燃焼(前編)

 男の子に気安く話し掛けられなくなったのは、いつからだったろう。遠い昔の話ではあるまい。つい二、三年前――小学校高学年の頃ではなかったか、とMさんは思う。男女が各々の集団を形成し、昼休みも放課後も一緒に遊ぶことが少なくなった頃。同じ教室で過ごしながら、どこか他人行儀で、そのあたりから、よそよそしく名字で呼び始めた気がする。

 Mさんは河原から土手を見上げて棒立ちになり、思考を巡らせていた。

(懐かしい)

 土手上の小道、街灯の下に佇む彼の影。一瞬捉えた凛々しい面影に、思わず「お兄ちゃん」と声を掛けてしまったのは、ほんの十秒前のことだ。

「……熱っ!」

 足首に痛みが走った。それでようやく、手持ち花火が勢いよく火を噴いたままであることを思い出す。急に恥ずかしさが押し寄せ、Mさんは花火をバケツの水に突っ込んだ。激しい熱を放っていた薬筒が微かな悲鳴をあげ、忽然と光を失った。

 次の花火を物色していた友達が、怪訝そうにMさんを見て、土手の上に視線をずらした。夜七時過ぎ。夏場のこと、日が長いとはいえ、沈んだそばから急速に闇は濃くなっている。

 街灯下の男は、こちらを向いて佇んでいた。

「あの人、知り合い? でもお兄さんいないよね」

「……人違いだった。さ、もう帰ろう。最近放火が多いらしいから、私らが疑われたら面倒でしょう?」

「でもこっち見てるよ。あ、手振った!」

 思わずMさんも土手を見上げ、そして先ほど視界で捉えていた影が、人違いではなかったことを確認する。隣で友達が「へえ」と意味ありげな声を漏らした。何かを悟ったようにニヤつく彼女に抗議の視線を送り、しかし手を振り続けているシルエットを見て、仕方なしという風に歩き始めた。


 細い石段を上って、灯りの下に近寄る。

「……こんばんは。あの、夏也さん?」

 そうだよ、と微笑む彼を見て、Mさんは頬を赤らめる。

(暗くてよかった)

 夏也と一定の距離を保って立ち止まる。

(すごい、大人だなあ)

 夏也は筋肉の盛り上がった半袖短パン姿で、うっすらと汗をかいていた。

「少し走ってたんだ、日中は暑いから。……久し振りだね」

「お久し振りです。……戻られてたんですか?」

「そう。少し早いけど盆休み。実はね、異動したんだ」夏也は親指で背後を示す。「第一消防署。ついに地元勤務だよ。四月から近所のアパートで一人暮らしだ。……もう何年も実家に顔出してなかったからさ、今年の盆休みくらいは帰らなきゃって、昨日からは実家にいるんだ」

 実家に、と呟きながら、Mさんは自分の内側が一層熱を帯びていくのを感じた。

 Mさんの家は、夏也の実家と隣同士だ。といっても幼馴染とは呼べない。夏也はMさんと歳が十も離れていた。そしてMさんが小学校に上がると同時、彼は進学して家を離れていった。

「せっかく会えたけど、休暇は明日までなんだ」

 Mさんは刹那、落胆する。それが表情に出てしまったのか、夏也は失言を取り繕うように言葉を継いだ。

「それでさ、うん、明日、キャンプに行かない?」

 沈みかけたMさんの熱が急浮上してくる。彼の一言ひとことに一喜一憂する自分が情けなく恥ずかしい。

「急すぎるよな。でも大層なキャンプじゃなくて、たとえばこの川沿いとか。ほら、向こうに小さい広場があったろう。道具の準備は全部俺がするよ。Mちゃんと、弟君と、三人でバーベキューしてテント泊。どうかな?」

「キャンプ……」

 激しく浮沈を繰り返す感情を胸に、Mさんは夏也の顔を見る。憧れの人。忙しい仕事の合間に、自分と遊んでくれるなんて夢のような話だった。夏也にとっては、妹、あるいは姪っ子に接するような感覚なのだろうが、ろくに交流のない隣家の子供を気に掛けてもらえるだけでも奇跡に近かった。

