第289話 蛯名里希は記憶を奪う

 つぐみが眠りに落ちていくのを里希は見届ける。

 彼女の意識喪失までの時間。

 普段よりもそれが遅いのが気にかかる。


「……ふん。思っていた以上に、力を使いすぎていたということか」


 手のひらを見つめ、最後の仕上げへと里希は取り掛かる。

 白日にふさわしくない者に、その記憶は必要ないのだから。


 片手でつぐみの肩を支え、もう一方の手を彼女のまぶたの上に乗せる。

 手のひらに触れるのは彼女の目からこぼれ落ちた雫。

 同時に蘇るのは、この子から託された愚かな男への伝言。


 それにより自分に生まれた感情。

 とうに失くしたはずの存在に、思わず手が止まってしまう。

 だがそれも一瞬のこと。

 発動を施し小さく風を吹かせ呟く。


『……君がここで見たことは全て忘れなさい、いいね?』


 これをもって、冬野つぐみの一条いちじょうにおける採用試験は終了となった。

 結果は不合格。

 なぜなら彼女は、自分の部下となる資質が無かったのだから。


 仕事を終えた彼の耳に聞こえてくるのは何者かの足音。

 それが自分の後ろで止まったのを機に、里希はその人物へと告げる。


「お疲れ様。なかなかの演技だったね」


 振り返り、冬野つぐみをそのまま押し付けるように彼に。

 ……浜尾へと引き渡す。

 その姿は冬野つぐみ同様に服には多くの汚れが。

 彼にはそれ以上にスーツに限らず体のあらゆるところに、本人のものではないとはいえ血がこびり付いている。

 目を覚ますことはないが、いま冬野つぐみが彼を見たら卒倒してしまうだろう。

 慌てて浜尾が彼女を抱きかかえるその様子を里希は眺める。


 浜尾はそっとつぐみを地面に横たえると、呼吸と脈拍を確認している。

 彼女の顔を覗き込む彼の表情は、とても穏やかだ。


「随分と丁寧に扱うんだね。その子が気に入ったのかい?」

「そうですね。出来ることならば、共に仕事をしたいと思いました。一条にとっても必要になりうる人材だと私は感じましたね」


 彼がここまで言うとは珍しい。

 思わず里希は問うてしまう。

 

「この子に、どんな利用価値があるの?」

「そうですね。まずは彼女の観察力と応用力は大したものです。状況に応じて柔軟に動くことを、彼女はこの若さで知り得ているようですよ」

「……確かにそれは、僕も見せてもらった」

「ですが自己犠牲の精神が強すぎます。自分よりも他人の命を優先するタイプだ。こういった子は、その気持ちに見合った能力がなければ長生きできないでしょう」

「短い時間でよく分析できてるね。さすが浜尾さんだ。で、何? この子を一条に入れてほしいっていうことなの?」


 里希の言葉に、浜尾は首を横に振る。


「いいえ。彼女はここにはふさわしくありません。彼女がいるべき場所は別のところです。……私は彼女を三条さんじょう、あるいは四条しじょうへと推薦いたします」


 予想していなかった言葉に、里希は思わず浜尾の顔をまじまじと見てしまう。

 だがその表情は真剣そのものだ。

 真っ直ぐに里希を見据え、彼は口を開く。


「私は数日前、本部ここの駐車場で冬野さんが品子様、井出様と三人でいる様子を見ておりました。あのお二方がそろって、本部では全く見せることのない姿を、彼女の前では出していました」


 浜尾は内ポケットからハンカチを取り出すと、つぐみの顔についた汚れをそっと拭っていく。


「里希様もご存知のように、品子様も井出様も本当のご自身を表すタイプではありません。会話こそ聞いておりませんが、お二人は偽りのない笑顔を冬野さんには向けていました。一条にふさわしい能力を持ち合わせる者。それは彼女以外にも存在するでしょう」


 ハンカチを内ポケットへと戻しながら、彼は言葉を続ける。


「ですが彼らにとって冬野さんは、かけがえのない存在であると私は感じました。出来ることならば、あのお二人がそう思える環境を。そして冬野さんが望んでいた所属にいてもらうべきだと私は考えます」


 普段は自分の意見など、こちらが問うまでは決して口にすることのない男。

 実直に、里希に絶対の忠誠を捧げている彼からの言葉。

 そうさせたのは果たして。


「それは冬野つぐみにほだされたの? それとも……」


 笑みを浮かべ、里希は彼に残酷な問いをする。


「品子先輩にしてしまった『過ち』を、少しでも許してほしいからなの?」


 里希が見つめる浜尾の表情は、悲しみや苦しみに動くこともない。

 ただ彼の心の中を見せつけるかのように。

 乾ききった思いが張り付いた顔がそこにあるだけだ。


「そうかもしれません。ですが起こしてしまったことは、どれだけ悔やんでも苦しんでも。……もう変えられないのです」


 投げつけた言葉を、彼は逃げることなく自らの身に受け止めていく。

 もう互いに、十分すぎるほどに分かっているのだ。

 どれだけあがいても、過去へは戻れない。

 そして彼がそれにより十年もの間、苦しみ続けているということも。

 

「だからこそ。私は品子様にはたくさんの穏やかな時間を、本来のあの方でいられる場所を得てほしいと願ってしまうのです」


 そう語る浜尾を里希は見つめる。

 十年前に彼は自分へと約束をした。

 決して裏切らない、偽りを吐かないと。


 愚直にその約束を守り続けた彼からの願いに、どう答えようかと里希は思いを巡らせる。


 そんな張りつめた空気をあっさりと壊す、のんびりとした声が二人に届く。


「お疲れ様でーす。里希様ってば本当に遠慮ないんだからぁ。俺が死んでたらどうするんです」


 その声に浜尾がゆっくりと後ろへと振り返る。

 浜尾と同様に血とほこりで汚れた服や姿。

 だがそれを全く気にもかけないネイビーのスーツを着た男がそこには立っている。

 あまりにもあっけらかんとしたその様子に、小さく息をついた浜尾が男に声をかけていく。


「もう少し遠慮をしてほしいのはお前もだよ」

「そうかなぁ? あ、そうだ里希様、ちょっと聞きたいのですが」


 ジャケットの破れてしまった。

 正確には里希の発動を受け、切り裂かれた部分をなぞりながら彼は。

 松永まつながけいはにんまりとした笑みを里希へと向けた。

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