から乗ってるんですけど、小人こども二人でいくらですか」

 ころりと黒目だけがこちらに向く。その生気を吸い取られるような奥深い瞳に、D君は思わず半歩後退った。背後の一実にぶつかって、慌てて体勢を立て直す。

「こ、故障してるみたいなんです」電光掲示板を指さす。「いくらか教えてください」

 力の限り凄んだつもりだったが、やはり運転手は答えない。それどころか視線を前へ戻してしまった。

(なんだよ、この運転手)

 心の内で怒りの言葉を発したが、本当は羞恥で全身から汗が噴き出し、今にも倒れそうだった。バスの発車を止めているのだ。乗客の舌打ち、乾いた溜息、一実の怪訝な視線――切迫に耐えきれなくなったD君は五百円玉を運賃箱に入れると、「これ二人分です」と軽く頭を下げて出ようとした。市バスはどこまで行っても、ひとり二百五十円なのだ。すると、

「駄目です」

 低い掠れ声が、D君を呼び止めた。――足りない。

「あ……ごめんなさい。僕、間違えてたみたいで……」

 うっかりしてただけ、決して運賃をごまかしたわけじゃないんです――運転手に対してか、乗客に向けてか、心中で何度も弁明しながら、財布に手を入れる。千円札を手に取った。

「これで」お札を一枚運賃箱に入れる。「ほら一実、行く――」

「駄目ですよ」

 踏み出しかけた足がぴたりと止まった。千五百円――小人ひとり七百五十円で足りないなんて。一体どれほど遠くまで来たのだろう。

(ああ、早く降りたいのに)

 おずおずと最後の千円札を引っ張り出して、箱に落とした。

「――駄目です」

 D君の視界の端でドアが閉まった。


 バスは一定の速度で進む。山脈を目指して、田圃の中を走っていた。

「おりないの?」一実が問いかける。

「まだ」D君は下唇を噛んだ。

 一実は怪訝そうにしながらも、再び顔を窓に張り付けた。まだ景色が見られると思って嬉しいようだ。

 停留所に止まるたび、乗客がぱらぱらと降りていった。D君を驚愕させたのは、誰一人として運賃箱に金を入れる客がいなかったことだ。それどころか降車ボタンを押す者も、ひとりとしていない。一度、勇気を奮いたたせて、近くの老夫婦に「なぜ誰も料金を払わないのか」と尋ねたが、彼らは怪訝にD君の顔を眺めるだけで、バスが停車すると何も言わず降りていった。――まるで払おうとしている方がおかしいと言わんばかりに。

 貸し切りバスか、長距離バスか――とにかく先払いするようなバスに紛れ込んだのだ、とD君は考えた。それなら相当な運賃であっても納得できる。

(じゃあ運転手は、僕らが紛れ込んだと知ってるんだ)

 背筋を寒気が走った。だれひとり運賃を払わずに降りる中、D君たちだけが止められたのだ。どうやってか、運転手はD君たちが先払いしていないことを分かっている。

(わざと乗せたんだ)

 普通、無関係な乗客が紛れ込んできたと分かったら、注意するはずだ。しかし乗車したときには何も言われなかった。なぜ――そう考えた途端、運転手は勿論、乗客の全てが、自分たちを陥れようとしている敵に見えてきた。代金が払えない、それはお店でいう万引きだ。自分たちは、お金が無いのに商品を持っていこうとしている。

 乗り間違えたことを正直に伝えれば、あるいは寛大な処置を施してもらえるかも――一時は描いていた淡い妄想は軽々と吹き飛んでいった。

(このまま乗るしかない……)

 終点まで乗って、こっぴどく叱られ、多額の料金を請求されるのだろうか。警察を呼ばれ、手錠を掛けられるのだろうか。

(払えない方が悪いんだ)

 当然だ、と思う。お金が無ければ乗ってはいけないのだ。こんな小遣いの端くれしか入っていない財布が憎かった。

「父さんも一緒に乗ってくれれば良かったのに……」

 溜息と同時に独白した父への愚痴を、何度か頭で反芻はんすうし、D君は勢いよく顔を上げた。

「父さんがいればいいんだ」

 そうだ、父親がいれば払ってもらえるのだ。バスが終点に着けば悲惨な結末になるだろうが、それまでに出会えれば運賃を払ってもらえる。

 それには父親に連絡することが不可欠だった。D君は窓に頬を貼りつかせている一実を見る。――ちょうど二人いる。人質、という言葉が記憶の隅から飛び出てきた。

「一実」肩を叩いて振り向かせる。「大事な話をするから、静かに聞いてくれよ」

 兄の普段見せない雰囲気を察知し、一実は神妙に頷く。

 お金が足りないことを正直に伝えた。バスから降りて公衆電話を探し、父の携帯に電話をしようとしていること、バスを追って駆けつけた父が料金を払えば、問題は解決することを懇切丁寧に説明した。

「上手くいけば何も問題は起こらない。ちょっとお金が足りなかったドジな兄妹で終わりだ」でも、とトーンを低めた二文字で、一実の表情は曇る。「公衆電話を探しにいって、父さんに電話を掛け終わるまで、バスは待ってくれない。それにあの運転手はきっと、電話を掛けたいというだけで二人ともは降ろしてくれない。でも、もう二千五百円は払ってるんだ。どちらかがバスに残っていれば……だから、バスの中で待ってて――」

 言い終わらないうちに、いやいやと激しく首を振る。

「……じゃあ一実が降りて、父さんに電話を掛けられるか?」

 これにも首を横に振る。

「だったら僕が行くしかない。……なあ一実、お金を払わないと、降りられないんだよ」

 D君の必死の説得も功を奏さず、一実は声を上げて泣き出した。慌てて背中をさすっても、懇々と言い聞かせても泣き止まない。乗客が憐憫と嫌悪のい交ぜになった視線を向け、悟ったように溜息をついて前に向き直っていく。

 ――一実を守ってあげなさい。

 幾度となく耳にした母親の声が甦る。

 ――お前が、一実の唯一の頼りなんだからな。

 父親はD君を立派な兄になるよう言い聞かせた。

(一実のそばにいてあげたいよ。でも早く降りなきゃ。……どうすれば)

 依然として泣き喚く一実の隣で、D君は反対の窓を眺めながら煩悶はんもんしていた。

(僕だって、こんなバスに、ひとりで待ってられない)

 どこへ辿り着くとも知らないバスに、話の通じない運転手に閉じ込められて。それに父親が追ってきたとして、終点までに追いつく保証はないのだ。たったひとり降りられず、運転手の詰問を受けることになるかも。

 一実の心中を考えると、どれほど心細いかは痛いほど想像できた。しかしD君の頭の中に、降りない、という選択肢はなかった。降りなければ大変なことになる。理屈抜きの焦燥があるからこそ、一実の存在は枷だった。だから必死で一実の恐怖を想像し、同じ恐怖を分かち合ったことにして、ひとりで待たせることを許されようとしているのかもしれない。

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