 いや、とMさんは思い直して、険しい顔つきになる。

(あのことがあったから、だ)

 確かにまともな交流は皆無だったが、気にかける事情がないではなかった。

「……お母さんに相談してみます。峻にも。それで了解してもらえたら――」

 先を言い淀むMさんを見て、夏也はポケットから携帯を取り出す。

「連絡してくれるんだね」

 Mさんは小さく頷く。――まさか夏也と連絡先を交換できる日が来るとは。

 夏也と別れ、河原に戻る途中で、バケツを持った友達が石段を上がってきた。「顔は緩んでるのに足取りは重そうね」と言われたMさんは、言い返す言葉が一文字たりとも浮かばなかった。


 夏也は温厚で正義感の強い好青年だが、自分を無条件で気にかけてくれるわけではない、とMさんは分かっている。

 Mさんが小学校に上がる前のことだ。おめかしに興味を抱き始めたMさんは、親が留守の隙を見計らって、鏡台から自室へと化粧道具を拝借してきた。わざわざ自室へ持ってくるあたり、悪事の自覚はあったのだろうと思う。部屋の戸を閉めて一息つき、ベッドの上で作業に取り掛かった。ファンデーションを上品に擦りつけ、アイラインを引き、口紅をあしらって、そうそう髪の毛も直さなくちゃと、母親の見よう見まねでヘアアイロンを当てた。そうして、あら口紅が取れてきたわと、化粧直しに夢中になるうち、不意に焦げ臭さが鼻をついた。間髪入れず灰色の煙が顔面に吹き付ける。振り向くと布団に真っ赤な炎が揺らいでいた。しまった、とヘアアイロンのプラグを抜いたが後の祭り、真っ黒に焦げた布団の中央から炎が立ち昇り始めていた。

 Mさんは窓を開けた。煙は有毒だと教わったことがあったから。しかし火に対処するものが水しか浮かばない当たり、まだまだ未熟な園児だったと思う。大慌てで台所へ水を調達しに行った。誰かを呼ぶなんて想像できなかった。もしあのまま一人で愚直な消火活動を始めていれば、逃げ遅れていたに違いない。――だから夏也には感謝してもしきれない。


 部屋に戻ると夏也が立っていた。手には家庭用の消火器。Mさんが「お兄ちゃん」と叫ぶ前に、彼は消火剤を噴射し、瞬く間に火は消え、事なきを得た。

 あとから聞くと、受験勉強中の夏也が、ふと外を見ると、隣家の窓から細い白煙が見えた。それで身体の動くまま自宅の消火器を握りしめ、思い切って侵入したのだという。

 夏也は命の恩人だった。そして無自覚な初恋の相手でも。驚くべきことは、夏也がその一件以来、消防士を目指し始めたことだ。こうして実際、消防士となって地元に帰ってきていることは素直に誇らしいが、自分の不始末が原因であることは居た堪れなかった。

「本当は料理人になるはずだったのに……」

 Mさんは親の許可が取れた、と送信した文面を眺めながら呟く。母親も、放火が多いという噂を気にしていたが、夏也がいるならと案外簡単に折れてくれた。

「こんな幸運があるんだあ……」

 夏也は都会で働き、気が付けば結婚していて、子供に囲まれ充実した生活を送っている――そんなイメージを持っていたし、彼のような人間はそうあるべきだ、という気がしていた。それが田舎に帰って来て、自分なんかを気にしてくれるなんて。

 あまりの幸運が信じられず悶々としていたところに着信音が鳴ったので、Mさんは携帯を床に落としてしまった。

(ビビりで、お間抜けで、すぐパニックになる)

 こんな小娘なのに――。Mさんは自分に呆れながら携帯を拾ってメールに目を通す。夏也からだ。こんばんは、とお決まりの挨拶文句ですら輝いて見えた。

  良かった。一緒に買い出しを手伝ってほしいんだけど、昼頃迎えに行ってもいい?

 当然弟と三人で、という意味だろうが、Mさんは「一緒に」と何度も呟きながら、了解の旨を返信した。

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