第375話 十鳥巧は命乞いをする

 マキエは自分の妻だ。

 清乃きよのの中に存在する人物からの言葉で、十鳥とどりは相手の正体を知る。


 木津きづ清春きよはる

 清乃の兄であり、マキエの配偶者であった男。

 だが、彼は十年以上前に亡くなっている。

 その男が、なぜ清乃を介し、自分の前にいるというのだ。

 体を押さえつける強大な力に抗いながら、十鳥は顔を清乃へと向けていく。


「ひっ」


 自分が発したとは思いたくない、みっともない声がこぼれ出た。

 だが今は、それを恥じる余裕などない。


 今までに見てきたはずの、知っているはずの清乃の顔が『見えない』のだ。

 本来、顔があるはずの部分には、霞でもかかったかのようにぼやけた輪郭だけが存在している。

 その中で、ただ一つだけ。

 深い憎しみを宿し、らんらんと光る眼のみが、その存在をあらわしていた。


 向けられている視線は射貫く、という言葉では表せない。

 目をそらしたい。

 だが、そのわずかな動きですら、相手の不興を買い、命を刈り取られてしまうのではないか。

 そんな気がしてならないのだ。

 危機感を訴えてくる本能に従い、十鳥はただ相手が動くのを待つことしか出来ない。

 

『おい、もう一度だけ聞いてやる。「マキエを人質にしている」、その言葉の意味を説明しろ。お前の命をもってだ』


 答えることなど出来ない。

 彼の求める情報を素直に話せば、怒りを買い、そのままなぶり殺しにされるだけだ。

 さりとて洗いざらい話し、このまま見逃されたとしても、それを知った高辺に粛清されるだけ。

 では、どうしたら生き延びることができるのか。


「お話、……いたします。ですが、この苦しさから解放していただかなければ、……とても説明など、出来っ、……ません」


 まずは、この体が自由に動かせる状況にしておかねば。

 とぎれとぎれに語る自分に、清乃が異を唱える。


「待ってください! 私は反対です。彼が逃亡する可能性が高まるではないですか」


 清乃の意見に、十鳥はまだかろうじて動かせる右腕を掲げ、必死に否定していく。


「それは無理です。私は今、右足を折られ、左腕も使えなくなっております。この部屋から出ることなど、不可能ではありませんか」


 焦燥感をあらわに、十鳥は訴えていく。

 吉晴の体が死を迎えた際に、この体に留まっているとどうなるのか。

 自分はまだ、高辺から聞いていないのだ。

 こんな爺と心中など、冗談ではない。

 他の連中と違い、自分は高辺に選ばれた存在。

 こんな場所で終わるなど、あってはならない人間なのだ。 


 とはいえ、いつまで意識が保っていられるかわからないほどに、吉晴の体は衰弱している。

 この男が死ぬ前に、何とかしてここから逃げ出さねば。


 血の気の失せた顔で必死に話す姿に、清乃は逃亡の可能性はないと判断したようだ。

 清春に結論を委ねたようで、それ以上に追求してくる様子はない。


『いいだろう。ただし、話が信用できないと判断した時点でお前の命の保証はしない。これだけは覚えておくんだな』


 清春の声と共に、さいなんでいた圧力が次第に弱まっていく。

 自分へと近づいてくる清乃を、十鳥は見上げる。


『さぁ、話せるようにしてやったぞ。約束をはたしてもらおうか』

「はい、ありがとうございます。私の意識がなくなる前に、知っていることを全て、……お話いたします」


 苦しいので、ゆっくりとしか話せない。

 そうふるまいながら、十鳥は吉晴の体内で、静かに自身の発動を始めていく。

 彼らに気取られないようにと、わずかずつしか出来ない行動がもどかしい。


 発動可能までの時間を稼ぐ。

 そのためにも話をせねばならないが、正しいことを言う必要などない。

 疑われぬためにも、ある程度の事実を交えつつ、相手へは偽の情報を与えてやろう。

 あわよくばそれで、敵の混乱を誘えるのであれば上等だ。


 とはいえ、問われる時間は少ない方がいい。

 ひとまずは命乞いをして、話をそらしてみるか。

 弱々しい声を発し、十鳥は懇願こんがんしていく。


「……清春様。この話によって、私は今の雇い主から命を狙われることになります。どうかあなた様の管理下で、私をしばし、かくまっていただけないでしょうか」

『はん、その辺りは清乃に頼めよ。お前の命なんぞ、私の知ったことではないからな』


 清春は先見性に優れ、時に冷酷な判断をもためらいなく下す男である。

 切り捨てるように告げる彼に、それが事実であったことを十鳥は改めて思い知る。

 こいつ清春に期待はできない。

 早々に見切りをつけ、今度は清乃へと十鳥は狙いを定める。


「清乃様、あなた様は常に分け隔てなく、組織の人間へと接してくれていました。頼る場所もない自分にどうか、慈悲を与えてくださいませ」


 すがるように見上げれば、清乃は自分の前にしゃがみこみ、服のポケットからハンカチを取り出している。

 こちらへと手を伸ばした彼女は、十鳥の顔に付いた血をそっと拭いはじめた。


 そうだ、この女は兄と違い、単純で騙されやすい。

 こちらの芝居に気づくことなく、こうして薄っぺらな憐憫れんびんの情をかけてくるのだ。

 愚かな行動に嘲笑ちょうしょうと感謝を込め、十鳥は感極まったふりをして言葉を漏らす。


「清乃様、私のために。……あ、ありがとうございます」


 いい時間稼ぎが出来ている。

 この調子でいけば、大して情報を漏らすことなく、この危機を脱出できそうだ。

 そんな十鳥の意図を知らない清乃が、ほほ笑みながら立ち上がる。


「よかった、ひとまず顔は綺麗になりましたね。これで……」


 動くことはないと慢心している清乃は、あっさりと自分に背を向けた。

 部屋の隅に転がった自身の鞄へと歩き出す彼女の後ろ姿を、十鳥は半ば呆れて見送る。


 今日の自分に対する言動と清春の出現。

 これにより、今までの清乃の間抜けな行動は、実は芝居だったのではないか。

 その考えがよぎったが、ただの買いかぶりだったのだ。

 敵に背を向けるなど、このような状況ではあってはならないこと。

 やはりこいつはただの、世間知らずの女なのだ。


 その天使のような微笑と『お優しい行為』に感謝しながら、脱出の準備をすすめるとしよう。

 腹の内で笑う十鳥であったが、戻ってきた彼女が手にしたものに言葉を失った。


「あぁ、割れてなくてよかった。これで安心して、お話が出来るというものですね」


 その手に握られているのは、井守いもりの印が入ったボトル。

 中の赤い水を手のひらになじませた彼女は、呆然とする自分の頬へとそれを塗り付けてきた。


「ありえないとは思いますが、あなたが偽りを述べた時点でこの水は消えます。まさかこんな状況で、嘘なんて言いませんよね?」


 再び自分へと笑顔を向けてくる彼女に、十鳥は考えを改めざるを得ない。

 こいつは天使などではなく、悪魔のような女であるということを。

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