Scene #4

「さあ、今日も精霊様に感謝のお祈りを捧げましょう」

 一日の終わりは、お母さまの言葉とともに、お祈りで締めくくるのがつねでした。

「精霊様、今日もまた、精霊様の有難きお恵みを賜りました。火燃ゆるも暖かく、水豊かなるもあふれず、地おこるも揺らぎなく、風吹くも穏やかなるは、すべて精霊様のおかげ。生きとし生けるもの、あらゆるものの名にかわり、この精霊使いが、こころより感謝の意を捧げます」

 お母さまがお祈りの言葉を捧げると、わたしとお姉さまもお母さまにならって、手を合わせ、目をつむり、精一杯のお祈りをします。

「精霊様。世界の調和のため、われらの営みのため、精霊様の御霊みたまを頂戴すること、慚愧ざんきに耐えぬことながら、それがごう深きわが役目。この業深き精霊使いを、どうぞお許しください」

 心優しきお母さま。

 世界の調和のため、精霊様の御霊みたまを代償に、お恵みをいただいて、世界に還元する。

 それが業深き精霊使い。

 せめてもの償いとして、一日の終わりにお祈りを捧げるのです。

 お母さまと、お母さまの後継者となるお姉さま。

 わたしは二人の真似事まねごとしかできなかったけれども、それは穏やかで心満ちた日々でした。


* * * * *


 星の塔に入ると、グレースが戸惑った様子で俺たちを待っていた。

「地下から、魔女のものらしい気配が漂ってきとんのじゃけど、下に行く階段がどこにも見当たらんのじゃ。あんた、何か知らんかい」

 この塔の構造を知らないグレースが困惑するのは、仕方のないことだった。

 この塔に、確かに地下室はある。ただし、地下に行くには、いったん最上階まで登り、そこの隠し扉から通じる裏手うらての階段を下りていくしか、方法はない。

 それだけでなく、侵入者をまどわすような複雑な仕掛けが、いくつも幾つもこの塔には施されている。

 俺はそう説明したうえで、

「グレース、焦る気持ちはわかるけど、下手へたに突出して迷ったりしたら、かえって時間がかかるから、必ず俺たちの後についてきてくれ」

 と、念を押した。グレースはうなずきながらも不承不承ふしょうぶしょうといったていだったが、ひとまずはエイミの機嫌もおさまるだろう。

「気を引き締めていこう」

 改めて俺はそう言って、塔の頂上へ向かって走り出した。


* * * * *


「お母さま、このお花、コリンダの原で摘んできましたの」

 ここのところ、顔色がすぐれないことの多いお母さまのために、香りのよいお花をいくつか摘んできました。コリンダの原は、お花を咲かせる植物の育ちにくい土地柄とちがらなのですが、外界げかい――、わたしたちは奥地の高台に隠れ住んでいましたので、岩壁がんぺきを降りた向こう側を外界と呼んでいました――、外界に降りてすぐ、岩壁のたもとに、かわいいお花の咲く、とっておきの場所があるのです。お母さまは、わたしやお姉さまが外界に降りることを禁じていましたが、この時はお花の香りをかいで、

「ああ、本当によい香りのお花ですね。シビュラ、どうもありがとう」

 そう言って、嬉しそうな顔を見せてくれました。

 精霊使いは、その存在を知られてはいけないもの。

 四つの元素は、どれかが多すぎてもいけないし、どれかが少なすぎてもいけない。その調和が大切なのです。

 けれども、人の欲望は、その調和を乱しがちなもの。

 特定の誰かのためでなく、特定の種族のためでなく、生きとし生けるものすべての調和のために、この世界を陰から支える存在、それが精霊使い。だから、人里から離れたここ、コリンダの原で、何代にもわたり世間とのかかわりを避けて、ただお役目だけを、――精霊様の御霊みたまからいただくお恵みを世界に還元し、調和を保つというお役目だけを、果たしてきました。

 しかし、どこから聞きつけたのでしょうか、パルシファル王がわたしたちの存在を知ってしまったのです。そして、精霊様のお力を自分の野望に利用せんがため、お母さまに宮殿に仕えるよう要求するようになったのです。

 むろん、王といえど、世界の中では、ただの一要素。精霊様の尊い御霊みたまを、そんな私欲のために使うわけには参りません。何より、世界の調和が乱れます。

 けれども王は、お母さまがどれほどお断りしても、しつこく要求し続けているとのことでした。そのせいで、この頃、お母さまはめっきり憂いの様子を見せることが多くなっていたのです。


* * * * *


 塔の地下は入り組んだ造りになっていて、精霊使いの魔女が潜伏するには、もってこいの場所だった。

「グレース、魔女の気配はどうだ?」

 いよいよこの階段を降りきれば地下室に入るというところで、俺はグレースにいた。

「間違いないね。どす黒い気配がプンプンするよ」

 グレースは、手にしていた石を一瞥いちべつして、即座に断言した。

 だとすれば、このすぐ先に、凶悪だという精霊使いの魔女がいる。どんな危険が待っているか分からない。

――行くぞ。

 仲間たちの顔を見やって合図を送ると、みな強い決意を秘めた顔で頷いた。

――よし。

 緊張しながら、俺が地下室に足を踏み入れると、そこにいたのは――。


――まだあどけない、ひとりの少女だった。


* * * * *


 王の命令をこばみ続けていたお母さまは、とうとう王の兵士に捕らえられてしまいました。そればかりでなく、わたしも、お姉さまも、ひとまとめに王宮に連行されました。それでもなお、お母さまは王に従わなかったために、わたしたち家族は、地下牢に幽閉されたのです。

 けれども、もともとコリンダの原でひっそりと暮らしていたわたしたちにとって、地下牢の生活はさほど苦になるものではありませんでした。三人、身を寄せ合っていれば、それで十分満ち足りていたのです。

 しかし、そのささやかな幸せさえも、ある日、王によって奪われました。

「王である俺の命令が聞けぬというなら、相応の罰を与えてやらねばならない」

 狂気に満ちた王の顔は、もはや人間のものとは思えない恐ろしいものでした。

 そして、悪鬼と化した王は、最初にお姉さまを牢からひきずり出して――。


* * * * *


 この少女が、凶悪な精霊使いの魔女なのか?

 ここに来るまで、俺はレプティレスのような魔女の姿を脳裏に描いていた。

 けれども、目の前にいるのは、それとは対極の、どこかはかなさすら感じる姿の少女だった。

 一瞬、俺は自分の目を疑った。

 だが、何体もの精霊が、少女の周りにうごめいている。変化へんげの術で、魔女が少女に化けているのかもしれない。

「まさか、君が精霊使いの魔女なのか?」

 魔女が素直に認めるべくもないが、表情や態度で探るしかない。俺は、用心しながら少女の反応をうかがった。

「精霊使いは、わたしの母、アウロラのこと。わたしは、アウロラの娘、シビュラ」

 シビュラと名乗った少女は、何の感情もないように答えた。嘘を言っているようには見えないが、もしその言葉が本当なら、精霊使いだという母親の居所いどころを探らなければならない。

「俺たちは、精霊使いの魔女に用事があってここに来たんだ。君のお母さんが精霊使いの魔女だというなら、どこにいるか教えてほしい」

「あなたたちは、わたしを捕らえに来たパルシファル王の使いではないのですか?」

「いや、俺たちはパルシファル王とは関係ない……」

 俺があの王を倒したのだから、本当は大いに関係あるのだけれど、何か混乱を招きそうな予感がするので、そう説明した。

「……だから、お願いだ。精霊使いの魔女の居場所を、教えてほしい」

「そもそも、精霊使いは魔女などではありません。宮殿の人たちが、勝手に魔女と呼んでいただけ。そして、精霊使いは、お母さまで最後。だから、もうどこにもいないのです」

 シビュラは目を閉じ、冷たい声で答えた。

「もういないって、そんなはずはないんだ。事実、俺たちの大切な仲間が、精霊使いの魔女……、魔女かどうかわからないけど、精霊の呪いのせいで、大変なことになっている。お願いだから、隠さないで教えてくれ」

