号哭

「儚廻、あなたは人を殺したことがありますか?」


 真白ましろの病室に響く質問。

 声を張り上げたのでもないのにやけに明瞭に響いたそれに、僕はゆっくりと口を開く。


「あるよ、たくさん。それが?」

「初めて人を殺したとき、あなたは何を感じましたか?」

「は……」


 ――コイツ、本当にあの汐霧か?

 そう思ってしまうくらい、眼前の少女はいつもの汐霧と違って見えた。


 空虚に、淡々と、何の疑問を抱くことなくダークな質問を繰り返していく様子。

 これが汐霧の本当の顔なのだろうか。


「……馬鹿みたいに泣いて、血反吐出るまでゲロ吐いて、狂うくらいに笑わされた。とにかく最低だったよ」


 動けなくなった相手を動かなくなるまで殴り、それを見て笑うこと。

 それが『先生』に下された、僕の最初の課題だった。


 あの時の感触も感情も今では遠い昔だが、今なお“僕”に色鮮やかに残っている。


「それが普通の反応です。例えどんな悪人が相手でも、人を殺すという行為には激しい嫌悪が付き纏う。……付纏わなきゃ、駄目なんです」

「ああ……分かるよ」

「……私には、分かりませんでした」


 ポツリと呟かれたその言葉には、彼女の万感が込められていた。


「私が初めて人を殺したのは今から10年も前のこと。クロハちゃんよりも幼い、本当に弱かった頃のこと」


 10年前。それは僕の世界が幸せで、それが呆気なく崩壊したのと同じ時代。


「目の前に同じくらいの女の子がいて、手には小さなナイフがあって。相手の娘も同じく持っていて、組織の大人に殺せと言われて。――だから私はその娘を殺しました。泣いて震えて何も出来なかった、小さな女の子を」


 それは相手の女の子のことを言っているのか、それとも幼き日の自分自身を指しているのか。


「滅多刺しにしました。死んでるのに何度も突き差しました。死んでたのに止めませんでした」

「それは。……どうしようもないよ。そんなに幼いときの、初めての殺人なんだ。恐慌して錯乱したって」

「いいえ、違います。あのときの私は酷く冷静でした。……だってあのとき、私が考えていたのは――」


 言葉を切る。同時、風が止む。沈黙が一瞬だけ辺りを支配した。

 いつの間にか、彼女の瞳は酷く深く、暗い光をたたえている。


「――どこまでやれば殺せたことになるのか、と。それだけをずっと、考えていました」


 今までに見たことがないほど悲しげな表情を、汐霧は浮かべていた。


「何も感じなかったんです。誰しもが本能的に感じるはずの嫌悪も、恐怖も、悦楽すらも。本当に、何も」

「知らなかったから……じゃなくて?」

「知ってからもずっと、です」


 ……不謹慎だが、少しだけ繋がる部分があった。

 咲良崎と汐霧は使い捨ての暗殺者にも関わらず組織である程度の地位を得ていたという。

 それはつまり、数多くの人間を屠ってきたことに他ならない。齢十にも届いていない小さな女の子が、だ。


 汐霧が魔法の訓練を始めたのは『汐霧』に拾われてからだからその時はまだ使えなかった、使えたにしても大したことはできなかったはず。逆に殺した中には魔導師だっていたはずだ。

 ただ才能に溢れ、厳しい訓練を修了したというだけでは説明が付かなかった……のだが、今の話を聞けば納得出来る部分もある。


 戦闘と違って暗殺は一撃必殺が常。必ず殺せる状況を作り、必ず殺せる一撃を繰り出す。その上で一番大切なのは、躊躇わないこと。

 殺人に抵抗がないというのは、この分野においてかなりのアドバンテージとなりえただろう。


「なら、咲良崎も?」

「咲は基本的にサポート役でしたから……それに、よく泣いていました」

「……へぇ」


 咲良崎の言い方からして、てっきり二人して殺し回っていたのかと思っていた。が、どうやらそれは違ったようだ。

 “お仕事”に感情を持ち込むような真人間が、そんな腐った場所で今日まで生きていられたはずがない。

 生きるべき人間から死んでいくような、そんな場所では。


「……私には分からないんです。人を殺してはいけない根本的な理由が。刹那的な利害に依らない、人殺しが忌避される根源が。10年経った今でも、まだ……」


 死ぬこと、殺すこと。それらがどんなことかは分かるが、感情と直結しない。彼女が言っているのはそういうことだ。

 人殺しが忌まれる理由は理屈でも論理でもなく、ただの本能的な感情の発露だ。考えて分かるようなものじゃない。


「……なら、何でお前はあの時女の子を助けたんだ? 文字どおりに命まで懸けてさ」


 僕らが汐霧父の依頼で、E区画にて混ざり者と対峙した時のことだ。

 コイツは混ざり者から身を挺して女の子を助けた。その場の状況全てを投げ捨てて、自分の命まで使ってだ。


 あの必死さが全て嘘だとはちょっと思いづらいし、思いたくもなかった。


「……あと一人殺したら。この『殺さなくてもいい世界』で人を殺してしまったら……そして、それでもその理由が分からなかったら。私はきっと……もう、駄目になってしまいますから」


