第25話 アフター

 木々の輪郭が夜の色に融けていく。


 ナクラバルを出て、ヘイゼルニグラートへと戻ったリサとシェンフゥを、領主アヴェルラは歓迎し、領主館の本館ではなく、別館に当たる邸宅を貸し与えた。


 アヴェルラが幼少期を過ごしたらしい邸宅は、建物の規模は小さいながらも小奇麗に調えられており、居心地の良い調度品の用意された部屋で、リサとシェンフゥは任務の疲れを癒やすべく、ゆったりと寛いでいた。


 遅めの夕食が終わり、入浴の準備がなされた後は、人払いが行われ、別館はリサとシェンフゥの二人きりになっている。


「アヴェルラのやつ、なかなか気が利くのぅ」


「あんたの恨みを買いたくないってことよね」


 寝室を兼ねた居室に用意された焼き菓子をつまみながら、シェンフゥは機嫌良く尻尾を左右に揺らしながら頷いた。


「かかかっ、わしのおかげじゃな」


「褒めてないわよ」


 苦笑を浮かべながら熱い紅茶を口に運び、夜闇に包まれていく庭園を眺める。

 周囲を森に囲まれた庭園は、リサの腰の丈ほどの生け垣で囲まれており、昼間は色とりどりの花々で目を楽しませてくれるらしい。


 窓辺に近づいて外を眺めてみたが、庭園の明かりは人払いに伴って消されており、目を凝らしてもよく見えなかった。


 それでも窓を開けると、かぐわしい花や草木の緑の香が、穏やかな風に乗って流れてくる。


「さて、ご主人。さっそく風呂に入るとするかの」


 ティーカップを片手にその空気を楽しんでいたリサに、シェンフゥが近づき、そっと声をかけた。


「そうね。しっかり湯船に浸かって温まりたいわ」


 夜気で少し冷えた肌を手のひらでなぞり、窓を閉めて鍵を掛ける。


 事前に世話係の女性に聞いたとおりに屋敷の奥へと移動すると、ガラス張りの美しい浴室が姿を見せた。


「ほほぅ。これは趣があって良いのぉ」


 たっぷりと湯の張られた円形の大きな浴槽を眺めながら、シェンフゥが感嘆の息を吐く。


 邸宅の庭に面した浴室は、壁の一部と天井の一部がガラス張りになっており、開放感のある造りになっていた。


「これ、外から見えない……わよね?」


「かかかっ。当たり前じゃろう」


 星が浮かび始めた空を見上げながら呟くリサの不安を、シェンフゥが明るく笑い飛ばす。


「アヴェルラがそんな造りの浴室を許すと思うかの?」


「……あり得ないわね」


 領主アヴェルラの名を出され、ようやく納得してリサは頷いた。


「そういうわけじゃ。ゆったりと寛ぐぞ、ご主人」


「そうね」


 浴槽から溢れた湯が、浴室を進む冷えた爪先を温めていく。

 二つ並んだ散湯魔導器シャワーと同じ壁に設けられた石鹸置きには、花を閉じ込めた真新しい石鹸が二つ置かれていた。


「良い匂い」


 散湯魔導器シャワーの蛇口をひねり、温かい湯に変わるのを待ちながら両手で石鹸を優しく擦りながら泡立てる。

 泡立ちの良い石鹸は白くきめ細やかな泡を立て、リサの手のひらをたっぷりとした泡で満たしていく。


 壁に取り付けられた散湯魔導器シャワーから流れていた水が、温かな湯に変わっていく。

 蛇口を全開にし、散湯魔導器シャワーに近づいたリサは、惜しみなく流れる湯を頭から浴びた。


「はぁ……。あったかい……」


 水圧も申し分なく、疲れた身体に当たる湯の圧が心地良い。

 リサは、身体を温めながら泡立てた石鹸でゆったりと身体をなぞった。


「……どれ、背中を流してやるぞ、ご主人」


「え……あ……」


 腕や脚を洗い終え、髪に石鹸の泡を滑らせていたリサの背後に、隣で湯を浴びていたシェンフゥがつと近づく。

 うっとりと目を閉じて心地よい香りを堪能していたリサは、驚いて髪を後ろに撫でつけ、顔を擦って振り向いた。


「宿屋で風呂に入ったとはいえ、あの下水道から出た後じゃろう? 隅々まで洗いたいじゃろうと思っての」


 シェンフゥがそう言いながら石鹸の泡で包まれた尻尾をゆったりと揺らしている。


(こういうとき、尻尾があると便利よね)