「あなたは何か勘違いをなさっています。わたしのお母さまとお姉さまは、パルシファル王に……」

 そうしてシビュラが語ってくれたのは、あまりに凄惨せいさんな出来事だった。

 

* * * * *


 怒り狂ったパルシファル王は、わたしとお母さまの目の前で、お姉さまに剣を向けました。

 大声で泣いていたお姉さまの声が聞こえなくなった後、血にまみれたやいばを振りかざし、「次はその娘だ」と激しい声で言い放ちました。

 でも、なぜでしょう、わたしは、次は自分の番、ということが分かっても、不思議と気持ちは落ち着いていました。大好きなお姉さまの変わり果てた姿を見て、わたしの心はすでに失われていたのかもしれません。

 わたしが立ち上がって、牢から出ようとしたその時、お母さまがわたしの手を取って、強い力で引き戻しました。

 お母さまの、暖かな手のぬくもり。

 力強くも優しい感触は、今もはっきりとわたしの手の中に残っています。

「ああ、王よ。まもなくこの世界から精霊使いは消え、それにより失われるものの意味を、身をもって知ることになるでしょう。あなたは永遠に悪王とそしられ、世界に呪われることになるその瞬間を、自らの目でしかと焼きつけなさい」

 お母さまは王にそう告げた後、わたしを抱きしめながら涙声でささやきました。

「シビュラよ。わたしには、これしか方法がないことを許してください。これから施す精霊様の加護を、母の想いと受け止めて、あなたには生きてほしい……」

 そうして、お母さまは精霊様へお祈りを、禁忌とされる術のお祈りをなさって――。


 * * * * *


「――お母さまは、自らの命を精霊様に捧げ、すべてをなげうって、わたしに精霊様の加護を――、最後の加護を授けてくれたのです」

 俺がパルシファル王を倒した時も、彼は錯乱していて尋常ではなかった。けれども、シビュラという少女の話は、想像以上にむごたらしいものだった。

 まだ幼い少女の負った心の傷は、いかばかりのものだったろう。だが、俺はヒルダを助けなければならない。そのためには、いくつかの謎について、心を鬼にしても彼女にかなければならない。

「かける言葉もないけど、俺も仲間を助けなければならないから、教えてほしい。パルシファル宮殿の牢に閉じ込められていたのは、精霊使いの魔女ではなくて、シビュラだったのか?」

「ええ。どのくらいかわからないけれど、ずっと閉じ込められていました。けれども、最近警備が緩くなったので、精霊様に導かれてここまで逃げてこられたのです」

 警備が緩くなった――、パルシファル王が不在になってからこちら、宮殿の混乱はまだ続いているのかもしれない。

「だけど、外にいた宮殿の兵士は、『精霊使いの魔女が逃げた』って言っていたんだ。それって、シビュラが跡継ぎとして、精霊使いになったということじゃないのか?」

「それは、精霊使いについて無知な人たちの言葉です。次の精霊使いは、お姉さまと決まっていました。精霊使いは、精霊様に認めていただくため、正しい儀式を経ないとなれないのです。けれども、あのように……」

 シビュラが指さした先に、二人の女性の石像のようなものがあった。

 それは、あたかも母が娘を抱くような姿をしていた。

「もしかしてそれは……」

 君のお母さんとお姉さんか、俺はそう訊こうとしたが、シビュラの表情を見れば口にするまでもなかった。

 シビュラの母は、娘を守る術の代償として、石化したのだろうか。だとすれば、それが精霊の呪いの可能性はある。俺はそれをシビュラに尋ねた。

 しかし、シビュラは静かに首を振って否定した。

よこしまな心がないことを精霊様に認めていただかないと、精霊使いになることができません。だから、精霊使いは、呪いのように他者を害するような術は使うことができないのです」

「じゃあ、君のお母さんの姿は、精霊の呪いのせいじゃないのか?」

「お母さまは、お姉さまをこれ以上傷つけさせたくなかっただけ。それは、娘を守りたいという、純粋な母の想い。だから、精霊様に呪わるわけがないのです」

「それなら、君に施された精霊の加護って、何なんだ?」

「精霊様の加護――、お母さまが命を捧げて行った最後のお祈りは、そう、『どんな力でもわたしを傷つけることができない守り』を施すこと。おかげで、王の剣も兵士の槍も、一切わたしを傷つけることはできなくなったのです」

