第251話 波の音と泡はいつ消えるのか その4

 夜の海はもっと暗いものだと沙十美は思っていた。

 ぐるりと見渡した景色は確かに暗い。

 だが滞在している旅館から、わずかに届く灯りや街灯もあるので真っ暗という訳ではない。


 ゆるりと沙十美は足元を見つめ、自分の滞在する旅館の準備の良さに驚く。

 フロントを通った際に声を掛けられ、海に行くのならパンプスは危険だとサンダルまでもが準備されていたのだ。

 いつも履かない靴というのは、気分を良くさせるものがあるのだろうか。

 周りに人がいないことや海からやってくる風。

 それらに心地よさを感じ、沙十美の足はどんどん前へと進んで行く。

 誘ったからにはやはり自分から会話をすべきだろう。

 そう沙十美も思ってはいるのだ。

 だが妙な照れが生まれてしまい、どうも口が言葉を出してくれない。

 そうしているうちに砂浜を見渡せる場所までやって来ると、室は沙十美を振り返り尋ねてくる。


「散歩とやらはどこまでが散歩だ?」


 相変わらずの真顔で言葉を出す彼に、堪え切れず沙十美は笑ってしまった。


「ちょっと! だったら、今まで来たのは何だっていうのよ? 今がまさに散歩っていうものだと思うんだけど」


 沙十美の言葉を聞いても、彼は表情を変えることなく自分を見続けている。

 笑ったことで少しだけ緊張が緩む。

 途切れることなく耳に届く波の音。

 優しく響くその音色に背中を押され、沙十美はようやく思いを伝える。


「ありがとう、この服」


 そっとスカートの裾を持ち上げ微笑んでみた。


「私ね、このワンピースを着てみたいと思った。でも同時に着るのが怖かったの。だってこんな綺麗で明るい服、私が着ていいのか分からなかったから。……でもね」


 海の方へとくるりと向きと変えると、沙十美はゆっくりと歩いていく。


「こうやって着てみたら、ちゃんとこの服は私を受け入れてくれたの。私が勝手に似合わないと思っていただけだった。そうやって、自分自身が出来ることをせばめていただけだったの」


 本当は彼の顔を見て話すべきだとは分かっている。

 でもそれが出来ないのは、この顔の熱さのせいだ。

 海からの風は沙十美の体にずっと吹き続けている。

 それなのに顔だけは熱を保ったままで、ちっともその温度を下げてくれない。


 言葉を続けねば。

 そうは思うのにこの気持ちをどう伝えたらいいのかがわからず、沙十美はただ海を見続ける。


「勝手に決めていた。それは本当だ」


 言葉が途切れたためか、後ろから室の声がした。


「最初から受け入れておけばいいものを、グズグズとしているから見逃す。中途半端に見ているからあるべき存在を見失う」


 次第に近づいてくる声。


「お前は 孤独ひとりといった。だがあいにく俺はお前がいつもぎゃんぎゃんうるさいせいで、……お前が来てから、俺はそんなふうに思えたためしが一度もない」


 淡々と語るその言葉に。

 意味の理解が進むごとに、沙十美の胸はどんどん苦しくなっていく。


 『何よ、それだってあなたが勝手に決めているじゃない!』


 そう言いたいのに。

 この胸の苦しさは同時に、とてつもない喜びを自分に与えてくるのだ。

 溢れてきそうな、込み上げる思いをこぼさないために。

 沙十美は強く唇を噛みしめる。

 代わりに沙十美の瞳からは、次々と小さな雫がこぼれ落ちていく。

 隣まで来た男は何を言うでなく、ただ目の前の海を見つめている。

 何も話さない。

 ただそばにいて、寄せては返す波を見ている。


 こうやっていつも彼は隣にいた。

 ずっと居てくれたのだ。

 自分は、決して孤独ひとりではなかったのだ。


「風が強くて煙草が吸えん。……帰るぞ」


 それだけ告げ室は歩き出す。

 その言葉に沙十美は手のひらで涙を拭うと、後を追いかける。

 そしてそのまま手を伸ばし、前を歩く男のサマーニットの裾をそっと掴んだ。

 その行動に彼はほんのわずか動きを止めたが、何も言わずに再び歩き出す。


 行きよりもゆっくりとした歩調は、サンダルに入った砂のせいにしてしまおう。

 浮かんでくる笑みは、夜の海が綺麗だったからにしておこう。

 沙十美はそう思いながら前の男の背中を見つめる。


 短いような、長いような道のり。

 それを二人はただ静かに歩き続けた。

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