第291話 松永京は善処する

「冬野つぐみは不合格だ。あんな軟弱な子は一条うちにはいらない」


 里希の言葉に、高辺の表情が変化することはない。


「あら、私はなかなか優秀な子だと思っておりましたのに。ですが里希様がそうおっしゃるのでしたら仕方ありませんね」

「彼女は迎え入れるべき存在ではなかった。よって一条の所属は不可。これで僕の仕事は終わりだね」

「えぇ、お疲れ様でした。ところで、その冬野さんの姿が見当たりませんが?」


 高辺の顔から笑みが消え失せ、いぶかしげな表情へと変わっていく。

 その様子を確認し、里希は言葉をかける。


「浜尾さんに任せた。あとは彼がどうにかするでしょ」

「……そうおっしゃいましても。試験に不合格になったのでしたら、彼女の記憶を消す必要がありますよ」

「記憶ならば消したよ。『この試験で見たことは全て忘れるように』とね」

「里希様、それは一体どういうことで……」


 高辺の言葉が途切れる。

 その冬野つぐみを抱えた浜尾と、妙に機嫌の良い松永がそろって現れたからだ。


「あっ、高辺さん! ちょっと聞いてくださいよー」


 松永が、高辺へと駆け寄りながら声をかける。


「俺ね。今日の仕事をとっても頑張って、こんなにボロボロになったんですよ。それなのに里希様ってば、この服を自分で買い直せと言うんです」

「当然でしょう。僕の発動が当たるなんて、ただの怠慢たいまんだもの」


 里希と松永の会話を、高辺は何も言わずにただ見つめている。

 だが後ろからやって来た浜尾が高辺に会釈をし、そのまま建物へと入ろうとするのを機に口を開く。


「浜尾さん、ちょっとお待ちいただけるかしら? 冬野さんの記憶が、どうも完全には消えていないようですが」


 いつもと違い、語気鋭く問いただす様子。

 浜尾に近づこうとする高辺の前に、立ちふさがるように松永が身を乗り出す。


「ですので、高辺さんから里希様にびしっと言ってやってくださいよぉ。これは経費から出して上げてくださいって〜」


 へらへらと笑いながら。

 けれどもしっかりと道を塞ぎ、松永は高辺を引き留める。


「……ご自分が何をしているのか。もちろん分かっての行動なのですよね? 松永さん」


 その声には、普段であれば彼女が見せることのない静かな怒りが宿っている。

 浜尾が本部の中へ入ったのを確認すると、松永はジャケットのフロントボタンに触れながらひるむことなく答えた。


「わかってますよ。これからの俺の行動で、このスーツかメガネ。あるいは今日の晩飯を浜尾さんがおごってくれるんだろうなぁってことでしょう?」


 心底うれしそうに。

 だが挑発的な眼差しで、松永は高辺に話を続けていく。

 訪れたのは沈黙。

 互いが腹を探り合い、自分の有利な展開へと導かんとその駆け引きに時間を費やしているのが里希には見て取れる。


 ――まぁ、これだけ時間をとったのだ。

 浜尾さんならば十分だろう。

 あまり松永さんに任せるのも可哀想だね。

 里希はそう結論を出し、高辺へと声を掛ける。


「……どちらにしてもあんな子、一条うちにはらないもの。ぬるい人間は、ぬるい三条にでもくれてやればいい。高辺さんも僕の仕事は終わったって言ってくれたし、帰るとするよ。高辺さん、車の手配をお願い」


 うんざりとした声を出し、里希はこの場の解散を促す言葉をかける。

 その行動に嬉しそうに松永が反応していく。


「あ、じゃあ今日は俺がご自宅まで送りますよ。だから里希様……」

「却下」

「え? 俺、まだ何も言ってないのに」


 里希と松永はとりとめのない会話を続けながら、浜尾を追うように建物へと向かう。

 動く様子もない高辺を置いて、二人は歩み続ける。

 隣では松永が「こえー、超こえぇ」と小声で呟きながら、両手で自分の二の腕をこするように上下に動かしているのを里希は目にする。


「そんなに怖がるくらいだったら、あんなふうに突っかかっていかなきゃいいのに」

「えー、でも何かあったら里希様が助けてくれるかなぁって」

「助けるって何? 僕は自業自得の人に付き合うほど暇じゃないから」

「そんなつれないこと言わないでください。俺はいつも里希様のために頑張っているではないですか」


 いつも通りの軽口を聞きながら、里希が見上げた松永の顔。

 そこには夏の暑さだけではない、じっとりとした脂汗が浮かんでいる。

 先程の会話は彼にとって、結構な負担であったようだ。

 そんな松永に里希はねぎらいとは言い難い言葉を投げかける。

 

「当然でしょ、あなたは僕にそう『約束』したんだから」


 ――かびとほこり、そして血の匂いが満ちた部屋の中で。

 かつて彼が里希の前にひざまずき、口にした誓い。


 当時は未熟だったこともあり、里希が思わず動揺を見せてしまうほどの。

 それほどまでに、たやすく口にすることのない言葉。

 その誓いの後に自分を見上げてきた松永の姿も、今のように血と汚れで染まっていたことを里希はふと思い返す。

 十年前と重なったその姿に思わず小さく笑みを浮かべれば。

 松永はどうしたことか嬉しそうに笑うではないか。


「何がおかしいの?」

「いいえ別に。今きっと里希様は、俺のことを好きで仕方ないんだろうなぁって思ってただけですよ~」

「……馬鹿じゃないの。そんなこと言っている暇があったらもっとしっかり働いて」

「はーい、善処ぜんしょしまーす」


 前髪を片手でかき上げる松永の顔に、少し前までまとっていた緊張感はない。

 だからあえて松永に伝える必要もないのだ。

 後ろから聞こえて来た、松永には聞こえていなかったであろう言葉を。

 里希は高辺から漏れた、小さな呟きを胸にしまっておくことにする。

 なぜならそれは、自分には関係のない話なのだから。

 

『冬野さんってば、ちょっと邪魔ね』というその言葉を。

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