第230話 人出品子は自身を語る
二人だけのしんとした部屋。
つぐみの顔に触れる品子の髪から、シャンプーの香りがふわりとひろがる。
これはシヤの好きなシトラスの香りだ。
品子とシヤが、二人でいろいろなお店を回って見つけてきたと聞いている。
爽やかだけど、少し甘い香り。
そっとつぐみは香りを吸い込んでみる。
一緒に住んでいるのだから、使うシャンプーは同じ物だ。
それなのに鼻をくすぐる今日のこの香りが、まるで知らないもののように感じられる。
誘われるように頭をそっと傾け、品子へと委ねていく。
時間の流れなど忘れて、いつまでもこうしていたくなる。
離れるのが名残惜しくて仕方がない。
どうしたことかそんな気持ちが、次々と生まれてくる。
品子の顔を見たら、この不思議な気持ちに答えが出るだろうか。
そう思い、ちらりと表情を覗き見ようとする。
だが艶やかな黒いカーテンが視界を覆い、ほんの少しだけ品子の横顔が見えるのみだ。
品子は発動のことを話したいと言っていた。
確かに、今まで彼女の媒体や発動名を聞いたことが無い。
漠然とこれではないか、と思い当たるものはある。
だがそれは自分から問うのではなく、本人から聞くもの。
品子自身の口から聞きたいのだと、つぐみはそう願ってきた。
だから待つのだ、品子が自分に話してくれるその時まで。
小さな咳払いの後に、品子は言葉を紡いでいく。
「君も知っての通り、私の発動能力は今のところは主に二つ。一つ目、人の記憶を操る発動。そして二つ目は相手を魅了し、意のままに操る発動」
品子の言葉がそこでぷつりと途切れる。
だがつぐみは何も言わない。
それが次の言葉を発するために、この時間が必要なものだと分かっているから。
かわりに自分の腕に力を込めていく。
――きちんと聞いていますよ。
そう伝えるために。
つぐみからの思いへの返事のように、回された品子の手が優しく背中を撫でる。
互いを思い、反応を返すこの動き。
それはまるで、心地よいやまびこのようだ。
だが同時に思うのは大事な話を聞くのに、やまびこなどとのんきな言葉がどうして出てくるのだろうということ。
考えを巡らせ、すぐさまその疑問の答えが出る。
――あぁ、だからか。
品子に顔が見えないのをいいことに、静かに笑う。
そうだ自分にはもう、話される内容を受け入れる心の準備が出来ているのだ。
それがどんな言葉であろうが、思いであろうが。
すべてを受け入れ、すべてを認めたいと自分は望んでいるのだ。
なぜなら私をこうして抱きしめているこの人は、そうして私を救ってくれたのだから。
そんなつぐみの耳に、ぽつりぽつりと品子の声が届き始める。
「一つ目の発動名、『化かし狐』。そして二つ目の発動名は『
品子はごくりとつばを飲み込み、長く長く息を吐く。
それから小さく息を吸い込み、顔を上に傾けながら声にしていく。
「……狐だ」
◇◇◇◇◇
品子の口から語られた発動の名前と媒体。
思ったのは「やはり」ということのみだった。
するりと腕の力が緩み、つぐみの肩に優しく手が添えられる。
そのままそっと体が離し、正面からつぐみの顔を見つめる品子は、苦しそうに眉根を寄せている。
泣いてしまいそうなその表情に、つぐみはどうしたらいいのかを考える。
今の自分には、掛けられる言葉が浮かばない。
ならば、言葉ではないもので気持ちを伝えることにしよう。
そう答えを出すと、肩に置かれた品子の手にそっと自分の手を重ねた。
緊張の為だろう。
触れたその手はとても冷たい。
目を合わせたままでつぐみは微笑むと、改めて両手で品子のひんやりとした手を取る。
そうしてから包み込むように優しく握っていく。
温もりが、思いが、伝わればいい。
そう願い、自分の頬に品子の手を導いていく。
彼女の感触が自分の頬に、手に。
熱を分けて欲しいと言っているかのように、温度の違いを教えてくる。
「……君は、いつも温かいんだね」
品子はそのまま、つぐみの頬をふわりと撫でる。
いつもの優しい触れ方だ。
嬉しくなったつぐみの口元には、喜びが引き寄せた笑みが浮かぶ。
そんな自分の顔を見て、品子も少しだけ微笑んでくれる。
「今まで君に話すことなく来ていた理由は、実に単純で実に情けないものからさ。私は君に狐という存在を知られてしまうのをひどく恐れていたんだ」
品子はつぐみの頬から手を離し、手のひらを握ると目を閉じる。
「狐というと大体の人間のイメージは、童話や昔話でも出てくるように『狡猾、ずる賢い』という存在なんだよね。組織の中でも心ない言葉をぶつけて来る奴らからは、当然のように言われてきたよ」
寂しさと苦しさの混じった品子からの言葉が、つぐみの胸に飛び込んでくる。
「それでも私はヒイラギ達に比べたら、ましな方なのだろうね。彼らは今までに、どれだけの辛い言葉や思いを受けてきたのだろう。私の知らない場所で、知らない奴らにどれだけの哀しい思いをさせられていたことだろう。それでも彼らはそんなそぶりも見せずに私の傍にいてくれたんだ」
握った品子の拳が小さく震えている。
自身のその震えを気にしてだろうか。
閉じていた目を開き、両手の手のひらを胸の前に掲げ、じっと見つめながら品子は言葉を続けていく。
「あの子達も君も本当に強いんだ。きっと君は媒体を知ったところで私を受け入れて、負の感情を抱くことはない。もちろんそれも分かってはいるんだ。そう思わないと理解はしていても、やはり怖かったんだ」
その気持ちはつぐみにもわかる。
受け入れてもらえないかもしれないという不安。
誰しもが抱えるであろう、拒絶に対する恐れ。
それが、その相手が近しい人であるほどその時の絶望は、深く重いものだ。
つぐみはそれを知っている。
『家族』という相手で、自分はそれを知らされたのだから。
「先生、私はどうでしたか? 私に伝えて、今も怖いですか?」
つぐみの問いに、品子は小さく笑う。
「そうだね、まだ少し怖いよ。でも話せて良かったと思っている自分がいるんだ。隠し事をしている。そんな後ろめたさを、ずっと心の隅に抱えたまま私は君と接していた。それが今、ようやく解放されたからね。怖がり、恐れる私はまだ弱いままだ。……それでも」
ふぅ、と小さく品子が息を吐くのが聞こえる。
「その弱い自分を知ってもらいたい。そう思えるまでに自分自身が『成長』したのだと捉えているよ。こうして君に出会えたこと。二人で一緒にいられること。今日という日を共に過ごし、沢山の出来事を経験できたこと」
品子が浮かべたのは困り顔。
けれども口元には、緩やかな弧を描きつぐみを見つめている。
黙って見つめ返すつぐみをもう一度、品子は抱きしめた。
そうしてつぐみの耳元で、そっとある言葉を囁く。
その言葉につぐみは大泣きをし、まぶたを腫らしながらリビングにいる皆の元へと戻る事となる。
大切な人から贈られた、愛おしい言葉。
つぐみはきっとこの言葉を忘れない。
『私を知ってくれてありがとう。君と共に過ごし、今この時間を心に残せる私は、とても幸せです』
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