第252話 波の音と泡はいつ消えるのか その5
意識を緩やかに戻し、沙十美は主が眠っているのを確認する。
彼の体から出ると、クローゼットへと向かう。
そうして黄色のワンピースを取り出し着替えていく。
静かにテラスへと足を進め、手すりにもたれかかり空を見上げた。
暗さに目が慣れてくるにつれ空に一つ、また一つと星が増えていく。
すぅっと息を吸い、夜の空気を体に取り入れた沙十美は星を見ながら話しかける。
「いるんでしょう? ……観測者」
波の音が、代わりにといわんばかりに返事をしてくれる。
かまわず沙十美は、言葉を続けていく。
「室は確かに頭が回る。だけどあいつってば、女心とかちっとも分かってないのよ。事前にあのワンピースを準備したり、ここの旅館を手配する。そんなことが出来る男ではないわ。そういった意味で、私が疑わないような理由や口裏を合わせておかないなんて、あなたも詰めが甘いわね」
沙十美の言葉の少し後に響いたのは、実に楽しげな笑い声。
「おやおや、あなたも冬野さん並の観察眼ですねぇ。これは楽しくなってきた」
予想は当たっていた。
それにほっとしながら、沙十美は空に向かってにこりと笑って見せる。
「今後の女心の参考に、教えてもらっていいですか。いつから気づいていたのですか?」
言葉に嬉しさをにじませながら、観測者は尋ねてくる。
「最初に違和感があったのは、ブティックを出てすぐかしら。室はこれから仕事だと言いながら、束ねるはずの髪をそのままにしていた。まずそこでおかしいと思ったの」
「あぁ、なるほど。一度に室さんに話を詰め込み過ぎましたね。時間が無かったとはいえ、まずそこから気になってたのかぁ」
観測者の声を聞きながら、ちらりと後ろを振り返る。
室が起きた様子はない。
「あとはこのワンピースね。店での様子を知らない彼が、どうしてこの服を準備できたのか。それを考えれば、あなたしかいないもの」
「それは落ち込んだあなたを元気づけようとした。だから店員に確認を取り、服を手に入れた。そう考えないのですか?」
その問いかけに、沙十美は小さく首を振る。
「だとしたら早すぎるでしょう? ここからブティックまでは、往復で二時間はかかるもの。私があいつと喧嘩して、お風呂に落とされるまでがせいぜい三十分位だったかしら。とても間に合わないわ」
話をしながら沙十美は相手の言葉に、新たな気付きを得る。
「あなた。最初のあの二着を服を買った時点で、もうこれを買ってあったのでしょう?」
今度は、くすくすという笑い声。
「いやいや、実に大したものだ。冬野さんとのお友達なだけありますね。『類は友を呼ぶ』とは正にこのことですねぇ。あぁ、楽しいや。あなた方を見ていると、本当に飽きないなぁ。……さてと」
満足そうに呟き、観測者は言葉を続ける。
「実に面白い時間と話を頂きました。では、この満足に対応するお礼を……」
「もうそれなら貰ったわよ」
沙十美は相手の言葉を遮る。
「今回のこの滞在の手配、これだけでもこちらが貰いすぎだもの」
「いえいえ、この件に関しては室さんから私に頼まれたものです。今回の費用は、全て室さんが支払っていらっしゃいますし。千堂さんにはまだ何もしていませんから」
「もう! だから貰ってるって言ったでしょう」
沙十美は、空に向けてびしりと指をさした。
「室からの依頼とはいえ、私達のために動いてくれた。私が欲しくても、手が出せなかったこの服を届けてくれた。……な、なによりっ!」
とてつもなく恥ずかしい。
でもこれは今、伝えなければいけない言葉。
「わ、私に寄り添ってくれた。元気づけてくれた。一人と思っていた私に、違うと気づかせてくれた。室だけじゃない。私にはあなたがいるって、……教えてくれた」
少し前の観測者からの言葉。
『落ち込んだあなたを元気づけようとして』
その言葉を、沙十美は胸の中で繰り返す。
室に当てはめていたが、おそらくあれはこの人自身の気持ちではないか。
「最初に黄色のワンピースを見た時の私の表情で、あなたは私がおかしいことに気づいていたのでしょう?」
つぐみと同様に勘の鋭いこの人のことだ。
それで動いてくれたに違いない。
うぬぼれかもしれない。
けれども今、沙十美が観測者に抱いている感謝の気持ちは、間違いなく自分のこの胸から生まれたもの。
ならば、それをくれた相手に伝えるのは当然のことだ。
そう思いながら空をさしている指とは反対に、沙十美の顔は下を向いていく。
今日は顔から火どころか、溶岩でも出てくるのではないかというくらいに熱い。
沙十美の言葉に対しての、観測者からの返事は無い。
呆れて帰ったのだろうか。
不安げに沙十美は顔を上げていく。
「……ねぇ、千堂さん」
先程に比べて低い声。
何か気に入らないことを言ってしまっていたのか。
