EP5【「“おやすみっ♪”」】

「“りくくんも、もしかして私で嬉しい気持ちになったりするのかな……?”」

「!?」


 碧空りくが声にならない叫びを上げたおかげであがった息を整えていると、音恵おとえが不安そうな声で突然そんな事を尋ねてきた。

 碧空はそれを聞いてまた心臓が暴れ出し、なんとか顔を埋めてそれを緩和する。


 まあ、音恵からすれば、話の流れから別に突然言ったつもりは無いのだろう。

 しかし……碧空からすれば、心臓が暴れ出すのには充分な言葉ではあった。


 もう、心臓がもたない。先程不安だった要素は、早くも音恵に攻略されていた。


「“りくくん?”」

「えっ?あ、えっと」


 再び息を整えていると、不審に思ったのか音恵が声を掛けてきたので、碧空は慌てつつもスマホに意識を向ける。


「『嬉しい気持ち』か……」


 碧空は呟きながら頭の中で考えるが、今の気持ちもそれだとしたら、現在進行形でずっとそうなのではないだろうか?

 少なくとも、音恵からのメッセージが楽しみにはなっていたのは確かだ。


「……うぅーん」


 それをそのまま言おうかと思った碧空だが、思わず唸ってそれを誤魔化す。

 音恵は躊躇ちゅうちょなく言えているみたいだが、その事を本人に言うのは、碧空からするととても恥ずかしいことだった。


 ……ただ、声が上擦っていたためどちらにしても誤魔化せていないような。


「“……私だけ、だったり?”」

「え!?いや、そんなことないよ!」


 碧空が言えないでいると、音恵がそう尋ねてきたため碧空はあわてて否定する。

 なんだか音恵の声色が悪戯いたずらっぽいような気がしたが、今は気にしていられない。


「僕も嬉しかったよ!な音恵と、こうしてまた連絡が取れるのは」


 言い終わって思ったが、『大好き』という言葉を使っていて羞恥しゅうちが体を支配する。

 もちろん、嘘ではない。だが、本人に伝えるとなると、やはり……


「“………”」

「……?音恵?」


 しかし、急に音恵が喋らなくなったため碧空は首を傾げて呼びかける。

 羞恥は確かに感じるが、急に応答が無くなるとそちらの方が心配になるのだ。


「“……急に耳元から『大好き』って言うのは、反則だと思う”」

「………」


 応答したかと思えば、責めるように言ってくる音恵の言葉に碧空は何も言えなくなる。

 碧空自身も気にしていたことだが……どう返せばいいのか、わからない。


「“……だからね?お返し♪”」


 碧空がどうしようか悩んでいると、心做こころなしか悪戯っぽい声色でそう言う音恵。

 「え?」と碧空が反応する前に、その言葉は碧空の脳内へと響いて来た。



「“だ い す き”」


「──ッ!?」


 とろみを帯びた甘い声での愛のささやきが耳元から突然聞こえて、碧空は息が止まり、世界が揺れたような錯覚さっかくを起こす。


 脳が溶けたような思いだ。他のものになんて例えにくいが、ただとにかく意識全体をその言葉に持っていかれてしまった。


 流石に息はすぐに吹き返したものの、心臓はこれ以上ない程に暴れだしている。


 未だに意識が曖昧あいまちだ。脳内で''愛の言葉''が何度も何度も反芻はんすうし、むしろ意識は段々と遠のいていく感覚におちいっていた。


「“……りくくん?”」

「──はっ!?」


 何もかもが''愛の言葉''に飲み込まれようとしたその直前に、音恵に呼びかけられて碧空は意識を現実へと戻す。


 意識は戻ったものの、途端にドクッドクッと心臓の音が脳に響いてきた。

 そして再び''愛の言葉''が脳内に反芻し、それによって生じる動揺を抑えようと碧空は胸を強く押さえる。


「“ふふっ、どうかした?”」

「……いや」


 音恵が尋ねてきたが、彼女のおかげでどうかしてるのかは分かっているのだろうか。

 だが、羞恥からそれ以上追求されたくなくて、否定の旨だけを伝えた碧空だった。


「“ねえ、りくくん”」

「……うん?」


 動きを早めるばかりの心臓を息を整えながら抑えていると、音恵が呼びかけてきて碧空は意識をスマホに向ける。

 急に改まって、どうしたのだろうか。


「“りくくんって、確かお昼はいつもお弁当だったよね?”」

「え?うん」


 音恵がそう尋ねてきて、意図がわからないながらも碧空は頷く。

 なんで知ってるんだろう、と気にはなったが、単純に教室で食べているのを見られていたと思い至り、恥ずかしくて尋ねられない。


 一人勝手に顔を熱くしていると、エコーになった音恵の声が続いて響いてくる。


「“それ、おばさんが作ってくれてる?”」

「うん、母さんだよ」


 言う通り、碧空は専業主婦である母の碧葉あおはが作った弁当を毎日昼食にしている。

 冷凍食品が大半ではあるものの、手作りである卵焼きの味は碧空も大好きだった。


 そんなことを考えていると、音恵が「“じゃあ”」と小さく呟く。

 なんだろう、と碧空が首を傾げる前に、音恵は用件を言い放った。


「“明日からりくくんのを作ってあげたいんだけど、おばさんに頼めないかな……?”」

「えっ」


 ''音恵の手作り弁当''。


 それを脳が理解すると、碧空は嬉しさやら羞恥やらで再び顔を熱くする。


 彼女の手作り弁当は、碧空みたいな男子高生からすれば一種の夢ではあった。

 だが、それを付き合った次の日からとなると、羞恥も強くなり処理しきれない。


「いいの……?」

「“私が提案してることだから……”」


 夢だと思ってそう尋ねると、ほぼノータイムで音恵からそんな返事が返ってくる。

 風呂上がりの時のように頬を抓ってみるも、やはりこれは現実だった。


「“ダメ、かな……?”」

「え、いや!ありがたいよ!母さんに言っておくから、僕からもお願いしたい」


 思考が浮ついていると、不安そうに音恵が尋ねてきたため碧空は慌てて頼み込む。

 音恵の手作り弁当は思春期になってから妄想をしていた程で、彼女と付き合えた以外にこれ以上嬉しいことは無いのだ。


「“うんっ、頑張るね!”」


 すると音恵は明るい声で返事をしてくれて、碧空は安心と嬉しさで胸が温かくなる。

 もう、幸せすぎて本当に夢のようだった。


「“……じゃあ、早速お弁当の準備したいから、そろそろ切るね”」

「えっ」


 それを聞いて、碧空は頓狂とんきょうな声を上げながら思わず通話時間を確認する。


 時間は……一時間。弁当を作ったことがないからわからないが、確かに遅くなりすぎても困るだろう。

 一時間、か。先程は遅く感じたのに、今回はやけに早く感じてしまう。


 碧空はとても残念に思いながら、スマホを耳に近づけ直した。


「じゃあねりくくんっ、また明日ね!」

「うん、また明日」


 しかし、気分良さげに明日会うというささやかな約束をする音恵の声を聞くと、それは吹き飛んだような気がする。

 この現実が、明日も続く。もしかしたら、将来だって。そう思えれば、幸せが脳を支配し、頬が緩みきって仕方がない。


「“おやすみっ♪”」


 そんな可愛らしい睡眠の挨拶を言うと、音恵側から電話を切られた。

 碧空は小さく「おやすみ」とスマホに向かって呟きながら、ベッドを降りる。


「……へへっ」


 そして、今日一日の幸せを噛み締めながら、碧空は母親の元へ向かったのだった。

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