燃焼(後編)

「夏兄、夏兄! オレ、ドーナツ買ってきてもいい?」

 昼食を食べたそばから勢い込む峻に苦笑しながら、夏也は、いいよと頭を撫でる。夏也に迷惑を掛けないようにと母親から渡されたお金を自慢げに持って、カラフルな陳列棚へと駆け出した。

「もの凄く楽しんでくれてるみたいだね。なんだか荷物も特大級だったし」

「ごめんなさい」申し訳なさげにMさんは頭を下げる。「一晩泊まるだけって何度も言ったのに、サバイバルにでも行くような調子で」

「期待はありがたいよ。人見知りをしないのも助かる」夏也は微笑む。「三歳の頃に会ったきりだから、俺の顔なんて覚えてないだろうに。こんな懐いてくれるなんて嬉しいな」

「年上の男の人に憧れてるんです。最近は、友達のお兄さんに、ゲームセンターとかカラオケへ連れて行ってもらってるみたい」

「四年生だっけ……そういう時期だよなあ。特に自分の兄貴がいないと、誰か庇護してくれる人を求めるんだ。親の監視からは逃れたい、けど誰か面倒を見てくれる兄貴分はいないかって」

 そう言って、夏也はあらぬ方を見る。追憶に浸っているのだろうか、どこか哀しげだった。そんな彼の横顔を見ていたかったが、Mさんにはどうしても訊きたいことがあった。

「あの、お仕事で疲れてるんじゃないですか」

 夏也は視線だけをこちらに向ける。

「まあ肉体も神経も使う仕事だからね。消防って言っても、いろんな種類の仕事があるんだ。いわゆるレスキュー隊だったり、救急隊、指揮隊、車の運転をする機関員もいる。で、俺はまさにホース持って火を消す消防隊員。やっぱり火災は冬場が多いわけだけど、もちろん夏場の火災はある。電気火災から、蚊取り線香、花火の不始末とかね」

 Mさんは「不始末」という言葉に思わず俯く。夏也も失言に気付いたのか、ああ、と言ったきり言葉を切らした。


 外を見た。雑然としたフードコートの端、ガラス張りの壁の向こうに、表の通りが見える。遠くにサイレンの音が聞こえた。次いで鐘が鳴りはじめる。それは角を曲がるたびに音程を不気味に揺らがせながら接近し、不意に真っ赤な車体が、警戒音を振り撒いて目の前を通過していった。

 夏也は通りを凝視していた。微かに目が潤んでいるように見える。――気になるのだ。職業病だと人は言うだろうが、Mさんはそれが夏也の本質だと思っている。

「……なんで、私たちを誘ってくれたんですか? もしかして――」

「自分を憐れんでくれてるから、って?」

 心の内を見透かされていたことに、はっと息を呑む。夏也は小さく首を横に振った。

「それだけはないよ。俺はそんな善人じゃない。……あれからもう七年経って、君も中学生だ。とても怖い経験だけど、もう遠い過去の教訓話だろう」

 そして俺の人生を変えたことを気に病む必要もない、と夏也は殊更笑顔で言う。

「確かにあの一件があったから、消防士を目指し始めたし、仕事では命の危険に曝され続けている。でも俺はね、本当に君に感謝してるんだ。天職だよ。俺の中でくすぶっていた性質が、あのボヤで呼び起こされた、ただそれだけのことだ。……ずっとそれを気にしてくれていたんだね」

 夏也の言葉に、Mさんは思わず涙を滲ませる。小刻みに頷いた。

「……私、誰かの人生を決めちゃって、取り返しのつかないことをしたんじゃないかって。……ずっと恨まれてるかと」

 まさか、と夏也は屈託なく笑い飛ばす。

「慰めとか、仕返しとか、そんなつもりで誘ったわけじゃないよ。信用してくれていい。ただ、短い休暇で何か有意義なことをしたかった。誰かに恩返しでもできたら――そう考えてたらMちゃんの顔が浮かんだんだ。そして河原で花火をしてるところを見つけた。……こう言っちゃ悪いけど、退屈そうだったから。それで咄嗟に誘ってみたんだ」

「確かに退屈でした」Mさんは軽く噴き出す。「帰宅部だから、夏休みは毎日単調で。……本当にありがとうございました、誘ってくれて」

 二人が顔を見交わして笑っているところに、峻がトレーにドーナツを乗せてやってきた。姉ちゃんニヤけてて気持ちわりい、とデリカシーなく言い放つ。怒ったMさんが二の腕を抓り、峻が大袈裟に痛がって夏也に助けを求める――夏也はそんな光景を見ながら、Mさんに(こちらこそ、ありがとう)と口を動かしてみせた。


 これが青春なのだ、と十三年の人生で初めて思ったほどに充実した一日だった。明るいうちにテントを二つ――もちろん姉弟の分と夏也の分を――立て、川に飛び込んだ。最初Mさんは遠慮がちだったが、夏也が無邪気に水飛沫をたてているのをみて、躊躇していた気持ちが弾けた。

 さんざん遊び尽くすと、夕食の準備に取り掛かった。カセットコンロにフライパンと、家の調理となんら変わらなかったが、熱気に埋もれながら肉や野菜を次々と焼き、日が落ちてようやく完成した品々を頬張る瞬間は格別だった。

 食べ疲れ、話し疲れたころ、夏也は二人を河原に呼び寄せた。いつの間に作ったのだろう、薪が整然と組み合わされた立派なキャンプファイアが出来上がっていた。「キャンプらしいだろう」と夏也は得意顔だ。

 峻がせがんだので、さっそく火をつけた。簡素なログチェアを並べて座る。急速に冷え始めた夜気の中で、心地よい熱気が三人を包んだ。

 夏也はやはり涙ぐんでいるように見えた。揺らいだ炎を映していただけかもしれない。しかし、真っ直ぐ炎を見据えている瞳に、火に対する強い意志が見え隠れしていた。

 峻が微睡み始めたので、就寝することにした。夏也はまだ残っていると言うので、Mさんは弟の腕を引っ張って、テントへ入った。



 ひと眠りして、Mさんは目を醒ました。テントの中は薄明るいが、野外は一晩中そんな調子なので、明るさからは時間が想像つかない。携帯は鞄の中にある。取りに行こうと、寝袋から半身を起こしたとき、ちゃぷ、と音がした。雨滴が落ちるような音。小雨でも降り出したのだろうか、とテントの入り口に近寄り、ジッパーを開けて外を覗いた瞬間、鋭い刺激臭が鼻腔を突いた。咄嗟に思い描いたのは車内の光景。もう一度鼻に入ってきた臭いを確かめ、それは父がガソリンを入れているときの匂いに酷似していると気付いた。

(放火魔)

 反射的にそう思ったのと、頭上からぬっと伸びた影が後襟を掴んだのが同時だった。「きゃ」と叫声をあげかけた瞬間、口に布が詰め込まれる。テントから引き摺り出されたMさんの眼前にライターが突き付けられた。

「声を出せばテントに放り投げる」

 耳元で囁かれた掠れた男の声に、Mさんは夢中で頷く。半ば引き摺られるように、河原へと続く石段へ誘導された。

(夏也さん……!)

 石段を降りながら、Mさんは河原に炎が見えることを確認した。息を荒げながらも夏也の姿を探したが、ログチェアには誰の影もない。どこへ行ったのだろう、と不安が胸を覆った。身を捩じらせる。背中を乱暴にどつかれる。河原を炎の方へと歩かされ、とうとう炎の前、ログチェアのひとつに座らされた。

 男は黒のズボンに黒のパーカー、フードをこっぽりと被り、ネックウォーマーを鼻まで覆っており、周到さが窺えた。

 男は懐から縄らしきものを取り出す。

 ――縛りつけられる。

 直感した瞬間、鈍い叫びをあげて、男が視界から消えた。そうして男の立っていた場所に、見慣れた背丈の姿が浮かび上がる。

「てめえ、何してんだ!」

 吹っ飛んだ男を睨みつけた夏也は、すぐさま倒れた男に飛び掛かり、縄を奪い取る。

「もう大丈夫だ」

 震えて動けないMさんに夏也が近寄る。口の中の布を抜き出した。

「夏也、さん……テントから、出たら、この男の人が……」

「うん、分かってる」夏也はMさんの足元にしゃがみ、男の方を向いた。「触るなって言っただろ!」

 一喝してからMさんに向き直り、大丈夫だ、と再び宥めた。

(良かった、夏也さんがいてくれて)

 一呼吸一呼吸、少しずつ落ち着いていく思考の中で、Mさんは夏也に感謝の言葉を思い浮かべた。パニックになると動けない自分が情けない。脅されてはいたが、道中は縄を繋がれていなかったのだから、逃げ出す隙があったかも――そう思いながら、Mさんは自分の足首に巻かれていく縄を見つめていた。

 妙な違和感があった。起きてからの記憶をなぞる。異音がして、外に出ると男に掴まれた。炎の前まで引っ張り出され、夏也が助けに来た――。いたって明快なシナリオのはずが、どこか気持ち悪かった。

 ――触るなって言っただろ。

 そう、夏也は男に、自分を触らないように言ってくれていたのだ。

(いつ)

 全身をわけもなく怖気おぞけが走った。夏也の姿を視界に捉えたときには既に、Mさんの両脚と腰は椅子に、両手首は背凭れの後ろで纏められ、微動だに出来なかった。


 背後でむくりと男の立ち上がる気配がする。夏也が「行け」と短く言い放つと、男は舌打ちをして駆け去った。男の姿が見えなくなると、夏也は顔を緩め、心配そうな顔つきで覗き込んでくる。

「怖かったろう、あんな目に遭うことはなかったんだ」

 Mさんは声どころか、呼吸すら上手く吐き出せなかった。

「どこも痛くはないかい? じゃあ始めよう」

 何を、と問う間もなく、夏也は燃え盛る炎から薪を一本抜き取った。Mさんの薄い上着の裾に押しつけると、赤い火が移る。焚火の明かりと同化したそれは、絵画のように一瞬間静止したのち、にわかに膨れ上がった。

「あっつ、あついっ‼」

 Mさんは無心で身体を捩じらせ、裾に灯った火を消そうとしたが、生半可な動きで消えるはずもない。風に揺らいだ炎が露出した腕に触れ、魚類のように筋肉が跳ねた。

 顔を上げて夏也を見る。焚火を映して鈍く光る瞳。憐れみとも恍惚ともつかない表情でMさんを見下ろしている彼は、おもむろに上着を脱ぐと、力いっぱい炎をはたいた。

「大丈夫だ。俺がいるから信用して。必ず消してあげるから」

 息を呑んだMさんの、今度は左に近寄ってくる。有無を言わさず、ズボンの裾に火が押し当てられた。

「あついっ! やめて、夏也さん!」

 振り払おうにも脚が動かない。動転したMさんは、弱弱しく息を吹きかけたが、足元の火は毛ほども鎮まらなかった。薄い綿地を焼き焦がして、炎が肌に触れる。その痛みに声にならない叫びをあげると、夏也は再び手際よくはたき、炎を消した。

「もう消えたよ、安心して」

「……何を……私、火傷してる……」

 滝のような汗が目に入って、Mさんは両目を閉じた。

 ――一体夏也に何があったのだ。

 火をつけては消し、そうして自分を心配する。殺人鬼に変貌したのではない、いたぶって遊んでいるのでもない。まるでこうすることが当然と言わんばかりに平然と火をつけようとする行動が、尋常ではない。

(さっきの男に脅されたの? 何か薬を飲まされたの?)

「これが俺だよ」

 Mさんの心を読んだように、夏也が呟く。瞼の汗を拭って、Mさんの目を開かせた。

「君を助けたあの日から、ずっとこうしたかった」

 右袖に火がつけられる。半ば狂乱状態で身体を飛び上がらせたMさんは、河原の上に椅子ごと横転した。体勢が悪く、むしろ炎が広がり始めたのを、夏也は寂しげに見遣る。

「……君のお陰なんだよ。あのときボヤを起こしてくれたから、俺は火が好きになった――いや火を嗜好する自分に気付けたんだ。――だからこの仕事を選んだ」

 夏也は火を消す。腕が背凭れと砂利に挟まって激しい痛みを訴えた。だが、這いまわる気力は尽きていた。

「心が震えるということを知ったよ。火はとても温かくて、荘厳で、抱擁すると同時に解放してくれる……でも、どれだけ大きな火事を見ても満たされなかった」

 昨日までは、とMさんの頭をそっと撫でる。

「花火をするMちゃん。やっと分かった、君じゃないと駄目だって」

 とても甘美な言葉だ、と思った。一度は言われたいと願っていた台詞。しかし今は彼の背景に立ち昇る炎のように、その言葉は激しい恐怖として襲いかかってくる。

「君を燃やしたい。とても綺麗で、大切な君を。……でも燃やしてしまえば、二度と君に会えなくなる。花火のように燃え尽きてしまった君では、俺は満たされないだろう」

 だから、と夏也は無邪気に笑む。「一緒に燃えよう」

 夏也は倒れた椅子を立て直す。

(私、燃えて死ぬんだ)

 おぼろに思いながら、ふと峻の寝ているテントの方を見る。

「……ああ、心配なんだね。君を失ってしまったら峻君は唯一の姉弟を失ってしまう。俺も小さい頃、兄貴が事故で亡くなったから、寂しさは痛いほど分かるよ。……そうだね、峻君は先に死なせてあげる。ご両親のことも心配しなくていい、さっきの男が火をつけに行ってくれたから。――そんな顔をしないで。あいつは性悪だけど、仕事は失敗しない」