 攻撃を防ぐ加護――。

 あの、第1の炭鉱にあった結界、それを連想させる。

 だが、肝心の呪いの謎が、依然として残ったままだ。

「ちょっと待ってくれ。何か、人を昏睡状態にさせるような、そんな呪いがあるはずなんだ。何か知っているなら、お願いだから教えてほしい」

 もう少しですべて解明できそうなのに、核心にたどり着けない。そんなもどかしさで、俺は叫ぶように尋ねた。

 だが、シビュラは、目を閉じ静かな口調で、言った。

「もう、これ以上お話しすることはありません。できるだけ早く、ここから去ってほしいのです」

 その言葉とともに、シビュラは俺たちに背を向け、ひと呼吸、深く息をついた後――。

 うごめく精霊たちに向かって、祈り始めた。

「精霊様。どうか哀れな精霊使いの娘を、母の元へお送りください。そのためならば、わたしは、一切の呪いもこの身に引き受けましょう」

 そうしてシビュラが何かの呪文を唱えると、一体の精霊が暗いもやを吐き出し、みるみるうちにしぼんで黒ずんだ像となり、やがて動かなくなった。

 それは、炭鉱で見た精霊のミイラとそっくりだった。そうして一体、また一体と精霊がミイラと化していく。それにつれて、シビュラの周りの暗いもやが、大きく膨らんでいく。

「シビュラ。まさか、それは精霊の呪いの術じゃないのか?」

 俺の声に、シビュラが一瞬、こちらを向いた。

 そのまなざしは、悲しいほどに澄んでいた。

「もう、わたしたちをそっとしておいてください。わたしはただ、お母さまやお姉さまと一緒になりたいだけ。あなたたちには関係のないこと」

「シビュラ、俺たちは決して無関係じゃないんだ。それは後々、大変な危険をもたらすものになる。もし君がやめないのであれば、俺たちは力づくでも止めなければならない」

「わたしは、パルシファル王の剣でも傷つけることができない、不滅のもの。誰にも、わたしを止めることはできないのです。精霊様の加護に守られたわたしをめっすることができるのは、ただ精霊様の呪いだけ」

 その言葉を最後に、シビュラは口を閉ざし、俺たちに背を向け、先ほどまでの術を再開した。

 おそらく彼女は、精霊の呪いで自らを滅ぼそうとしている。まだあどけない少女の、こんな幕引きの仕方を目の前で見過ごすわけにはいかない。

「サイラス。エイミ。あの精霊たちを倒した後、彼女を止めよう。説得はそれからだ」

 俺の言葉に、サイラスもエイミも異存はない、という顔をして頷いた。

 シビュラを取り囲んでいる精霊のうち、手前の数体をやれば、彼女に近づけるだろう。

 と、思う間もなくエイミが精霊に向かって突進し、一体、また一体と卒倒させる。

 サイラスもまた、鋭い刀捌きで精霊を倒し、おかげでシビュラに向かって道が開けた。

 よし、俺の番だ。

 つかで打って、気絶させよう。少し荒っぽいが、許してくれ。

 だが――。

 彼女に当たったはずの俺の剣は、まるで石にでも打ちつけたかのような、鈍い手ごたえを残して、跳ね返された。

――これが、精霊の加護なのか。

 もう一度、今度は力を込めて剣をふるったが、シビュラの指先さえ止めることはできなかった。

 加勢に入ったエイミの拳も、サイラスの刀も、一切通用しない。

 何者も彼女を傷つけることはできない――、精霊の加護の前に、俺たちにはなすすべもなかった。

 その間にも、シビュラの術で、続々と精霊がミイラと化していく。精霊から吐き出される黒いもやは、辺り一帯を覆わんとばかりに膨れ上がり、もはや禍々まがまがしい瘴気の様相を呈している。

