一条 亜朱


 コン、コン。


「失礼します」


 声がする方に顔を向けると、水野先生が祈咲さんと一緒に部屋に入ってきているところだった。


 私は倒れたあの日からしばらくの間、ベッドから動くこともできずにいた。動きたくても体が言うことを聞いてくれなかった。

 でも、代わりにあの日から変化したもの。それは、声を発することができるようになったこと。


「体の調子はどう…かな? 」


「うん、いい感じ。体もだいぶ動くようになってきたし」


 どこか安心としたような、けれどなぜか負の感情もある気がする。なんでかなぁ、分からない。


「それは良かったです。では……少しだけ亜朱さんとお話したいことがあるので、祈咲さんは先に次の方のところに行っていてください」


 水野先生は祈咲さんに目配せをし、先に出ていくように促した。看護師の祈咲さんがいたら話せない私との話って何なんだろうか。


「亜朱ちゃん。あとでご飯持ってくるね」


 祈咲さんは水野先生の方にぺこりとお辞儀した後に私の方にを向いて、それから部屋を出ていった。

 これから何を言われるのか、それは分らないけど少し、怖い。

 祈咲さんが部屋を出ていったことを確認し、水野先生は私の方に体を向けた。そして、水野先生が私に話しかけた。


「亜朱さん。以前、自分の名前が思い出せないって言ってたね。そして別の日に記憶も思い出せないと」


「はい」


 優しい顔をしながらも、苛立ちなのか、怒りなのか、悲しみなのか、それは分らないけど、負の感情が少しずつ水野先生から漏れ出してきている。

 私の手が小刻みに布団の中で震える。


「貴女の名前は、一条亜朱いちじょうあしゅだよ」


 私の名前が一条亜朱……。心の中にすっと入り込んでくる。それが当たり前のことのように。


「私は一条亜朱、なの」


「その通りです。何か思い出すことはありますか? 」


 無意識に水野先生が言った名前を繰り返していた。


「で、でも……なんで水野先生は私の名前を知ってるの? 私のことはあんまり分かってないって、名前も水野先生が最初に言ったって、祈咲さんが言っていたんよ。なんで、知っているの? 」


 声が出せるようになってから初めてこんなにいっぱい話したからか分からないけど、口の中の水分がどんどんなくなっていく。口の奥からは酸っぱいような何かが込み上がってくる気がする。


「私はね、亜朱さんのことは亜朱さんの記憶が失われる前から知っている。だからこの部屋のお金も払っているし、名前を教えることもできる。でも、私は君のことがあまり好きじゃない。これ以上は何も言うつもりはないよ」


 私の失われた過去を知っているって、それはどういうこと? それに私は嫌われている。頭の理解が追い付かない。


「最後に一つだけ。これを渡しておくよ」


 水野先生は混乱している私に一冊の古びた本を差し出した。


「これは……? 」


 困惑しながら顔を見上げると、水野先生は軽く鼻で笑い病室のドアを開けながら言った。


「それは一条亜朱のだよ」


 そしてドアは静かに閉まった。



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