第286話 冬野つぐみは問われる

 自分は飛び降りた。

 男と共に高い崖の上から。

 それなのにつぐみの心に後悔はない。


『どうしてこんな行動をするんだ?』


 どこからか誰かの声がする。

 知っている声なのだが思い出せない。

 だが聞かれたことに答えなければ。


「たすけて、もらったの。だから、つぎは、わたしがたすけるばん」

  

 どうしたことか、自分の口からは子供のようなたどたどしい言葉しか出て来ない。


『一緒に落ちる必要は、なかったのではないのか』


 確かにそうだ。

 けれども……。


「いっしょに、おちないと。あのひと、またきちゃう。いちどだけのたては、だめ」


『……、催眠状態での会話は面倒だな。起きるんだ、冬野つぐみ』


 ぱちりと指を弾くような音が耳に届いたかと思うと、体が急激に浮かび上がるような。

 いや、そんななまやさしいものではない。

 無理やりに引き上げられ、体がちぎれてしまいそうな感覚に自分は。


 ――つぐみは悲鳴を上げる。


 叫びにより起こるひどい喉への痛みに、思わずつぐみは自分の首に両手を重ねる。

 苦しみによっての意識の覚醒に対し、ただひたすら小さく呼吸を繰り返すことで痛みを逃していく。

 やがて呼吸が落ち着いたため、状況を確認しようと視線を周りへと向ける。

 どうしたことかつぐみは飛び降りたはずの崖の上に、あおむけの状態で倒れこんでいた。


 何か夢でも見ていたような。

 誰かに問いかけられていたような気もするが、頭の奥に霧がかかったように思考が働こうとしない。

 まだ軽い痛みが頭に残っているものの、体は自分の意思で動かせるまでには回復しつつある。

 喉に添えていた両手を外し、地面へと下ろすとゆっくりと上半身を起こしていく。

 今度は頭の中からではなく後頭部に痛みが走る。

 触れてみたその部分には、少しばかり腫れと熱があるようだ。

 

「目が覚めたか」


 後ろから聞こえて来た声に、つぐみはびくりと体を震わせ振り向く。

 そこには自分に背をむけ、崖を覗き込むように座っている里希の姿がある。


「蛯名様? わ、私は確かそこの崖から落ちたはずでは……? それなのに、どうしてここに? そうだ、いけません! 早くこちらへお戻りください。あの男が……!」


 一緒に落ちた男はどうなったのだ。

 痛みも忘れ、周りを見渡す。

 だがここには、自分と里希の二人しかいない。 

 大声を出すつぐみへと振り返ると彼は答える。


「あの男はもういない。この下で眠ってるよ」


 そう言って崖の下を指差す。


「君が崖から落ちたというのはあり得ない。……男が持っていた黒い装置。あれを覚えているか?」


 つぐみがうなずいたのを確認して彼は口を開く。


「あれは発動者の動きを、短時間だが止めてしまう道具だ。まだ開発中だったのに、持ち出した愚かな奴のおかげで僕がこんな目に遭うとはね。まぁいい。そいつにはしっかり責任は取ってもらおう」


 嬉しそうに笑う様子に戸惑いながら、つぐみは彼が語る話に耳を傾ける。


「まぁこれは、君には関係のない話だったな。装置により隙が生じた僕に、男は攻撃しようとした。だがそれを察した君が、男に向かい飛び込んでいった」

「そうです。そして私はその男と一緒に崖から落ちて……」

「ならばなぜ今、ここにいる? 僕が見た事実はこうだ。君は体当たりを仕掛けた。だが男に突き飛ばされ、そのまま後ろへと倒れこんだ。その際に頭を打ち付け気絶してしまった」


 そっと後頭部に触れる。

 チリチリとした感覚が、返事のように痛みを伝えてきた。


「だがその時間のおかげで、僕は体が動くようになった。すぐさま発動を行い、男にはここから落ちてもらったというわけだ」


 自分の体に起こっている変化を見るに、里希の話は間違いないのだろう。


「おそらく例の装置は、君のような一般人には幻覚を見せる効果があるようだ。開発班に伝えておこう。いい実験体になってもらえたことに感謝しておくよ」


 どう受け取ればいいのか分からない感謝に困惑しながらも、つぐみは起き上がろうとする。

 けれどもその動きに体がついていかず、たちくらみをおこしその場にしゃがみ込んでしまう。

 その様子を見た里希は静かに立ち上がると、つぐみへと歩み寄りながら問いかけてくる。 


「ねぇ、聞きたいんだけど。どうしてさっきはあの男に飛び込んで行ったの? あの勢いならば、相手が油断していたら君も一緒に落ちていただろうに。そんなに君は死にたいのかい」


 頭を片手で押さえながら、つぐみはゆっくりと首を横に振る。


「いいえ、まだ死にたくはありません。ですがそれくらいの気持ちでいなければいけないと思ったのです。あの男はそうやって止めない限り、蛯名様の命を狙い続けるでしょう」


 ぐっと歯を食いしばり立ち上がる。

 視界がグラリと揺れるが、構わずに彼と目を合わせた。

 ゆっくりとつぐみは頭を下げていく。


「……申し訳ありません。私は蛯名様にとって、役に立てる存在にはなれませんでした」


 真下にある自分の影。

 それをじっと見つめながら待つこと数秒。

 視界の先に、ダークブラウンのローファーが現れたのを見てつぐみは顔を上げた。

 こちらを見る里希の淡々とした、……いや違う。

 ほんの少しだけだが惑いを感じる表情。

 

「突然、どうしてそんなことを言うのさ」


 不機嫌そうに尋ねる声につぐみは答えていく。


「ただあの男を突き飛ばしただけでは、一度しか私は役に立てていないことになります。男が次の攻撃が出来ないように。二度目の役に立つためには、相手が蛯名様に手を出さないようにする必要がある。そう考えていました。浜尾さんから……」


 彼の名を呼ぶ自分の声が、震えているのが分かる。

 あの人は盾となって里希を守り、亡くなってしまったのだ。


「浜尾さんから、蛯名様は一度だけで壊れる盾は必要とされないと聞きました。盾に、……いえ。私は盾にすらなれませんでしたが」


 しばしの沈黙の後、彼は再び口を開く。


「だからあの行動か。……無謀だな、君は」

「私は蛯名様にあの男から守ってもらいました。いただいた恩を返したい。そう思っていたら体が勝手に動いておりました」

「……浜尾さん。彼は十年間、僕の護衛を務めてくれている。今日みたいな行動をしていたら。君なんて十年どころか一日ですら、もちそうにないね」


 情けない話だが、その通りだ。

 そんな中で、今の言葉につぐみは違和感を覚える。

 その答えを導き出す前に、里希は彼女へと問いかけた。


「改めて聞かせてもらおうか。冬野つぐみさん。いつから使に気づいていた?」

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