『憂姫お嬢様は誰よりも死に敏感です。例え鈍感であろうとしても、過去がそれを決して許さない――』


 咲良崎の言葉がリフレインする。

 コイツは今までの人生で、“殺す側”としてあらゆる死を見てきたのだろう。


 死という存在を隣人としてきた彼女にとって『誰が殺したか』という点だけは、決して偽れない。

 死や殺しへの感情を持たなかったということは、イコールでその事実を誰よりもまっすぐに受け止めてきたということなのだから。


「見殺しも、立派な殺人の一つってわけか」

「手を下した人が全部悪いなんて言い分が通るなら、この世界はもっとずっと明るいです」


 ……本当にその通りだよ、クソッタレめ。

 ああ……でもそうか。だからこそ、だったのかな。


「……一つ、割と気になってたことがあったんだ」

「はい」

「咲良崎。アイツさ、お前が汐霧父に拾うように頼んだんじゃない?」

「…………」


 ぽかん、と。

 少し久しぶりに、汐霧の表情に色が戻った。


「……分かるんですか?」

「ただの勘だよ。でも、今まで聞いた中に咲良崎が拾われた理由がどこにもなかったから」


 汐霧が拾われた理由は彼女が跡継ぎにちょうど良かったからだ。では、咲良崎は?

 汐霧のアキレス腱になり得る少女を生かし、雇い、抱え込むだけの理由。


 どんなに考えても分からなかったから消去法で残ったのを言ってみたとか、それだけの話だ。


「咲は……ずっと私の傍にいてくれた娘ですから。誰がいなくなっても、咲だけはいなくならなかった。言わば、私の半身みたいなものです。……だから」

「お前は汐霧父に懇願した。……ああ、なるほどね」


『嘘、嘘…………私の、功績が……完璧が……完璧じゃないと、駄目なのに……あ、あ、ああ…………だめなのだめ……わたし……捨て、捨てられ、る? そう捨てられる……!!』


 暴走した汐霧が口走っていたことが脳裏をよぎる。それと同時、切れ端だった情報が音を立てて組み合わさっていく。

 『功績』、そして『わたし』が『捨てられる』。まず捨てられるのは汐霧じゃない。何故なら彼女は汐霧父の求める条件を、恐らくただ一人満たすことのできる人間だからだ。


 では捨てられるのは誰か。汐霧曰く、彼女にとって咲良崎は半身にも等しい存在なのだそうだ。

 ならば『わたし』を咲良崎。そして、『完璧』な『功績』とやらを達成しなければ『捨てられる』――


「――と、そんなところかな。正解?」

「正解です。……儚廻、あなたは……」

「それはまた今度のお楽しみ。それより具体的なところを聞かせてくれ」


 汐霧父が、咲良崎を拾う代わりに出した条件。

 それを知らずにまた地雷踏んで、殺されかけるのは勘弁だ。


「……月に一定以上の任務の功績――戦果を取ることですよ。あなたに契約を持ち込んだのもそれが理由です」


 戦果とは任務や依頼の難易度、達成度に応じて付けられるポイントのことだ。

 これが一定以上溜まることで、魔導師はランクアップの試験の挑戦権を得ることが出来る。


 と……そこまで考えて、一つの疑問が浮上する。


「それは……おかしくないか? 普通、部隊よりソロで達成した方がポイントも高いだろ?」

「それはあくまで任務のランクと受ける魔導師のランクが等しい場合の話です。私が受ける任務は基本的にA、Bランク以上のものです。そして、あなたのランクは……」


 ……なるほど。僕は正規ランクを持っていない。学院の成績でもE評価だ。

 そんな足手まといがいながら高難易度の任務を達成できたらポイントはソロで達成するより高くなる。そんな制度があったのかもしれないな。


 しかし恐らく、それはランクが低ければ誰でもいいということではない。部隊員から死者を出せば、戦果はむしろ減点されるだろうから。

 そしてBランクのパンドラ2体を処理出来てしまった僕は、汐霧から見ればその条件をクリアしたように見えたのかもしれない。


 汐霧父が汐霧のような人間を求めたように、汐霧は僕のような人間を求めていた。因果な話だ。


「……お父様は、咲を捨てたいのだと思います。条件は私が達成する度にますます難しくなっていっていますから。でも、私には……咲を見捨てることだけは、絶対に出来ません」


