任意同行

 禁じられたことを破りたくなる、という人間のさがに抗い続けていたB君も、ついに一度だけ、本能に敗北してしまったことがある。ちょうど十一年前、B君が小学校に上がって最初の夏休みのことだ。

 田畑に埋もれるような田舎で育ったB君は、友達と互いの家で遊んだり、町民プールへ行ったり、家族旅行に出掛けたりと、大忙しの休暇を送っていた。

 母親が厳しい人で、毎朝決まった時間に宿題をしなければいけないことは辛かったが、B君がきちんと勉強すれば、きちんと遊ばせてくれた点、良い母親だったように思う。そのため、小学生ならば溜まって当然の宿題は早々に終わり、夏休み最後の一週間などは、もはやすることがなくなり、暇に喘いでいたくらいだった。

 とりあえず遊び相手はいないか同級生をあたってみたが、誰も彼も宿題に追われて家を抜け出せない。家にいても父親は出勤しているし、母親は一歳になったばかりの弟の世話に忙しく、B君に構う余裕がなかった。

(何か面白いことないかな)

 B君は、窓の外のぎらついた午後の日差しに辟易へきえきしながらも、家の中に閉じこもっている憂鬱さに耐えかねて、ついに外へ出ることを決心した。缶バッジのいくつも付いたお気に入りのリュックに水筒と小銭入れ、母親に持たされた携帯電話を詰めると、キャップ帽を被り、「遊んでくる」とだけ告げて玄関を出た。


 家から一歩出た瞬間に、熱波が襲ってきた。見渡す限り四方は鮮やかな緑の波に囲まれている。路地に出て、あぜ道に入りながら、青々と茂った稲に、ささやかな金の穂が色づいてきているのが見てとれた。

 南には延々と田が続いているが、北は数枚の田を隔てて小高い山がそびえている。麓には東西に真っ直ぐ伸びる道があり、道端の道祖神の祠には、農作業に疲れた老人のためのベンチが設えられていた。

 B君はとりあえず道祖神を目指して、畦道を北へ歩いた。田圃の只中は、陽を遮るものがなく、焦げた肌から汗が噴き出してくる。視界の先に小さく見える祠へ、早く早くと足を動かしていると、唐突に背後から土を踏みしめる音が響いた。

 振り返ってみると、B君の十メートルほど後ろを、二人の男が横並びで歩いていた。

「や、今日は暑いなあ」

 あごひげを蓄えた中年男が言うと、隣の恰幅の良い青年が頷く。

「暑いですね」

 その一瞬のやり取りで、B君は中年男に嫌悪を抱いた。シャツにびっしょり汗染みをつけ、しきりに首を掻いていたせいかもしれないし、あるいは我が儘な上司に従う部下、という構図に見えたからかもしれない(B君は普段、父親と上司をそういう風に見ていた)。とにかく中年男に嫌悪感を持ち、相対的に青年には好感を抱いた。

 ともあれ、田圃のど真ん中で、背後から大人に追い立てられるのは居心地が悪い。B君は小走りで畦を駆け抜け、道路を進むと、道祖神の祠横のベンチに腰掛けた。


 シャラシャラと氷の鳴る水筒を出して、冷えた麦茶を喉に通す。外へ出たものの、結局することはなかったな、と溜息をついていると、B君は急に身構えた。先ほどの男二人が、こちらへ近付いてくるのが視界に入ったのだ。

 畦から出たらこの道に行き着くのは当然だ、目の前を過ぎ去るだけ、という期待も虚しく、彼らはB君のすぐ側で足を止めた。

「この山はどこから登ればいいのか、さっぱり分からんな」

「分かりませんね……せっかくここまで来たんですが」

 二人はB君には一切興味を見せず、北山を眺めている。

(目の前に道が続いてるじゃないか)

