第5話 汚染結界

 

 領主館を出、案内の聖騎士団の青年と別れた後、リサとシェンフゥは早速ナクラバルの街へ調査に乗り出した。


 領主ザルクにより早急に発行された活動許可証があることから、街での聞き込みは容易ではあったが、そのことが、行方不明者の捜索をより難航させた。


「……明日自分がそうなったら困るけど、でも代わりに嫁さんがなんとかするんじゃないかな」


 数人の友人が行方不明であるという若者は、明るく笑って仕事に戻っていく。


「また同じ答え……」


 ずっと感じていた違和感が、重くリサの上にのしかかってくる。


 行方不明者に関する証言は、どれも要領を得ない。

 それどころか、街の人々が行方不明者のことなど微塵も気にかけずに生活を続けている異常さが、より顕著になっていくばかりだった。


「はぁ、匂うのぉ……」


 深く溜息を吐くリサの隣で、シェンフゥが空を見上げながらしきりに鼻を鳴らしている。


「領主館のあのお香? まだ匂うの?」


 シェンフゥの匂いを嗅ぐような仕草に合わせ、自分の服に鼻先を近づけてみる。

 リサの動きに気づいたシェンフゥが、露出している肩に鼻を近づけ、露骨に鼻から息を吸い込んだ。


「ちょっ! なんで私を嗅ぐのよ!」


「いや、つい……」


 誤魔化すような笑いを浮かべながら、シェンフゥが鼻先をリサの腋の窪みに押しつけようとする。


「こ、こらっ!」


「……鼻が曲がりそうじゃったのを我慢したんじゃ。許しておくれ……」


 リサの腕をやんわりと持ち上げ、鼻先を押しつけて息をしながらシェンフゥが弱々しく訴える。


「……あぁ、ご主人の匂いを嗅ぐだけで、生き返る心地じゃ……」


「もう、仕方ないんだから……」


 領主館のせ返るような香の匂いは、リサにも少しきつく感じられたぐらいだ。

 鼻が利くシェンフゥには、辛かっただろうと想像出来るだけに、あしらうことも出来ずにされるがまま、匂いを嗅がせてやる。


 そうしてしばらく立ち止まっていたが、他の通行人が不思議そうに横目で見ながら通りすぎるに至り、リサは慌ててシェンフゥを引き剥がした。


「はい、おしまい。もういいでしょ?」


「た、頼む、もう少し、もう少しだけじゃからっ」


「なにも、ここでしなくてもいいでしょ!」


 往生際悪く顔を埋めようとするシェンフゥの額に手のひらを押し当てて制しながら、小さく叫ぶ。


「ここじゃなければ良いのじゃな?」


 シェンフゥはぴたりと動きを止め、リサの目を覗き込むように見つめると、確かめるように訊いた。


「い、いいわよ……?」


「助かるぞ、ご主人。さっきから、罠の臭いがぷんぷんしてたまらぬからのぅ……」



 『食事』の話題を持ち出されるかと思ったが、そうではないらしい。

 シェンフゥはそう言いながら、虚空を睨むように見つめて続けた。


「罠の臭いって?」


 シェンフゥの視線を辿ったところで、青い空と白い雲が広がっているだけだ。

 なんの変哲もない空を依然として睨んでいるシェンフゥに、リサは改めて訊ねた。


「ご主人はわからぬか……。では、わかるようにしてやろう。目を閉じてはくれぬかの?」


「こう?」


 いつになく真剣なシェンフゥの言葉に、言われたとおりに目を閉じる。

 その瞼に、温かく柔らかいなにかが突如として触れた。


 まるで、唇のような――


「な……っ!?」


 驚いて目を開けたリサに、シェンフゥがにんまりと笑って上空を指し示す。


「これは――」


 街の上空には、今まで見えなかった薄い靄によって覆われていた。

 首を巡らせ、街全体を見回す。

 靄は街全体を覆い尽くし、不穏な空気で包み込んでいる。


「見てのとおり、魔族のゲヘナじゃ。この街、おかしな結界が張られておる。なかなか手が込んだことをする輩じゃ……。しかし、わしの目は誤魔化せんぞ」


 ゲヘナ――魔族が使う魔法現象が起こした不気味な靄の中には、ごく薄く鈍色の雲のような邪紋が浮かび上がっている。

 決定的な証拠を目の当たりにして、リサは険しく眉根を寄せた。


「魔族絡みということは、これで間違いないわね。この結界、なんのために張られてるの?」


「ふぅむ……。わしの見立てが確かならば、精神汚染系の結界のようじゃ。人間の潜在意識に暗示をかけるタイプといったところか……」


 ――精神汚染を引き起こす結界。


 淡々と分析するシェンフゥの隣で、ふと脳裏を過った可能性に、リサはぞっとしてシェンフゥの肩を掴んだ。


「ちょっ、それって私たちにも精神汚染が――」


「安心せい。わしらには効果は及ばん」


 シェンフゥがリサに穏やかに微笑みかける。

 その笑顔に安堵して、リサは強く掴んだシェンフゥの肩からゆっくりと手を離した。


「もっとも普通の人間なら、一週間も持たぬじゃろうな。わしらはそうじゃな――数ヵ月はこの街にいないと汚染を受けたりはせんじゃろう」


 不安が伝わったのか、シェンフゥが丁寧に説明を続ける。

 相槌を打ちながら改めて忌まわしき結界を眺めたリサは、これまでに得た証言を頭の中で繰り返した。


「その上、おぬしにはわしの精霊の加護がある。わしがついている限り、頭がおかしくなったりせぬ。心配なら手でも繋いで歩くかの?」


「子供扱いしないで」


 伸ばされたシェンフゥの手を振り払い、早足で街を歩き始める。


「人の親切心を無碍むげにするでないぞ」


 かっかっと笑うシェンフゥの声はいつもどおり明るい。


「あんたのは下心でしょ!」


 あしらいながら、リサはなおも指を絡めてくるシェンフゥの手を握り返した。


 ――シェンフゥといる限り、自分が精神汚染の影響を受けることはない。


 その確信が、不穏な状況下での希望でもあった。

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