 どうやら自分の尻尾を使って身体を洗っていたらしいシェンフゥに気づき、リサは小さく微笑んだ。


「なに、二人きりじゃ。遠慮はいらぬ」


 シェンフゥが尻尾を揺らし、リサの膝頭に泡を移していく。その感触を心地良く感じながら、リサは気を許して頷いた。


「そうね。念入りに洗っておきたいわよね」


「よし、決まりじゃな」


 リサの承諾ににんまりと微笑み、シェンフゥが妖術で小さな旋風を起こしながら石鹸を素早く泡立てる。石鹸は見る間に泡に隠れて見えなくなり、代わりに雲のような泡の塊が出現した。


「え? それどうするの?」


「これをこうして……こうじゃ!」


 シェンフゥが笑顔で応じながら、泡の塊を全身に塗っていく。

 泡はシェンフゥの全身を包み込み、その肌を滑らかに白く覆った。


「洗ってくれるんじゃなかったの?」


 リサの問いかけに、シェンフゥは目をぱちぱちと瞬かせると、泡に覆われた腕を広げてリサを誘った。


「ご主人――」


「ぇ、ぁ……?」


 泡を身にまとったシェンフゥが、リサを壁際に追い詰め、抱き寄せる。


 脚の間にゆったりとくねらせるように片脚を差し挟まれ、リサは真っ赤になってシェンフゥを見上げた。


「へっ? なっ、なにしてるの?」


「身体を洗っておるのじゃ」


 シェンフゥがリサの頬や顎についた泡を、頬を擦り付けるようにしてそっと拭いながら耳許で囁く。


「さっ、ご主人もわしの背中を洗っておくれ」


「あ、う、うん……」


 優しく頼まれたリサは、シェンフゥの濡れた髪の下に手をくぐらせ、手のひらで泡をすくって滑らせはじめた。


(シェンフゥの背中って、こんなだった……?)


 しなやかな曲線を描くシェンフゥの背をなぞりながら、自分を護ってくれる頼もしい背を思い出す。


 シェンフゥは脚を絡めてはいるものの、穏やかな手つきでリサを撫で、愛しむように泡でその身体を包んでいく。

 その仕草に普段のよこしまな感覚はなく、リサは穏やかにその動きを受け容れた。


「気持ち良さそうじゃの、ご主人」


「ええ、落ち着くわ」


 ゆったりとしたシェンフゥの動きに合わせて彼女の背や腰を撫でているうちに、心地良い一体感がリサを包んでいく。


 うっとりと目を閉じて、シェンフゥの肩に顎を預けていたリサは、ふと思い出したように目を開け、狐耳を見上げた。


「シェンフゥ……」


「なんじゃ?」


 囁くような小さなリサの声にもかかわらず、シェンフゥが即座に反応する。


「……ありがとね」


 泡越しに抱きしめるようにして呟くと、シェンフゥが小さく頷いて身体をそっと離し、リサの目を見つめた。


「かかかっ、ご主人のその顔が見られるとは、余程この洗い方が気に入ったようじゃの?」


 シェンフゥに嬉しそうに指摘され、リサは寛ぎきった自分の表情に気づく。


「……なんでそうなるのよ」


 茶化されたように感じたリサは、仕返しとばかりにシェンフゥの尻尾の付け根を握って散湯魔導器シャワーで湯を引っかけた。


「ぎゃんっ」


 シェンフゥのお約束の叫びも、どこか嬉しそうな響きを帯びている。

 リサは素早く散湯魔導器シャワーの向きを変えると、身体中の泡を落として湯船へと向かった。


「馬鹿なこと言ってないで、湯船に浸かるわよ」


「はーい」


 間延びした返事をしたシェンフゥが、すぐに後ろをついてくる。


(なんなのよ……)