 言いながら、汐霧の表情は何故か暗くなっていく。

空虚で空色だったものから、後悔と罪悪感に満ち満ちたものへと。


「……何でそんな顔をするんだよ。人を一人救ったんだ。誇ればいい」

「救って、誇れるような世界ですか? この世界」

「どんな世界でも死んだら終わりだよ。それより駄目なことなんてない。それくらいは分かるだろ?」


 僕がそう言った、瞬間。


「――だから、分からないんですよ!!」


 耳を覆いたくなるほど悲痛な叫びが、病室に木霊した。


「死ぬことの辛さなんて分からないですよ! 私に分かるのは生きることの苦しさだけです! ――じゃあ、死んだ方が幸せだと考えるのは駄目なんですか? 大切な人に幸せであって欲しいって思うのは罪なんですか!? こんなにも……こんなにも息苦しいのに!」


 いつの間にか目に涙を湛えながら、汐霧は掴みかかるように絶叫する。

 だが……コイツは今、何て言った?


 死んだ方が幸せ、だと?


「……ふざけるなよ」


 気がつけば、僕は言葉を吐き出していた。

 底から出た、芯から凍った声だった。


「生きるのが苦しいから死んだら幸せ? 死んだ方が楽そうだから生きてたら不幸? 何だそれ。馬鹿かよお前は」

「っ、あなたに……あなたに私の何が分かるんですか! 分からないでしょう? そんな“当たり前のこと”を言える時点で、あなたは私のことなんて何一つ理解していない!」

「はっ、理解なんかしてたまるかよ。生きる理由も見出せない雑魚のことなんざこっちから願い下げだね」

「生きる理由……!? 簡単に言ってくれますね。見つけようとして見つかるようなものなら、私みたいなバケモノでも見出せるようなものなら! 世界はこんなに暗くない……!」


 ……バケモノでも、か。

 ……………………ふむ。


 ……ああ。

 これは……ちょっとアウトだ。


 久しぶりに、ぷっつりと。

 何かがキレてしまった、ようだった。


「――それは、違うだろうが!」


 馬鹿みたいに、大きな声が出た。

 脳が熱く冷たく震えて揺れる。

 視界が黒く、白く、点滅して、反転を始める。


「バケモノだ? だからなんだ! バケモノだろうが生きてる以上関係ない。バケモノでも、バケモノだからこそ人間様より必死に足掻くんだろうが!」

「知ったような口を……!」

「知ってるから言ってるんだよ! 言っておくけどな、お前なんか僕から見ればまだまだ人間だ。安易な道に逃げ込むなんて実に人間らしいじゃないか。本当に幸せになることから逃げてる、惰弱な人間でしかない!」

「逃げる? 逃げるですか? 私が? はっ、今日初めて知ったばかりのくせに何を……!」

「10年経って気づけてない奴がほざくなよ……!」


 胸倉を掴み合い、本音をブチ撒け合い、本心を暴露し合う。

 ……どうしてこうなってしまったのか。

 今日はこんなことをしに来たわけでも、したかったわけでもないのに。


 ……分かっているさ。僕が悪い。

 他人の内面に土足で踏み入って、自分のことを棚に上げて。そして自分の価値観を押し付けている。


「……一体全体、何をやっているんだか」


 掴んでいた汐霧の病院着を放す。頭に冷水をブチ撒けられたのかと思うほど、急速に頭が冷えていく。

 奇遇にも、それとほとんど同時、汐霧の手も僕の襟から外される。


 少しだけ見えた彼女の顔は、泣きそうなくらいに暗かった。


 無言の時間が流れる。

 背を向け、僕は扉へと向かう。後ろから聞こえる布の音は、汐霧がベッドに戻っている音だろうか。


 病室を出る寸前、一度だけ振り返る。

 ちょうどこっちを見ていた彼女と、目が合った。


「怒鳴ってごめんね。お大事に」

「……こちらこそ、すみませんでした」


 最後に謝り合って。


 ――バタン、と。


 結局何一つ解決しないまま、僕と彼女の間は閉ざされたのだった。

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