 B君は内心でそう呟く。彼らの目の前、祠のすぐ側からは、北へ小道が続いている。奥へ行くと小さな神社の脇を通り過ぎ、山道へと繋がっているのだ。

 二人は腕組みをして、うんうん唸っている。ついにB君は痺れを切らして、「真っ直ぐ行けばいいです」と言い放った。そのとき振り向いた中年男の、ぎらついた眼光とぴくりと痙攣する口元――。B君は自分でもやり過ぎだと思うほど、あからさまに顔をしかめた。

「真っ直ぐ行って、それから?」

 中年男は一歩近付いてくる。

「ええと、右に神社があります」

「そこを過ぎると?」

 さらに一歩寄ってきたが、B君の背後はベンチで、もう後退れない。

「……山の入り口があって、道に沿って行くと、上まで行けます」

「道に沿わないと?」

「……途中で左に曲がると、お墓があったと、思います……」

 ひげに混じる白髪を数えられるほど顔面を寄せられ、B君はベンチに尻もちをついた。中年男はなおも顔を寄せ、しきりに鼻をひくつかせている。

 困り果てて青年を見ると、彼は申し訳なさげに微苦笑を浮かべていた。「どうしますか」と青年が助け舟を出すと、ようやく中年男は顔を離した。

「その脇道とやらを見逃がしたら終わりらしい」

「そうですね」

(左に注意しとけば、すぐ分かるけど)

 さっきからこの大人二人は何を躊躇っているのだろう、とB君は苛立った。今歩いてきた道を目線で辿る。目を凝らせば、出てきた玄関がしっかりと見て取れた。

「……あの、僕が案内しましょうか」

 二人が大仰に振り向く。中年男は目を丸くして、

「君がかい? ダメダメ、小さい子を使うわけにはいかんよ」

「べつに、暇だから」

 家もすぐそこだし、と指をさす。もしも彼らが「悪い大人」だった場合の、B君なりの牽制のつもりだった。

「そうだな……本当にいいのかい?」

 B君が頷くと、中年男は唸る。他に人影がないことを確認するように、辺りを見回した。

「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうとするか。おい――」

 このとき中年男は、青年の名前を呼んだように思った。しかしB君には、それが外国の名前のように聞き取れなかった。

「担いであげなさい」

「え、ほんのすぐそこですよ――」

 自分で歩けます、と言葉の抵抗虚しく、B君はたちまち青年に肩車をされた。突然地面を失って震える膝を、青年は柔らかく叩く。

「ありがとうね、しっかり頭に掴まってなよ」


 いたたまれない思いで、肩車されたまま大人二人を案内した。いや、道は真っ直ぐなのだから、もはや案内というより同行していると言う方が正しい。

 降ろしてほしい、という訴えを何度も聞き流されていたのだが、神社を越え、山道に入ると唐突に地面に降ろされ、B君は困惑しながら歩き始めた。

(たしかに山道で肩車はあぶないけど……)

 緩やかな上りを無言で歩きながら、B君は、彼らの目的について考えていた。

 最初に過ったのは誘拐や殺人の可能性だが、大人の男二人がいて、こんな回りくどい方法を取るとは思えない。特に青年は、単独でもB君を連れ去ることなど造作もないだろう。

(やっぱりお墓に用があるのかな)

 中年男は、脇道を見逃したら終わりだ、と言った。すると、その先にある墓に用があると考えるのが妥当だろう。遠方から墓参りに来たのだろうか、それとも墓に関係した業者だろうか――そんなことを悶々と考えている間に、例の脇道に着いた。

「こっちです。この先がお墓」

 これで解放される、とB君は安堵したが、「よし、行こうか」と中年男に言われて驚いた。もう視界の先には、立ち並んだ墓石が覗いている。男に手振りで促され、しぶしぶ先頭を歩き始めた。

 墓地に着くと、二人は突如険しい表情になった。

(墓参りじゃないのか)

 確かに、はるばる遠方から来たとして、何一つ持たずに手ぶらで参るのは妙だ。

青年は整然と並んだ墓石の間を歩き回り、しきりに屈んでは、目を閉じて鼻をひくつかせている。その姿は地面に落ちた何かを探しているようにも、あるいは地面そのものの匂いを嗅いでいるようにも見えた。

