第216話 忘れたいコト その5
「無理矢理に笑って楽しいか? 偽物の自分を作って楽しいのか? なぁ、品子」
惟之の言葉で、品子は我に返る。
……そうだった。
彼が見舞いに来て、話をしていたのだ。
正面に座る惟之を、品子は見つめる。
この人は見舞いに来たと言いながら、ひどい言葉を品子へとぶつけてくるのだ。
それと同時に分かるのは、思い知るのは。
惟之は言葉の意味を知り、自分の目の前にいるという事実。
自らに降り掛かった理不尽な災難をはねのけ、こうして今、彼は自分を見据えている。
だが品子は、この人のように強くはない。
彼のように立ち上がる力など、持ち合わせていないのだ。
それなのに惟之は、自分が出来たからと。
お前にも出来るだろうと、それを品子にさせようとしてくるのだ。
こみ上げる怒りを抑え、品子は口を開く。
「先輩には分かりませんよ。何でも出来る人はそれが当たり前なのかもしれません。ですが出来ない人間にとって、その言葉は苦痛になる。心を傷つけるものなのだと、あなたは知るべきではないのですか?」
未熟者だという自己紹介。
それを自覚ながらも、品子は次第に語気を強めていく。
だが惟之は、動じることなく言葉を続けるのだ。
「人を傷つけないように優しく。それは裏返せば相手を本当に救わないという、薄情で残酷ということではないのか? それがそいつの為になるとでも?」
彼の言葉は品子の心を、ざくざくと真っ直ぐに切っていく。
分かっているのだ、ここにいる皆は優しい。
だから品子が望めば、ずっとここで自分を守り、寄り添っていてくれる。
品子が外に出るという決断をしない限り、ずっとここにいられるということを。
だがそれは品子が、自分自身を小さく。
まるで爪で自分の心を抉っているのと同じ。
少しずつ、すこしずつ。
それは品子の心をあるべきではない
もちろん皆も、自分もそれは分かっている。
――それが間違いだということも。
「だから何なのです! それが先輩に、どう関係しているというのですか? 私がずっとここに居たら、先輩に何か迷惑が掛かるとでも?」
それでも品子は、惟之へ棘のある言葉をぶつけるのを止められない。
今の自分の言葉に全く意味など無く、ただ惟之の追及から逃れたいだけ。
品子もそんなことは、十分に理解しているのだ。
同時にこんなその場しのぎの行動など、全くこの人には響かないということも。
「確かに俺自身に、迷惑が掛かるといった訳ではない。だがな、今の偽物のお前はいずれ本物のお前を喰らい、殺してしまうだろうよ。俺はそれが気に入らないんでね」
ゆっくりと、惟之はサングラスを外す。
「俺を見ろ、人出品子。そしてこれからのお前を俺に見せろ。これから先、どれだけお前が醜かろうが、みっともなかろうが。俺は絶対に目をそらさずに見ている」
自分にとっては何ともない、この部屋に入ってくる日の光。
だがサングラスの無い彼にとっては、かなりの痛みを伴うものだ。
それでもこの人は瞬きすらせずに、まるで時が止まったかのように品子を見つめてくる。
やはりこの人は強い。
……そしてひどい人だ。
品子はそう思いながら言葉を続ける。
「私は先輩ではありません。あなたのように強くなれません。そんなひどいことを言える先輩なんて、……嫌いです」
逃げの言葉を。
拒絶の言葉を吐き続ける品子に、動ずることなく彼は続ける。
「あぁ、いいさ。お前に好かれない。嫌われて結構。でも俺はお前のそばにいる」
拒絶をも恐れない言葉。
自分が吐いたものとは大違いの、強く、深い言葉。
「人生はそれぞれ、その人にしか出来ないし代わってやれない。だがお前の見えるところで、立っていることは出来る。品子、お前は一人じゃない」
これでは。
こんなことを言われたら。
そんなふうに、真っ直ぐな言葉をぶつけてこられたら……。
ボロボロと音を立てて、自分の心で作っていた壁が崩れてしまう。
隠すかのように胸を押さえるも、心の奥深くからこみあげる感情を、品子はもう止められない。
そうしてあらわになった思いが、心が。
品子の口から、ぽろりと。
……おちた。
「私は、……私は男の人が怖いです。だから男の人である先輩も、……こっ、怖いの、です」
ずっと隠したままでいるはずの思いを。
話してしまった。
どうしようどうしよう。
嫌われる。
皆からも先輩からも。
こいつはだめだと思われる。
でも話してしまった。
聞かれてしまった。
お願い。軽蔑しないで、嫌わないで。
品子がそう願い、すがるように見上げたその先。
惟之は先程と変わらず、真っ直ぐに品子を見据えたまま口を開く。
「……そうか。ならば男とか女とかではなく、俺はそばにいよう。今日からお前にとって俺は『ただの靭惟之』だ」
品子の怯えなど関係ないとばかりに、彼はおかしな提案をして来る。
何を言っているのだ、この人は。
品子もそうは思うのだ。
けれども彼の目は、表情は。
それが本気で言っていること、冗談ではないことをまっすぐに伝えてくるのだ。
「男が怖いなら、俺はそうすればいいんじゃないか? お前が女を辞めるとかなら、別かもしれないが……」
当人は、自分の言葉に戸惑っているような。
でも言った以上はそうしていこうという態度で、品子の心にぶつかってくるのだ。
柔らかいのだか、固いのだか分からない、実に彼らしい考え方。
それに触発され、脆く崩れた壁の向こうから。
その壁を乗り越え、覗き込んでいた品子の心に、よく分からないむずむずとした感情があふれ出してくる。
「……くっ」
品子はうつむき、肩を震わせていく。
そんな様子に惟之から、戸惑いを含んだ声が聞こえてくる。
「おい、品子? どうし……」
「……くくっ、くくくっ! あはははっ!」
一生懸命なのにとんちんかん。
そんなこの人の思いが嬉しくて、おかしくて、たまらなくて。
品子の口からは絶えることなく、笑い声があふれていく。
あぁ、でも彼の提案はいいかもしれない。
自分が立ち上がる、前に進むきっかけにできるのではないだろうか。
ならば取りあえずやってみよう。
品子は惟之へと手を差し出していく。
「先輩、そのクッキー下さいよ」
品子の発言に、惟之はきょとんとしている。
「おや、くれないのですか? さっきはくれたではないですか」
「いや、欲しいならやるが。お前のその口調は、一体どうしたんだ?」
「いえね、考えたんですよ。さっき先輩は言ったじゃないですか。『女を辞めるとかなら』って。今、私が前に進む一つのリハビリといいますか。自分が女を意識しすぎるから、怖いという感情が出てくるのかもって」
品子はソファーから立ち上がると、惟之へ再び手を伸ばした。
「だから、まずは口調から女を辞めてみたらどうかなって。これも先輩からしたら、『偽物』になりますか?」
品子の言葉に、惟之は考え込む仕草を見せる。
やがてにやりと笑うと、缶の中からクッキーを一つ取り出した。
彼は品子へと、それを見せながら口を開く。
「そうだな、それは悪くない。だが少し足りないな」
「足りない、ですか?」
戸惑う品子へと、惟之はにやりと笑いかけてくる。
「俺は『ただの靭惟之』だ。ならばお前の先輩でも無い。なら呼び方が違うぞ」
「呼び方……」
「先輩」はどうやら違うらしい。
そうなると、どう呼べばいいのだろう。
品子はしばし考え、出て来た呼び方を口にしてみる。
「じゃあ、……惟之。クッキーちょうだい」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます