第250話 波の音と泡はいつ消えるのか その3

 空はすっかり暗くなっている。

 その暗さを映し出したような瞳で、沙十美は空を見あげた。


(どれくらいの時間が過ぎたのだろう?) 


 ここにずっといても何の解決にもならない。

 分かっているのに、それでも沙十美は動けない。

 ただ途絶えることの無い波の音を聞きながら、しゃがみ込んでしまっている。


 室の迎えを期待しているわけではない。

 仮に彼がそうしたとしても、きっと今の沙十美は酷い言葉を投げつけてしまう。

 だから来ないでほしいのだ。


「だって来てもらっても……」


 波の音とは違う、別の音が沙十美の耳に届く。

 それがこちらに近づいて来るのがわかっていても彼女は動けない。

 見上げるまでもなく、視界に入るのは自分の宿主の足先。

 互いに何も言わず、しばしの時が流れる。

 傷つける言葉しか出すことの出来ない、今の状態で沙十美は口を開く勇気はない。

 その相手はといえば、どうしたことか沙十美の後ろへとまわりこんでいるようだ。


 次の瞬間、体が浮かび上がる。

 沙十美は自分に起こっていることが理解出来ない。

 室が後ろからすくい上げる様に自分を抱きかかえていた。


「な、なん、……で?」


 そんな間抜けな言葉しか出せない沙十美と目を合わせることもなく、室はそのまま歩み続ける。

 羞恥心やいつもにはありえない顔の距離の近さに、沙十美は子供のように暴れてしまう。


「ちょっと! おっ、下ろしなさいよっ」


 その要望は、この発言のわずか数秒後に叶えられることとなった。

 突然、沙十美の背中と足に回されていた室の腕の感覚が消える。

 驚く間もなく彼女の体は重力に従い下へと落ちていく。

 ほどなく水の音が響き渡る。

 室はテラスにある露天風呂に沙十美を放り込んだのだ。

 お湯が張られていたとはいえ、打ったお尻が痛む。

 なにより服を着たままで浴槽に投げ入れられたという事実に、沙十美は怒りを超えてただ混乱しながら叫ぶ。


「何なのよ! 一体!」


 そんな声に怯むこともなく、室は沙十美を見下ろしている。


「悪いな、手がすべった」

「す、すべったって! 明らかに、あんたは私を投げ入れたじゃない」

「ずっとあんなところで座っているよりは、まだマシかと思ったからな」


 相手のまさかと思える行動が続き、頭が真っ白になっていたこともある。

 おかげで先程まで沙十美の心を支配していたネガティブな考えが消え失せていた。

 入れ替わるように空いた心の部分に、相手への気持ちと言葉が新たに生まれてくる。


「……ごめんなさい」


 後ろめたさもあり顔を見ることが出来ない。

 だがこれだけは、沙十美は言っておきたかった。


「そう思うのなら、……そうだな。五分程そこで頭を冷やせ。その後に大人しく着替えて戻ってこい」


 室はそう告げると、部屋へと戻る扉の隣にあるもう一つの扉へと向かっていく。

 その扉は内風呂へと繋がっている。

 室自身も沙十美を露天風呂へ落とした際に、水しぶきをかなり浴びている。

 彼が着替える間の五分はここで待てということなのだろう。

 そう理解した沙十美は湯船から上がると、テラスに設置されたロッキングチェアに腰掛けた。


 夏という季節だ。

 夜とはいえ、濡れた体でも寒さを感じることはない。

 そもそも沙十美に風邪を引くということはありえないのだが。


 扉が開く音に振り返れば、着替えを終えた室が顔を出している。

 では、自分も戻ることにしよう。

 水によって重く絡みついた服にそっと触れながら、沙十美は足を進める。

 内風呂へと戻り目を閉じて集中する。

 沙十美の服は念によって作られたもの。

 彼女が必要ないと判断した為、肌に張り付いていた感触は次第に失われやがて消える。

 着ていたのが買ってもらった服ではなく、いつもの黒のワンピースでよかった。

 せっかくもらった服を濡らしてしまうのはさすがに申し訳ない。

 それらを沙十美は考えつつ、気持ちをしっかりと切り替えようと熱めのシャワーを浴び心を落ち着かせていく。


 一息ついたところで脱衣所に設置されているクローゼットへと向かう。

 もう一度いつもの黒のワンピースを出すこともできる。

 だが今は旅館の浴衣を借りよう。

 そして部屋に戻ったら、あの少し明るめの紫のワンピースに着替え直して、改めて室に謝ろう。

 今の自分はそこまで素直になれている。

 今ならちゃんと顔を見て謝れ……。


「……ない!」


 クローゼットの扉を開けた沙十美の考えはそこで止まる。

 昨日までここにあったはずの浴衣がない。

 代わりに置いてあったのはあまりにも予想外のもの。

 鮮やかな、目を奪わずにはいられない輝かんばかりの黄色。

 見間違えるはずもない。

 ブティックで見たあの黄色のワンピースがそこには綺麗に畳まれ置いてあるではないか。


「嘘、何で?」

 

 幻ではないかと思わず持ち上げてみれば、ふわりとした素材の感触を手に伝えてくる。

 脱衣所の中を確認しても、着ることの出来る服はこれ一枚しかないようだ。

 

 いずれにしてもここでいつまでも呆然としているわけにはいかない。

 沙十美は両手で抱えていたワンピースを掲げてみる。

 裾がふわりと揺れ、まるでくすぐるかのように動く。

 それに触発されたように彼女には笑いがこみあげてくる。

 同時にこれまでの様々な行動の理由が結びつく。


「なるほど、だから室は『大人しく着替えて戻って来い』なんて言ったのね」


 ならば自分はそうするべきだ。

 そっと服を一撫でしてから袖を通していく。

 鏡の前に立ち見つめる自分は、親友のような柔らかい顔をしている。

 ウエストリボンをそっと大きめに結んでからくるりと回ってみた。

 動きに合わせて踊るように揺れるリボンを眺め沙十美は笑う。

 そうしてから両頬に手を当て顔を真顔に戻すと脱衣所から出て行く。

 

 部屋では相変わらずソファーに座り室は読書をしている。

 沙十美はその前に立ち、見上げてくる男に告げる。


「新しい服に着替えたんだから海に散歩に行くの。その、……夜は危ないから、一人で行かせるなんてしないわよね?」


 沙十美の言葉に返事をすることもなく、室は本を閉じて傍らに置く。

 そのまま静かに立ち上がり部屋の鍵を手に取ると、沙十美の横を通り部屋を出て行こうとする。

 その後ろ姿を見て思わず彼女は呟いた。


「……素直じゃない」


 だが、もっと素直でないのは自分の方だ。

 彼の行動に嬉しさを感じながらもその気持ちを口に出せないまま、沙十美は後を追いかけていくのだった。

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