 その気配を感じながら、リサは敢えて振り向かずに、浴槽に脚を踏み入れた。


 タイル張りの円形の浴槽にはその周囲に階段上の段差が設けられており、二段あるうちの一段は幅が広く、ゆったりと腰掛けられるような造りになっている。


 冷えた身体にはやや熱い湯にリサは身体を震わせ、広い段差に腰掛けて大きく息を吐いた。


「おぉ、熱めの湯じゃのぅ」


「そうね」


 シェンフゥが浴槽の深いところまで降り、つと泳いでリサの足元へと寄る。


「しかし、良い湯じゃ」


 そう言いながらシェンフゥが脚に手をかけたかと思うと、リサの身体は軽々と持ち上げられた。


「え、今度はなに?」


 リサを湯に浮かせるようにして引き寄せたシェンフゥが、リサの腰を太腿の上に落ち着けさせる。


「タイルの肌当たりが少し気になってのぅ。ご主人の柔肌に痕がついては困る」


「そ、そう……」


 言われて浴槽を改めて見れば、シェンフゥの言うとおり傷みがある箇所が見受けられた。

 言われなければ気づかない程度のものではあったが、気遣われてのこととわかれば悪い気はしない。リサはシェンフゥにされるがまま、脚の上に落ち着いた。


「寄りかかってくれても構わんぞ」


「いや、それはさすがに……」


 間には湯があるものの、シェンフゥの胸の膨らみが背中のすぐ傍に迫っている。

 流石に遠慮して姿勢を正そうとしたリサの身体は、シェンフゥの手によってやんわりと引き止められた。


「遠慮は無用じゃぞ、ご主人」


 後ろからリサを抱きしめたシェンフゥが、首筋にそっと舌を這わせる。


「ちょ、ちょっと……」


「はぁ、洗い立ての肌の匂い……これは、たまらぬ……」


 そう言いながらシェンフゥがリサの耳の後ろに鼻を寄せ、匂いを嗅いでいる。


「なんだかんだ言いながら、それが目的だったのね」


 身じろぎしながらリサが視線を後ろに向けると、シェンフゥが快活な笑みを零した。


「わしにそれ以外の目的があった試しがないぞ」


「……っ、ぁ……」


 首の薄い皮膚を唇で摘ままれ、思わず声が漏れる。


「こんな……誰かに見られたら……」


 辛うじて押し殺した声で、囁くように呟く。

 外の様子をうかがうように巡らせた視線は、窓の外を行き交う人の影を捉えた。


「そろそろ続けても良いかのぅ?」


 シェンフゥが焦れたようにしっとりとした吐息を漏らしながら、耳や首筋に口付けていく。

 外を歩く使用人らしき人の気配にリサは身体を強ばらせ、ぎゅっと唇を引き結んだ。


「そんなに緊張して、どうしかしたのかの、ご主人……」


「外に、人が――」


 振り返って訴えるリサの唇をやんわりとシェンフゥが塞ぐ。


「なに、声を立てねばわしらがなにをしようと、見えはせん」


「そうなんだけど――」


 見つめ合い、唇を合わせたまま呟く声は、シェンフゥの柔らかな舌によって遮られた。


「リサ……」


 シェンフゥがリサの名を呼びながら身体を持ち上げ、自分と向き合うように座り直させる。

 やんわりと手のひらで支えられた後頭部は、リサの顔を引き寄せたまま離さない。


「ん……ぁ……」


 リサもなにかにすがりたい思いでシェンフゥの肩に手を回すと、しっかりと抱きついて肌を寄せ合った。


(あぁ……こんなの……)


 見えるはずはないと言われても、ガラスの壁の外で人の気配は続いている。

 見られているかも知れないという危機感が、背徳的な興奮を生み、リサの吐息はじょじょに熱くなっていく。


(これ以上は、駄目……)


 湯で温められた身体から、とろとろと蜜が零れてくるような感覚がある。押さえ込んでいる嬌声ももう飲み込めそうにない。

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