第217話 忘れたくないコト

「じゃあ、……惟之。クッキーちょうだい」


 そう品子は惟之へと呼びかけてみる。

 

『ただの靭惟之』

 それは先輩や男女といった区切りなく、品子と惟之は対等な立場であり、互いにそこに在るのだと言いたいのではないかと品子は結論を出したのだ。

 答えが正しかったのかを確認すべく、惟之へと視線を向けていく。


 惟之はおもむろに立ち上がると、自身のポケットの中を探り出す。

 そうして先程から手に持っていたクッキーと一緒に、ポケットの中にあった小さな紙袋を品子に押し付けるようにぐいぐいと手渡してきた。

 不思議そうに眺める品子に対し、彼は面映おもはゆい様子でただ見るだけで何も言わない。


 つまりは、この紙袋を開けろということだろう。

 そう品子は理解し、袋を開ける。

 中にはなんの装飾もない、シンプルなピンク色のヘアゴムが一つ。

 思わず彼を見上げれば驚いたことに、彼の顔は真っ赤だ。

 おそらくこのヘアゴムですら買うのに、この人は相当な勇気を必要としたのだろう。


「みっ、……土産みやげは二つ持ってくるって、約束していたからな」


 ぼそぼそと話すその様子は、先程までしっかり自分に話していた人とは別人のようだ。

 目も合わせてくれない彼の態度は、品子の口元にここ数日、おとずれることのなかった動きを促してくれる。

 

「……ぶっ。ぐぐっ。」


 笑ってはいけない。

 品子もそれは十分に理解してはいるのだ。


 だがあの顔や、律儀に持ってきた二つの手土産。

 おそらくその二つも今と同じように、赤面して買ってきたのだろう。

 そう思わせる手のひらに収まっているこの小さな手土産達。

 これらを見ていたら、とてもこらえきれるものではない。

 

「無理……。もう無理だっ。あはははっ!」


 体をよじらせながら、品子は笑いこける。

 こんなに笑ったのはいつ以来だろうか。

 笑いだけでなく涙までもが止まらない。


「あははっ、もう苦しくて死んじゃう! 息がっ! んふふ」

「……そこまで笑うか、普通」


 品子の耳には呆れたような、困ったような惟之の声が聞こえる。


「だって、だって! こんなに困った顔したせんぱ……、いえいえ。惟之を見るのって、なかなか無いからっ!」


 涙を拭おうと、品子は人差し指でそっと目尻に触れる。

 執拗に痛めつけられた為に、動かすだけでヒリヒリと痛む指。

 もちろん今もそれは続いている。

 それを品子は、受け入れながらゆっくりと動かしていく。

 目を閉じると、まぶたの上からそっとなぞるように指をすべらせる。


 指を潤しているこの涙は、昨日までたくさん流していたものとは全く違うもの。

 それが自分でもわかるのが、とても嬉しくて。

 同じ場所から出てきたのに、どうしてこうも違うのだろう。

 そんなふうにまで考えられるようになった、自分がすべきことは。


 さぁ、やることはわかってるよね? 人出品子。

 踏み出そう。

 今から。


 品子の耳に今度はノックが聞こえる。

 振り返り見えたのは、お茶を持って部屋に入ってくる母の姿。

 もう一度、涙を拭うと品子は彼女に向かい声を掛ける。


「お母さん、今日ってさ。午後からも天気は良いのかな? そうだったら私、散歩に行こうかな」


 その言葉を聞きながら品子の母は、静かにお茶を乗せた盆をテーブルに置く。

 次の瞬間には品子へと早足で歩みよると、そのまま飛び込むように抱き着いてくる。


「ちょ、お母さん。痛い痛い。傷がっ! 私、今どこもかしこも痛いんだけど!」

「あああっ! 品子ちゃん! 品子ちゃんがぁっ! こーちゃん! 何が起こったの? 何で品子ちゃんっ! うえええーん!」


 いい大人が、号泣を娘の前で見せている。


「お母さん、こんな姿を他の所属の人が見たらさぞ驚くだ……。まぁ、もともとこうだって、上の人達には知られているか」


 だが自宅だからいいものの、下級の人達に見られたらさすがにまずい。

 我が母親ながら、これでよく上層部に居られるものだ。

 ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、そう品子は考える。


「そうだわっ! お散歩なら、私も一緒に行くわよ! そうそう小宮山こみやまも連れて行きましょう! こーちゃん! こーちゃんも一緒よ! もうそのままどこかに、四人でお茶にでもいっちゃいましょう! うん! もう、それしかないわっ!」


 信じられない程に興奮した母親を眺め、品子はどうしたらいいかわからず呆然としてしまう。

 

「すみません。俺はそろそろ戻らないといけないので。今日はこれで失礼します」


 その声で隣にいる存在を、ようやく思い出す。

 横を見れば苦笑ぎみに自分を見ている、惟之の姿。

 同じような表情で品子も笑い返す。

 自然にできたその行動に嬉しい気持ちを抱え、そっと品子は目を閉じ思うのだ。

 よかった、自分は前に進めている。

 母の泣き声を聞きながら品子は……。

  


◇◇◇◇◇


 

 聞こえてくるのは。

 品子の耳に聞こえてくるのはヒューヒューという呼吸音。

 そしてその音を出しているのは、ほかならぬ自分自身。

 頬に当たるのは床の固い感触。


「あ、私は……?」


 次第に品子は思い出していく。

 ここは一条の応接室。

 自分は発動を暴走させ、まだ意識を失うことなくここにいるのだ。


「……苦しいな」


 里希がこの部屋を出て行ってから、どれくらい経ったのだろうか。

 品子はそのまま仰向けの体勢になり、手を上にかざす。

 体の震えは、相変わらず続いている。

 やはり髪を結ぶのは、しばらく無理だ。


 ある程度の落ち着きを取り戻し、上半身を起こし周りを見渡す。

 少し離れたところにぽつんと落ちている、ピンク色のヘアゴム。

 そちらにむかいにじりよると、そっと手に取り眺める。

 このヘアゴムは、さすがにあの時に惟之に貰ったものではない。

 でもなぜだかあれ以来、似た色や形の物を選ぶようになってしまった。

 手のひらのピンク色の輪をそっと指でつつく。


 心を落ち着けよう、こわばった指をほぐそう。

 そう考え、震える手を握っては広げという行動を繰り返していく。

 その度にぴょこりぴょこりと、ピンク色の小さな丸い線は姿を現す。


 こちらを覗き込むかのように表れるその様子に。

 品子の頭には、白いワンピースの少女が浮かんでくる。

 いつも品子の名を呼びながら、ぴょこりと見上げてくる可愛い子。

 その隣には、彼女を優しく見守り微笑む女の子。

 あぁ、あの子達のところへ……。


「……そうだ。私は彼女達の所に帰るんだ。あの子達と一緒に居たい。そばにいて、いっぱい笑って、いっぱい抱きしめて、それからそれから……!」


 品子の心に蘇るのは、清乃からの言葉。

 

『お前はもっと視野を広げ、正しく動けるようになれ。お前がその子にとって、大人として傍にいてやりたいと思うのならばな』


 正しく動くためには、視野を広げるためには。

 祈るように両手を組み、品子は目を閉じる。

 握りしめた手の中のヘアゴムは自分の力を受け、ゆるりと形を変えていく。

 何をすべきか、自分なりの答えは出た。

 あとは、それをきちんと行うだけ。

 手のひらにのった小さなピンクの円を見つめ、品子は口を開く。 


「さあ、けじめをつけるとしよう」

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