「……これ、参り墓だ。ここじゃない!」

「なんだとっ」

 彼らはしばし狼狽し、同時にB君の方を振り向いた。

「……上にも、お墓があるのかい?」

 中年男が、わざとらしく笑みを浮かべる。

「……あります。そっちが本当のお墓で……でも、行ったらダメだと言われてます」

 B君は手の震えを抑えながらも、はっきりとそう言った。

「そうか……」

 B君は足に力を入れる。逃げ切れるかは分からないが、全力で走る準備だけはしておきたかった。

「じゃあ」B君は踏み込みかける。「これで案内は終わりだな」

 予期していなかった言葉に、「へ」と間の抜けた声が漏れた。中年男は苦笑して、

「逃げたいほど嫌だったようだな。でも、もう終わりだ」

「逃げたかったわけじゃ……もう帰れるかと思っただけで……」

「それなら尚更連れていくわけにはいかん。とにかく君はさっさと帰りなさい」

 突き放すように言われ、B君は少し腹が立った。ここまで案内させてきて、この変わりようは何なのか。

 二人は既に墓をあとにしている。

(行かないで)

 脳裏に、家族と友達の顔がちらついた。みんな忙しそうにして、相手にしてくれない。その倦怠感を払拭するために外へ出てきたのに――。

 B君は遠ざかりかけた後ろ姿に思わず声を掛けた。

「僕、道知ってます」ぐわっと二人が振り返る。「……二回だけど登ったことがあって、でもちゃんと道を覚えてます」

「ほう」

 中年男は、B君を興味深そうに眺める。

「身体がボロボロになってしまうよ」

「まだ全然疲れてないです。……オジさんの方が心配なくらい」

 中年男は声をあげて笑う。

「あははは……。じゃあ、家の人に会えなくなったらどうする?」

「だから僕の家はすぐそこに見えてます」B君は南を指さす。「真っ暗になっても、明かりが見えれば帰れます。今日は晴れてるから月も明るいし、ケータイも持ってるから」

「……現代の田舎っ子は頼もしいね」

 中年男は青年と目を見交わし、頷く。

「案内してくれるんだな」

 B君は大きく頷いた。


 勢いで案内役を買って出たものの、案の定、幾度か迷いかけて、結局目的地に着いたのは陽が傾き始めた頃だった。

 下生えが意図的に刈り取られた、しかしどこか雑然と自然に埋没している墓場。それは土葬が禁止されて以来使われず、管理以外に人が踏み入れていない証左だ。夕日の木漏れ日が、朽ちかけた白木の墓標群を、燃やすように照らしていた。

「ここ、です」

 滝汗を流すB君とは対照的に、男たちは息ひとつ上がっていなかった。

 B君がその場にへたり込むのと同時に、彼らは墓標の中へ飛び込んだ。

「間違いない、近いぞ!」

 中年男が興奮気味に叫ぶと、青年も目を輝かせて墓標に縋りつく。四つん這いになり、墓標を土を撫でまわし、鼻で擦り、顔中泥だらけになりながら嬉々として這いずり回る男たち――。B君はその異常な光景を、ただ眺めるしかなかった。


 半時間ほど経っただろうか。もう陽が落ちて辺りが闇に呑まれ始めたとき、「ここだあ!」と青年が天を突くような雄叫びをあげた。

 中年男が目にも止まらぬ速さで這い寄り、地面に顔をつける。「……違いない」

 二人は素手で地面を掻き毟り始めた。どこにそんな力があるのだろうか、堅いはずの地面は、砂場のように軽々と抉れていく。

 次第に穴の中へと沈んでいく二人の姿を追うように、B君は膝をずらして穴へにじり寄った。そして穴の底――あっという間に二メートルほどの深さに達していた――が見えるほど近付いたとき、ゴン、と鈍い音がした。

