第249話 波の音と泡はいつ消えるのか その2
「……仕事が中止になった。しばらくある場所に滞在することになる」
室のそれからの行動は、すべて沙十美の想定を超えるものだった。
驚く自分など全く気にすることもなく、室は車を一時間ほど走らせる。
そうして着いたのが海が見える旅館だった。
しかもただの旅館ではない。
通された部屋はとてつもなく広く、海が一望できる部屋。
テラスには露天風呂まであるではないか。
目を見開き呆然としている沙十美に、室は淡々と語る。
「部屋は壊されて使えない、仕事も現状において保留。次の拠点となる部屋が見つかるまで、ここに滞在する」
ソファーに座った室は、外の景色をちらりと眺めると言葉を続けた。
「いつも通りにしていればいい。ただ場所が変わっただけだ」
それだけを語り、彼は持参した本を読み始める。
現に彼はここに来てからは出掛ける様子もなく、拠点にいた時と同様に相も変わらず本をただ読み耽っていた。
だから、沙十美もそうすることにした。
彼がこの部屋で定位置とした一人掛けのソファーは、形や色こそ違えど座っている主が同じなのだ。
いつものようにそっと背面にもたれかかれば、以前より硬めでしっかりとした感触。
目を閉じてまぶたの中に広がる淡い暗闇に沙十美は浸る。
そうすれば確かにいつもと同じ、彼が本という世界へ入り込んでいるのを伝える音が聞こえてくる。
それに重なるように小さく窓の方から聞こえてくるのは、絶え間ない波の音。
これは、ちっともいつも通りではない。
それなのに心は柔らかくなり、小さな笑顔が生まれていく。
だから沙十美は波の音を『いつも通り』に追加することにして、この時間と場所を大切なものにすると決めた。
それからはとても穏やかな時間が流れていく。
室の言う通り新たな『いつも通り』をしばらくの間、過ごすことが出来ていたのだ。
それが変わったのが昨日のこと。
少女のために行われた『七夕』の計画。
この出来事により、沙十美の心は揺らいでしまっていた。
つぐみの成長を感じ、彼女の周りに大切な人がたくさん出来ているのを知った。
小さなさとみもつぐみと共に過ごすと決めたようだ。
これからもあの二人は、楽しく皆との生活を続けていくのだろう。
そうやって彼女達の幸せを感じると同時に生まれてくるのは、今までになかった感情。
……では自分はどうなのだ。
死という形で体を失い、家族とも友人とも会うことが出来ない、許されない存在。
沢山の人に囲まれ愛されながら生きていくあの子達と違い、室という宿主によってかろうじて生かされている自分。
いや、『生きている』という言葉すら使うのもおこがましい。
自分は、……
その思いが。
実に女々しく愚かな考えがぐるぐると頭の中を巡り、それが絶えるのことの無いため息として口から零れていく。
こんなことを思っても何も変わらないし、惨めになっていく。
十分それは理解しているというのに。
いつか室から拒絶されれば、孤独どころか消えるのだろうか。
以前に抱いた良くない考えまでもが胸によぎる。
こんなことではいけない。
気分を落ち着けようと沙十美はふらりと立ち上がり、テラスへと向かう。
ただ波の音を聞こう。
そうすれば何も考えないでいられるだろうから。
その思いにすがり、テラスの手すりにもたれかかるように体を預ける。
空にあった太陽は、ゆっくりとオレンジの光を放ちながら海に帰ろうとしていた。
海に溶けゆく光と生まれては消える白い波。
どれくらいの間、それをみていただろう。
コトリ、と小さな音が沙十美の隣から聞こえた。
誘われるように目を向ければ、手すりの上にコップに注がれたサイダーが置かれている。
透明な液体の中を小さな泡が表面へと駆け上がっては消えていく。
運んできた男は自分の隣で、何をするでもなくただそこにいる。
「ねぇ、こういう時はお酒なんじゃないの?」
沙十美はコップを手に取ると一口のむ。
喉を通る炭酸の感覚が心地よい。
「未成年に酒はあり得ない」
前を見据えたまま呟く声に。
何も悪くない、むしろ親切でここに来た男にかけたのは、感謝ではなくひどい言葉だった。
「もう私は年も取れない、生きてもいない。そんな存在に未成年も何も、……ないじゃない」
明らかに間違えている言葉だと分かっているのに、沙十美には止められない。
「新しい世界を広げて仲間が増えていくあの子達と違って、家族にも友達にも二度と会えない。こんな私は一体、何のためにいるのよ! どうして私は一人なの!」
もちろん、分かってはいるのだ。
これは自分が望んだ結末。
つぐみを守るという、その
自らが願い、そうしてここにいるというのに。
そして隣りにいる男が、ぶつけられるべき言葉ではないということも理解しているはずなのに。
「……違うの、こんなこと言いたくないの。私はつぐみもあの子も大好き。とても大切なの。幸せになってほしいのっ……!」
苦しい。
コップの中の炭酸の泡のように、いっそ消えてしまえれば楽になれるだろうに。
「私が望んだからここにいる。それなのに私は苦しいと思ってしまう。あの子達と違い、自分が一人だということに気づいてしまう」
己の体を両手で強く抱きながらうつむき、ただ醜い心の内を
「自分で決めたこと。なのに私自身がそれを否定する。こんなのおかしいのに。こんな、こんなふうだから私は……!」
唐突にブティックでみた黄色のワンピースが頭に浮かぶ。
光り輝くような明るい、まるで自分と正反対の服。
「だからきっと私には、……似合わないんだ」
下を向いた沙十美の視界の端に映る彼の手がぴくりと動く。
今の言葉で彼の限界が来たのだろう。
何を言うでもなく室は沙十美から離れていく。
彼が部屋へと戻る際の、扉が無機質に閉まる音。
まるで室から自分への一連の行動の返事のように、それは重く沙十美の心に響いた。
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