 もう、精霊の呪いが成立してしまうのも、時間の問題に思えた。

――このままでは、俺たちも巻き込まれかねない。

 瘴気がかさを増し、黒いもやうごめきが眼前に迫りくるにつれ、その分俺たちは後ずさりするほかなく、そうしてシビュラの術が進むさまを、遠巻きにしながら、ただ見守ることしかできなかった。

 と、その時――。

 俺たちの背後にいたグレースが前に出てきたかと思うと、猛烈な勢いでシビュラめがけて走っていった。

「グレース、やめるんだ」

 俺の叫び声もむなしく、とうにグレースは瘴気に飛び込み、シビュラの真正面で対峙していた。

「あんたは間違っとるよ。あんたのお母さんはね……」

 グレースは、シビュラの両肩に手をかけ、シビュラを見据えて、厳しい表情で、けれども自分の子供をさとすような穏やかな口調で、シビュラに語りかけた。

「……あんたのお母さんはね、あんたに強く生きてほしい、そう想うて自分の命を投げ出して、あんたを守ったんじゃ。あんたは、お母さんのその想いを、無にしちまうのかい」

 そうしてグレースは、自分の胸にシビュラを引き寄せ――。

 強く、その身に抱きしめた。

 シビュラの、術の手の動きがを止まる。

 シビュラはグレースに抱かれたまま、しばらくそうして、二人は言葉もなく、ただ静かに、音の消えたうす闇の中で、グレースは幼子おさなごをあやすように、シビュラの小さな頭に手をあて、傷をいやすようにやさしく――。

 やさしく、その手を動かしていた。

 と――。

 グレースの胸元から、シビュラの嗚咽がこぼれ――。

 小さな声が、震えるような小さな声が、聞こえた。

「お母さまは、わたしのせいで……。わたしのせいで、二度と戻らぬ姿となってしまったのです。私を助けようとしたせいで、あのような姿に……」

「そんなん、あんたのせいじゃない。本当なら、二人とも助かるのが、一番ええ。けどな、人生、どっちかを選ばなければならない時があるんじゃ。自分か、子供か……。そうなったら、自分の身がどうなっても、迷わず子供を守る、母親ってのは、そういうもんじゃ」

 グレースの声は、母親のやさしさに満ちていた。

 シビュラの目は涙にあふれ、嗚咽おえつを止められぬまま、それでもシビュラは懸命にこらえるようにグレースに向かい、途切れ途切れになりながら、言葉を絞り出した。

「あのとき、お母さまは最後に、わたしに、――生きてほしい、そう言いました。それが、お母さまの、想い……。わたしを思う、優しい、お母さまの想い……」

「そうじゃ。あんたを心からいとおしむ、あんたのお母さんの想いじゃ」

――シビュラ。

 まだ、あどけない少女、シビュラ。

 その心は、どれほどに傷ついたのだろう。

 目の前で姉が殺され、母は自分を守るため戻らぬ姿となり、どこにも頼れるものはなく、幼い身でひとり、それを背負うことを宿命づけられてしまった。

 そのつらさは、俺には想像もつかないほどだろう。

 ただ、それでも生き続けてほしい――。

 俺も、そう祈らずにいられなかった。

 その時。

「お母さまの想い……。お母さまは、いつもわたしに優しくしてくれました……」

 大粒の涙をこぼしながら、シビュラが母の思い出を語り始めた。

「かわいいころもを作ってくれました。

 温かいご飯を作ってくれました。

 お祈りの言葉を教えてくれました……。

 コリンダの原の、静かな、満ち足りた毎日。

 何もなくとも、ただ幸せだった、あの日々……。

 ああ、でも、それも、もう戻らないのです。

 あの日のように、もう一度、お母さまに、お花を贈りたい。お母さまの『ありがとう』という声が聞きたい。お母さまに、『お母さま』と呼びかけたい。お母さまのそばで、ただ一緒にいたい……。それだけが、わたしの願い……。