沙十美は思わず身構えてしまう。
「あなたは、……一人が怖いですか?」
唐突な質問。
どうしてこんなことを聞いてくるのか分からないが、沙十美は素直に答える。
「えぇ、怖いわ」
「例えばですが。室さんがいなくなり、それでもあなたが存在した場合の話です」
あまりしてほしくない、聞きたくなさそうな例え話だ。
「その時はあなた、私のところに来ませんか? 私は室さんと違って、あなたが存在する間にいなくなることは決してありません」
想定外の提案に、沙十美は言葉を失う。
「どうも私は、あなたを気に入ってしまったようなのです。あぁ、もちろん室さんからあなたを奪うつもりはありませんよ。私には時間がたっぷりとあるので、彼からあなたが離れる時までもちろん待てますから」
「ちょ、何を言って……」
動揺を抑えようと、胸に手を当てながら空を見上げる。
「……全くだ。人のいない時にする話では無い」
その沙十美の後ろからは、不機嫌そうな男の声。
振り返るまでもない。
相手はわかっているのだから。
「おっといけない。ちょっと調子に乗ってしまいましたね。そろそろ退散かな? あぁ、そうだ。今日の可愛かった千堂さんを見れたお礼に、冬野さんにアドバイスを差し上げましょう」
「え、つぐみに? 一体なにを……?」
ここにきて急に出てきた親友の名前に、沙十美は言葉に詰まらせる。
「冬野さんにこの言葉を。『年上の女性は怖いですよ』と。……ではお二人共、お休みなさい」
その言葉を最後に、聞こえるのは波の音だけになる。
別に自分が、何か悪いことをした訳ではない。
それなのに、沙十美は何だかとても気まずい思いを抱いてしまう。
先程の声から、間違いなく室は機嫌が悪い。
さらに言えば、彼はあの発言の後は何も沙十美に話しかけてこないのだ。
互いに黙ったまま、時間だけが過ぎていく。
このままいても仕方がない、そう考えた沙十美は意を決して口を開く。
「あっ、あのね! さっきの話はっ!」
振り向いて室を見つめるはずだったのに、肝心の相手は既にいなくなっていた。
ぽかんとした後に、おそるおそる部屋へと戻ってみれば何ということだろう。
室はすでにこちらに背を向け、ベットに入っているではないか。
先程の室の言葉は、幻聴だったのだろうか。
そう思わずにはいられない状況。
だが観測者も反応していた。
これは、間違いなく起こった出来事なのだ。
やりきれない感情を抱え、沙十美は思わず「もう!」と呟く。
そんな小さな独り言も届いているのかいないのか、相手は身じろぎ一つしない。
なんだか自分が一人だけで振り回されている。
そんな悔しさが沙十美を襲う。
何かこの男に、ぎゃふんと言わせることが出来ないだろうか。
そう考えながら近づき、ふとあることを思い立つ。
ちょっとくらいは動揺させられるだろう。
沙十美は背中を向けた室のベットにそっと入り、同じように自分も背中を向け、ぴたりとくっつけてみた。
相手からの反応はない。
ただ互いに触れた部分から、ほんのりと熱が沙十美へと伝わってくる。
以前ヒイラギを起こすために病院へ行った際に、手を掴まれながら歩いた時を沙十美は思い出していく。
あの時の手も、温かかった。
その時と同じ。
いや、その時よりも彼の呼吸の度に小さく触れ合う背中同士が。
規則的な呼吸のリズムが次第に彼女の心をほぐし、それはやがて緩やかに眠りへと誘うものに変わっていく。
まぶたが重い。
本当に色々あったのだ。
だから、このまま眠ってしまってもいいだろう。
そう思い沙十美は、ゆっくりと目を閉じる。
いつもはない、一人ではないぬくもりを感じながら彼女は眠りへと落ちていく。
「お休みなさい」
一日の終わりを告げる挨拶をする。
「……あぁ」
背中にほんの小さな振動と返事が聞こえた。
満足した沙十美は、願いをかけると意識を手放していく。
――いつまでこうしていられるのか分からない。
ならば今のこの瞬間を、この時を。
私は、私達は大切にして過ごしていこう。
いつか、この人と離れる時まで。
でも出来る事ならば。
波の合間の泡のように、すぐに消えることなく。
途切れることのない波のように過ごしていけますように。
――――――――――――――――――――
お読みいただきありがとうございます。
これにてこちらの番外編は完結となります。
次話より新たな章を始めさせていただきます。
第六章は『白日までの進み方』
つぐみが白日に入るために行動を開始いたします。
がんばったな、とは。
長かったな、番外編。
などなど、その辺りの思いとかありましたらコメントなど頂けるととても嬉しく思います。
これからもつぐみたちのことを、よろしくお願い致します!
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