 男たちは土を払いのける。出てきたのは柩だった。相当古い時代のものなのか、上蓋がところどころ朽ちて、間隙から中の闇が覗いている。

 中年男は、力任せに蓋を剥ぎ取った。夕闇に翳った穴底の柩の中には見えた。

 闇にも似た真っ黒な塊。中年男が掴んで引き摺りだして初めて、それが繊維質の塊――例えば髪の毛のようなものだと分かった。

 ――柩の中には骨があるんじゃ。

 男たちはそれを掴んでは放し、ぱらぱらと重力に従って落ちるのを、とろけるような目で見つめている。

 ぎろりと青年の眼球が、穴の淵から覗きこんでいたB君を捉えた。

「おいで」

 その低く甘い声に、B君は抗えなかった。伸ばされた青年の手を頼りに、そっと穴底へと降りていく。もはや恐怖は無かった。柩の中の物体が何なのか知りたいという欲望だけが身体を動かしていた。

 中年男が鼻をすする。

「十八でこんな所に埋められて、辛かったなあ」

「そうです、そうです。なんて理不尽なんでしょう」

 二人は同時に涙を溢した。

「でも、もう大丈夫ですからね」中年男は柩を優しく叩き、B君に向かう。「君はいくつだったかな」

「七才……」

「あと十一年かあ」中年男は再び柩に向き直る。「まあそれも体慣らしだと思って辛抱してくださいや。この百五十年に比べりゃ、屁でもねえでしょう。よし――」

 ごく自然に男たちは頷き合い、そして青年がB君の身体を持ち上げた。

「やめてっ、お兄さん……」

 青年はB君を軽々と柩へ寝かせる。無数の毛が背中に刺さって、全身に痒みをもたらした。

「オジさんが何度も訊いてくれたのにね」青年が耳元に囁く。「キミの意思でここに来てくれて、本当にありがとう」

 その瞬間、B君の全身に沸き立つような衝撃が襲いかかった。何故、と考える間もなく、腕を、胴を、脚を、背中で圧し潰していたはずの黒い毛が伸びて纏わりつく。

「やだ、やだ」

 二人の男は、立ち上がって柩を上から覗き込む。逆光で真っ黒な顔の辺りから、忍び笑いが漏れていた。

 絡みついてきた毛は、服の中に入り込み、耳や鼻、目、口、肛門、あらゆる全身の穴からB君の体内へ侵入してくる。

 蓋であった木板の残骸が、無造作に被せられた。

 声にならない叫びをあげながら、B君の視界は暗転した。


 首筋に冷気を感じると同時に、視界が暗黒から解放された。誰かが肩を揺らしている。足元には低く唸る大型犬が一匹、月明かりに白い毛並みが浮かんでいた。

 B君は道祖神の祠に凭れ掛かっていた。夜半の涼しい時間に犬の散歩をしていた近隣住民がそれを見つけ、B君は即刻救急搬送された。

 外傷は無かった。軽い熱中症という診断だったが、半日以上直射日光に曝されて、気を失っていたにも関わらず、あまりにも病状が軽く、医者は奇跡的だと驚いた。

 発見が遅れたのは、B君の携帯電話が消えていたからだった。それにB君の遊び場はもっぱら南の方だったから、北の方の捜索は手薄になっていた。

 B君はそれから、山で自分の身に起きたことをつぶさに話したが、誰も信じる者はいなかった。いや、当初こそ大人たちが墓を見に行ってくれたのだが、掘った形跡がどこにも見当たらず、B君は夢を見ていたのだ、という結論に落ち着いた。


 それからいたって健康に学校生活を送っていたかに見えたB君だったが、十八になる直前、忽然と姿をくらませた。手掛かりが掴めたのはひと月も経ってから、九州の小さな無人島だった。

 林の中で見つかったのは缶バッジがたくさん付いたリュック。中には家族への手紙と、幼少期の体験が詳しく書き綴られたレポート用紙が入っていた。

 荷物の側には靴跡が残っていた。それらを辿った先には、全身を縄で雁字搦めにされた、狼にも似た巨大な黒犬の死骸が横たわっていた、という。

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