第26話 アフター2


「……シェンフゥ……」


 唇の間で呼んだ名は、自分でも驚くほど甘い懇願の響きを湛えていた。


「なんじゃ、ご主人?」


 シェンフゥが名残惜しそうにリサの上唇を舐め、穏やかに目を細めて問う。


「……あの、続きは後で――」


「おお、後でゆっくりじゃな」


 うわずる声を抑えながらゆっくりと紡ぐリサの言葉に、シェンフゥが笑顔で応じる。


「そんなこと言ってないでしょ」


 嬉しそうに解釈され、慌てて否定する。

 シェンフゥは、リサの言葉に薄紅色に染まった頬を緩ませながら、ゆっくりと首を左右に振った。


「いやいや、言わずともわしにはわかっておるぞ。ご主人がわしにこの指輪を贈った。わしらは晴れて夫婦めおとじゃのぅ」


 意識していなかったわけではなかったが、改めて意識すると、こうして裸で浴室にいること自体が、特別なことのように思われてくる。


(もう、何を意識してるのよ。これもわかってたはずでしょ、リサ)


 自分に言い聞かせながらゆったりと湯を泳ぎ、ガラス張りの壁の傍へと寄る。

 ガラスを通じて流れ込む夜気が、火照った顔を冷やすことを願いながら、リサはシェンフゥに背を向けて呟いた。


「……夫婦って……。私とシェンフゥは、ご主人様と従者でしょ?」


「そうとも言う」


 くつくつと押し殺したように身体を揺らしながら、シェンフゥが静かに笑っている気配がする。


「……ご主人」


 波立つ湯の動きからそれを感じたリサは、自分を落ち着かせようと密かに呼吸を整えていたが、背後から向けられたシェンフゥの声に、ぎくりと背を震わせた。


「耳が赤いぞ。さてはのぼせたか?」


「……て、照れてなんか――」


 慌てて否定したリサは、そこで初めて墓穴を掘ったことに気づく。


「照れて……?」


「やっ、その、別に……」


 たどたどしく否定の言葉を紡ぎながらリサが振り返るのと、満面の笑みのシェンフゥが飛びついてくるのとはほぼ同時のことで。


「ご主人~」


「わぷっ!」


 抱きつかれたリサはそのまま湯船に尻餅をつき、シェンフゥの抱擁によって湯から引き上げられた。


「そろそろ上がるかのぅ」


「そうね……お酒も入ってるから、このままだと……本当にのぼせちゃう」


 リサが同意すると、シェンフゥはにんまりと笑って頷いた。


「よしよし。早くベッドに行きたいということじゃな」


「だから違うって」


「わしに任せておくがいいぞ、ご主人。今日はたっぷりと甘やかしてやらねばのぅ」


 シェンフゥが微笑みながらゆったりと浴室を進み、脱衣所へと向かう。


 妖術でバスタオルを引き寄せたシェンフゥは、リサの身体を丁寧に拭き上げ、着心地の良いバスローブで包み込んだ。


「髪を乾かすまで、こちらで待ってくれるかの?」


「ええ」


 シェンフゥに進められるがまま、ラタンで編まれた安楽椅子にゆったりと腰掛ける。

 下心があるとはいえ、シェンフゥにここまで優しくされると、悪い気は全くしなかった。

 それどころか、長く口付けを交わし続けたことで、期待に胸が高鳴ってしまっている。


(こんなの、シェンフゥに知られたら……恥ずかしいなんてもんじゃないわよね……)


 自分でも驚くほど、シェンフゥのことをもっと深く知りたいと考えてしまっている。

 それは、自分の中にある好意をはっきりと自覚し、『指輪』というかたちにしたせいなのかもしれないと思うと、頬がまた熱を帯びていくように感じられた。


(シェンフゥ……)


 自分は濡れたまま甲斐甲斐しくリサを拭き上げていたシェンフゥが、髪や尻尾から雫を滴らせながら脱衣所を歩いて行く。


「なにしてるの?」


「まあ、見ておれ」


 タオルで身体を拭くわけでもなく、裸のままのシェンフゥを呼び止めると、シェンフゥはにんまりと笑って振り返った。


「秘技、温旋風!」


 シェンフゥが叫ぶと同時に、温かな風が巻き起こる。

 妖術で起こされた旋風はシェンフゥの身体を包み込み、素早く乾かした。


「便利ね、それ」


「ご主人もどうじゃ?」


 すっかり乾いた尻尾を揺らしながら、シェンフゥが近づいてくる。


「取りあえず何か着て? その後なら、お願いしたいわ」


「もちろんじゃ」


 シェンフゥが笑顔で応じて、バスローブを身に着ける。

 ゆったりとしたバスローブに身を包んだシェンフゥはそのままリサが寛ぐラタンの安楽椅子の後ろに立つと、両手の指に温かな風をまとわせてリサの髪を乾かし始めた。


「随分優しいのね?」


「わしはいつでもご主人には優しく甘いぞ?」


 ナクラバルでもシェンフゥがこうして髪を乾かしてくれたことを思い出す。


「……そうだったわね」


 頷いて温かな風に任せて目を閉じると、シェンフゥの手つきがより鮮明に感じられる。

 妖術で起こされた優しい風がリサの髪を穏やかに梳かしていく。

 頭皮を撫で、髪を滑っていくシェンフゥの指先は、ずっとこうされていたいと思うほど心地よかった。


「いつもありがとう、シェンフゥ――」


 微睡みの中で穏やかに唇を動かし、リサは全身の力を抜いた。

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