 わたしがそう願うことは、いけないことなのでしょうか」

 涙に濡れた目で、シビュラは切々と訴えた。

 その言葉に、グレースは胸をかれたように目を見開き、シビュラを見つめた後――。

 固く目を閉じた。

 そうしてしばらく、何かこらえるように、身じろぎもせずにいたが――。

 ああ、と、かすかに声を漏らし――。

 きつく閉ざしたグレースの目じりから、――はらりと涙がこぼれた。

「ただ一緒にいたい……。それが、願い……。

 きっと……、きっとあの子もそうだったんだろうね……。

 ああ、あんたの言葉が、痛い。痛いほど、胸に沁みるよ……」

 そう言ってグレースは、責め苦を受ける罪人とがびとのように顔を歪め、口を閉ざし、ひとり黙考の中に沈んでいった。

 そうして。

 グレースは、目を見ひらき、――何か覚悟を決めたかのように、静かに口を開いた。

「実はな、わしにも娘がいてな……。わしらがいた所には、とても危険な怪物がおったから、あの子を守るため、やむなくあの子一人を安全な場所に疎開させたんじゃ。

 つらい選択じゃったけど、あん時は、ほかにどうしようもなかった。

 それきり、生き別れになっとったんじゃけど、つい最近、ひょんなことからまた会うことができたんじゃ。

 けども、今さら母親づらなんて、できんじゃろ。だから、ずっと他人のふりをしとった。

 あの子が何か言いたそうな顔をしていても、気づかんふりをしとった。

 それがあの子のため……、そう自分に言い聞かせてな。

 けど、あんたの言葉を聞いて、あの子の願いをどんだけ無下むげにしとったかって、思い知らされたよ……」

 悔恨、懺悔――。

 グレースの、これまで必死に閉じ込めていた想いが、奔流となって溢れ出たようだった。

 そうして、抜け殻のようにうつむいたグレースの、折れそうなうなじを抱えるように、今度はシビュラがグレースをいだき、言った。

「きっと……、きっと、その方の願いも、同じはず。もう一度『お母さん』と呼びたい。もう一度、一緒に時間を過したい。どんなに離れていたとしても、その願いは変わらないものだから」

 シビュラのその言葉に、グレースは目を閉じたまま、そっと頷いた。

 そうしてグレースは、シビュラを抱く腕に、強く、強く、これ以上ないほど強く、力を込めた。――まるで、二度と娘を離すまいかとするように。

 グレースとシビュラ――。

 娘を想うグレース。

 母を願うシビュラ。

 その二人の抱擁は、――あまりにも切なかった。

 長い間そうしていたのか。それとも一瞬だったのか。

 やがて。

 グレースは顔を上げ、シビュラに向かって、言った。

「そうじゃな、わしは、本当にひどい母親じゃったね。そんなわしに、あんたを止める資格なんて、これっぽちもないんじゃ。じゃけ、もう止めんけど、その代わり、あんたにお願いがある。あんたの術で、わしの娘が呪いにかかって、意識が戻らなくなっちまったんじゃ。叶うなら、精霊の呪いを解除する力を、この石に込めてくれんかの」

 グレースはそう言って、ふところから石を、――人の感情に反応するというあの虹石こうせきを、シビュラにかかげて見せた。

 シビュラはすべてを理解したように、無言で肯いた。

「アルド、あんたには最後まで迷惑かけるけど、お願いじゃから、ヒルダを助けあげておくれ」

 そう言って、瘴気の中から俺たちに向けたグレースの顔は、慈愛に満ちた母のものだった。

 母の、優しい顔だった。

 そのグレースにいだかれたまま、シビュラは静かに呪文を唱え始めた。

 と、みるみるうちに瘴気が膨れ上がり、グレースとシビュラを包み込むと、暗くうごめもやの中で、二人の姿は石化していき、そうして二人が全く動かなくなった時、何体か残っていた精霊たちが周りを取り囲みながら、瘴気ごと二人を運ぶように高く飛び、黒雲が、空一面を覆っていた黒雲が、風に乗って遠ざかっていくように――。

 どこかに去っていった。

 その跡には、無数にいた精霊も、精霊のミイラも、シビュラの母と姉の像も、シビュラも、そしてグレースも、一切が消えていた。

 唯一残ったのは――。

 グレースの手に握られていた、あの虹石こうせきだけだった。

 黒く禍々まがまがしい光をたたえていたそれは、今、白く清らかな光を放っていた。

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