第353話 『彼女』は動く その2

 緋山ひやまとの話が終わってから十数分後。

 真那まなは緋山を退出させ、ある人物を自室へと招待していた。

 ノックの音を聞き、真那は客人を迎え入れようと扉へと向かう。

 今まで、彼との会話は安心を得るための時間だった。

 彼は、時に信じられないことを自分へと語ってくる。

 だがそれは事実であり、自分は何度も助けられてきたのだ。


 ――そのはずだったのに。


 いや。

 今こそ、それを確かめる。

 そのために面会を求めたのだ。


 扉を開き、いつも通りを装い相手を出迎える。


「急な呼び出しになり申し訳ありません。……十鳥とどりさん」

「こんにちは、真那様。ちょうどお話をしたいことがあったのです。ですから好都合でした」


 ソファーに座った十鳥とどりたくみは、真那へと穏やかに笑みを向けてくる。


「あの、十鳥さん。もしご迷惑でなければ、そちらのお話から先に伺ってもよろしいですか?」

「えぇ、もちろん大丈夫ですよ。まだ公になっていないお話となります。二条の人物が複数名、本日より謹慎きんしんとなりました」

「複数名ですって? いったい何があったのでしょう」

「対象の方々は、組織の力を私的に利用したということです。全くあってはならないことですよ。実に嘆かわしい」

「私達の力は人のためのもの。それが出来ないなんて、……悲しいことですね」


 十鳥の声を聞きながら、真那はうつむくと静かに発動を開始する。

 彼に気づかれないように、空気中の水分を少しずつ集め、下瞼したまぶたのふちへと落とす。

 やがてそれは頬を伝い、雫となって真那の手の甲へと落ちた。


「真那さん、あなた泣いて……?」


 動揺した声が聞こえると同時に、真那はポケットからハンカチを出す。

 涙をぬぐうかのように、ハンカチを目に当てながら十鳥を見上げていく。


「謹慎の話で、驚かせてしまいましたか? 申し訳ない」


 困った顔つきで語る十鳥に、真那は首を横へと振った。


「十鳥さん、違うのです。その方たちの話を聞いて、井出君がもしそのようなことになったら。私は正しく彼を導くことが出来るだろうか? それを思ったら急に不安になってしまって」


 うまく言葉が出せるだろうか。

 不安もあったが、実際の思いも重なるところもある。

 それにより真那は、震えた声で十鳥に語ることが出来ていた。


「大丈夫ですよ、真那さん。私の言うとおりにしていれば、すべて上手くいきますから」

「そうですよね。すみません、今日はどうしたことか動揺が収まらなくて」


 真那の言葉に十鳥はうなずくと、席を立つ。


「私がお伝えしたいことは、全て話しました。真那さんの話は、また改めてうかがうことにしましょう」

「ごめんなさい、私……」


 真那はそう呟きながら、ハンカチの面を裏返した。

 強く握りしめ、ハンカチに付けておいた液体を手のひらへと付着させる。

 手のひらが湿ったのを確認すると、部屋を出ようとしている十鳥を追いかけていく。

 そのまま後ろから彼の手を掴み、振り向こうとする十鳥へと、真那は声を掛けた。


「お願いです。今、顔を見られたくないの。どうか、そのまま振り返らないで」

「あっ! えぇ、はい。もちろんですとも」


 言葉通り、彼がこちらを見る様子はない。

 これで、自分が『泣いている』と思わせることが出来た。

 握った手が濡れていることも、涙だと思っている彼は、こちらが話すのを素直に待っている。


「……十鳥さん。私や井出君のことを心配してくれているから、こうしてお話をしてくれているのですよね?」


 声だけでなく、自分の手も震えている。

 真那は、彼からの答えを待った。


「えぇ、そうですよ。僕は、あなたと井出様が仲良く共に過ごしていけるように。それを願って行動していますから」


 言葉を聞き、真那はそっと手を放していく。

 男性である十鳥の手は、自分よりも一回り大きい。

 見た目に気を遣っているようで、清潔感のあるその手には、シミや汚れなどは見当たらず綺麗なものだ。

 約束もあり、彼は一度も振り返ることなく「失礼」とだけ声を掛け、部屋から出ていった。


 一人になった真那は、自らの手を見つめたまま、その場に膝をつく。

 十鳥へと伸ばした自分の手のひらは、


 真那はあらかじめハンカチに、緋山の『井守いもりしるし』をしみ込ませておいたのだ。

 正しいことを言えば赤の色はついたまま。

 偽りを言えば、たちまちにその赤は消え失せる。

 

 ――つまりは。

 十鳥にとっては自分も明日人も、ただの駒でしかなかったということ。


『真那様、十鳥様はあなたを利用している可能性があります』


 泣き出しそうな顔で、それでも緋山は目をそらすことなく真那にそう語ったのだ。


「……くっ、うぅっ」


 心がちぎれそうに痛い。

 逃がすためにする方法の一つは、泣くことだ。

 それは十分に理解している。

 けれども今の自分に、それは許されない。

 守りたいと言っていた大切な弟に、騙されていたとはいえ、ずっと冷たい言葉や行動をぶつけていたのだ。

 そんな自分に、泣く権利など。


「あるわけ、……ないじゃないっ」


 心に押し寄せる痛みに悲鳴を上げるように。

 真那は食いしばった口から、うなるような声をただ上げ続けるのだった。

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