第285話 冬野つぐみは、飛び込む

 振り返ってはならない。

 なぜならそれは相手の男の顔を見るということ。

 それは自分をずっと守ろうとした、里希の行動を無に帰することだから。

 だがあえて、つぐみはそれを行う。

 冷静な判断力を持つ彼ならばきっと、自分の意図いとに気付いてくれるはずだ。


 振り返る際にちらりと見えた里希の顔は、つぐみの行動に驚いた様子もない。

 その表情につぐみは安堵すると、男へと強い視線を向けていく。

 さすがに非力な自分では、相手を倒すことが出来なかった。

 せいぜいが相手を数歩さがらせ、体勢を崩せたことのみ。

 むしろつぐみの方が反動でみっともなく大きく後ろへと下がり、しりもちをついてしまっているくらいだ。


 だが、それで十分。

 注意は自分に向いたのだから。

 さらにはそれにより男との距離もあけることが出来た。

 見すえた先にいたのは銃をこちらに向け、声も出さずに笑っているネイビーのスーツを着た眼鏡の男。

 浜尾と同等にがっちりとした体格がみてとれる。

 彼と戦った際の影響だろう。

 男の眼鏡の片方のレンズにはひびが入っている。

 男の体のあちこちについている赤い飛沫にこみ上げる恐怖を、つぐみはぐっと押さえこむ。


 そんなつぐみの視界の端で、里希が男の後ろへ向け一歩、踏み込むのが見えた。

 集中の為だろう。

 目を閉じたまま彼は左手を後ろへとしならせると、体に回転を加えながら男のいる場所へ向けて腕を振り上げる。

 あまりにもしなやかで、舞っているかのような動き。

 けれどもつぐみの耳に届くのは鋭く空気を切る音。

 里希の居た場所から男の元へ、道のごとく真っ直ぐに地面が抉られていく。

 座り込んだ自分に届く地面からの振動に、つぐみは思わず身を固くし体を伏せた。

 

「なっ! あんた発動が使えないはずじゃ!」


 避けるために左側へ。

 崖の方へと体を捻りながら攻撃をかわした男が叫ぶ。


「お前ごときに『あんた』とよばれる筋合いはない。そもそも僕は、発動が使えないとは一言も言っていないんだけど」


 間髪入れず、里希は右手首を軽く振るう。

 男とつぐみの間に渦巻くように風が巻き起こる。

 たまらず二人は互いにその場から下がることになり、男に至ってはさらに崖の方へと追いこまれていく。

 いつの間にか男は崖側に、対して里希が手前側へと立ち位置が逆転していた。


 この場にいれば、里希の邪魔になる。

 少しでも二人から離れようと、つぐみはしりもちをついたままで少しずつあとずさりをはじめた。

 そんな状態を男が放っておくわけがない。

 里希との視線を外さないまま、つぐみへと歩み出そうとした男の足先の地面が、破裂でもしたかのように土を飛び散らせる。

 座り込んだ自分の体に降り注ぐ砂埃に、つぐみが顔をしかめながら見つめた先。

 そこには手のひらを二人の方へ向け、冷ややかな表情で男を見る里希の姿があった。


「もういいでしょう? あなたに勝ち目はないのは理解出来ているだろうし。さっさと大事な依頼主さんの情報を渡して、そこから飛び降りてよ。『ここから落ちたって、ある程度の怪我はするだろうけど死なないでしょう?』」

 

 自分が言った言葉を一言一句いちごんいっくたがわずに語る相手に男は表情をゆがめた。


「……いや、参りましたね。降参です。さすがは一条の後継者。もうお手上げですよ」


 男は笑いながら、崖へとゆっくりあとずさりを始める。

 そうして持っていた銃を後ろの崖に放り投げると両手をあげた。


「これ以上ここにいても、その風で俺の体なんてバラバラにされてしまいそうですからね。お望み通りに依頼主の情報、こちらも今から渡しましょう。だからこのまま二人でお帰り頂けませんか?」

「そんなこと言って、後ろから攻撃されても迷惑なんだけど。……冬野さん。いつまでそんなところに座り込んでいるの。もうこちらに来てくれない?」


 これ以上、足手まといになってはいけない。

 つぐみは震える体になんとか力を入れ立ち上がる。

 男に背を向けないように、ゆっくりと里希の元へ足を進める。

 その様子を見つめていた男が口を開く。


「あぁ、蛯名様。お望みの依頼主の情報なのですが……」


 そう言って男はスラックスのポケットから手のひらに収まる黒いスティック状のものを取り出した。

 依頼主の情報の入ったUSBメモリだろうか。

 自分が受け取るべきかという考えがよぎるが、それで人質にされてはたまらない。

 そんなつぐみの考えなど、とうに見越していた里希から声が掛かる。 


「ふぅん、じゃあそれをこちらに投げてく……」


 言葉の途中で、男はそのスティックを強く握り締めた。

 その途端「キィン」と耳鳴りのような感覚が襲い、つぐみはその不快感に顔をゆがめた。

 その動きに男は満足そうに笑っている。

 背後からは「ぐうっ」と小さくうなる里希の声が響く。

 切迫感のあるその様子は、自分が受けた感覚よりもはるかに苦しいものであると十分に理解できるもの。

 彼の声を耳にすると同時に、つぐみの体は動き出していた。


 自分でも、どうしてそうしたのか分からない。

 後ろからは里希が倒れこんだのであろう、どさりという音がする。


 拳銃か、あるいは他の武器も準備していたのであろう。

 自らの懐に手をやる男に向けてつぐみは走る。

 先程ぶつかった時はびくともしなかったが、あれは自分は座り込んでいたから。


 相手に向かい全力で駆けていること。

 そして、今のつぐみにためらいなど一切ない。


 このままでは里希か自分、あるいは二人ともが殺されてしまうだろう。

 ならばここまで自分を守るために行動をしてくれた、彼のために!


 自分が起こしている行動の興奮と決断。

 日常からかけ離れたこの状況に心がおかしくなったのだろうか。

 つぐみの口には笑みが浮かぶ。

 その表情が男にとっては想定外だったのだろう。

 向かい来る彼女に怯えるように、男の顔がゆがみ動きが一瞬とまる。

 そのまま抱き着くように男にぶつかりながら、つぐみは男と共に崖へと身を躍らせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る