 夏也は軽く頷くと、石段の方へと歩いていった。


(峻が……)

 夏也の背が小さく消えたあとの暗がりに、寝息をたてる弟の横顔が映った。小うるさくて、ちょっかいばかりかけてくる弟。姉ちゃん、と呼ぶ声が今になって愛おしい。

「……ちゃん、姉ちゃん」

 意識の遠ざかる中で耳に流れる声――それが死に向かう途中の幻聴ではないと気付いたのは、寝ぐせの酷い弟の、しかし真っ直ぐ強い眼光を浴びたときだった。

「姉ちゃん! なんだよこれ……夏兄がやったのか?」

 峻は懐から万能ナイフを取り出す。四肢を縛り付けている縄を切り始めた。

「叫び声が聞こえて起きたんだ。そしたら姉ちゃんがいなくて、河原の方を見たら人影が動いてた。そのとき変な男が走って来たんだ。訳わかんなくて、とにかく河原に降りたら……」

 峻はそれきり静かになり、黙々とナイフを動かす。足首、腰、と縄が切れ、ついに両手が自由になった。立ち上がろうとしたが、脚に力が入らない。腿が痙攣している。

 唐突に、峻の姿が消えた。一拍置いて地面を鈍い振動が伝わる。

「そんなに強くは蹴ってない」暗がりから出現した夏也の視線の先に、蹲って頭を抱えた弟の姿がある。「予定変更だ。そら、今のうちに飛び込んで。必ず峻は死なせる、俺もあとを追うから」

 夏也は何かを懇願している、それだけは理解できた。しかし――。

 Mさんは呼気に力を入れる。あ、と音が出たのを確認し、言葉を続ける。

「なにが、あったんですか。私たち、酷いことをしてしまったなら、謝ります」

「違うよ、君らは悪くない、誰も悪くないんだ」

 慌てた様子で肩に置かれた手を、Mさんは即刻振り払う。手を引いた夏也は、見放されたように寂しげな顔をした。

 夏也の背後で炎が爆ぜる。拳を握るのが見えた。――何かが夏也の内で破裂しようとしている。

 凄まじい速度で腕を掴まれた。「やっ」腕が抜けるほど引っ張られ、倒れかけたところを、抱えあげられた。炎へ、炎へと夏也は歩む。夏也の身体を手当たり次第叩いたが、強靭な肉体はびくとも揺るがない。火の粉に顔を顰めたそのとき、Mさんの身体は垂直に落下した。

「姉ちゃんに、触んな!」

 夏也は四つん這いで呻いている。峻は手に持ったログチェアを、再び夏也に叩きつけた。うう、と呻く。しかし小学四年生の渾身の力は、鍛え上げられた肉体には弱すぎた。

 夏也は蹌踉よろけながらも、Mさんに縋りつく。両腕を掴み、懇願するような上目遣いで、炎へと手繰り寄せていく。峻が夏也の腕を殴りつけた。「離せ! 離せよ!」

 死に物狂いで引き剝がそうとする峻を挟んで、Mさんは夏也を不思議な浮遊感を持って眺めていた。

(こんなに必死に)

 人が燃えることを渇望して。そこには社会に対する不満も、苛立ちも、自らの性質を呪う気持ちもない。ただ燃やしたいという衝動だけ。

「突き飛ばせ!」

 峻の叫びが聞こえた。何をしたつもりもなかったが、Mさんは自分の両手が、夏也の胸を突き飛ばしているのを見た。恐ろしく固まって離れなかった彼の手が、手応えなく崩れていった。

 後退った夏也はバランスを崩し、炎へと背からくずおれた。断末魔の悲鳴が轟く。のた打ち回る姿は、しかし一向に炎から出ることはなく、苦痛に歪んだ顔が溶けて、どこか恍惚の色を浮かべながら地面に沈み切るまで、彼は業火の只中で踊り続けた。


 その晩、通報を受けた警察が、住宅にガソリンを撒いている男を現行犯逮捕した。男は町内で発生した他の火災にも、夏也の指示を受ける形で関与しており、隣市――夏也の前居住地域――での火災と合わせて、二十件以上の余罪が判明した。

 夏也は最終的に自殺という扱いになった。Mさんと弟の加えた攻撃――正当防衛と認められた――を加味しても、夏也は十分動ける状態であり、これまでの犯行に対する慙愧ざんきの念から焼身自殺を図ったものと結論付けられた。

 Mさんは炎に対して恐怖症を発するようになった。火が視界に入ると震えが始まり、過呼吸状態になって倒れこむのだが、そのたびに「お兄ちゃんは悪くない、お兄ちゃんは悪くない」と譫言うわごとのように繰り返すのだという。

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