第211話 靭惟之は土産を渡す
翌日、再び惟之は人出家へと向かった。
昨日の反省を踏まえて、惟之の右手には紙袋が握られている。
この辺りで、一番美味しいと評判の洋菓子屋のものだ。
店員に勧められるままに惟之が買ったのは、チョコレートのクッキーだ。
十五センチほどの筒形の缶に、カラフルなラッピングが施されている。
缶にくるりとまかれているピンク色のリボンのこの菓子を注文する時、惟之としては少々、いやかなり恥ずかしくはあった。
別に食べるのは自分ではない。
あくまでこれは、頼まれた土産なのだ。
そう何度も自分に言い聞かせ、二つ注文する。
外から見えないように。
紙袋に入れてもらうように惟之は強く希望する。
惟之としてはこれだけ恥ずかしい思いもしたのだ。
店員からもこの商品が、一番人気だと聞いている。
気に入らないなんてことはないはずだ。
これなら品子も、文句はないだろう。
しかし、これは箱の大きさに比べとても軽いものだ。
ちらりと惟之は視線を落とす。
そこには品子に渡すべき手土産が、自分の手に軽量感を。
そして同時にこの後どうなるかという重い不安を、駆り立ててくるのだ。
昨日見た、そしてかつては嫌という程に見てきたもの。
それに自分は、ケリをつける必要がある。
これは自分の為でもあり、品子の為でもあるのだ。
――おそらく清乃が自分を呼んだ意図も、そこに在るのだろう。
昨日の時点で、半ば強制で約束させられていた手土産を二つ。
それらをこの家に入る許可証のごとく、惟之は改めて強く握り締める。
ポケットに入れていた左手を出し、玄関の呼び鈴を押す。
昨日と同じ女性の職員が自分を出迎える。
引き続き訪れて来た惟之の顔を見て、職員は眼鏡越しに優し気な眼差しを自分へと向けてきた。
「靭様。お疲れ様です」
惟之に声を掛けながら、その人は穏やかに微笑む。
彼女のショートカットの髪が、風を受けさらりと揺れるのを眺めながら、並んで家に入る。
胸元の名札をちらりとみて、惟之も返事をする。
「
「品子様は……。昨日と同じ、応接室に居られます。今は清乃様もご一緒です」
「分かりました。案内は不要ですので、どうぞそのまま業務にお戻りください」
「承知しました。どうか、品子様をよろしくお願いします」
自分に一礼をして、去っていく小宮山の後ろ姿を惟之は眺める。
お願いします、か。
果たして自分に一体、どこまで出来るのだろう。
じわりと背中を、寒気のようなものが通り過ぎる。
動揺や不安がそうさせるのだろうか。
その考えを否定するように惟之は頭を振る。
今、その答えを出す必要はないだろう。
昨日と同様に、応接室の前で深呼吸を繰り返す。
惟之は左手を上げ、ノックをして部屋の中からの返事を待つ。
「入れ」
清乃の返事を聞き、惟之は扉を開く。
部屋の中の二人が、こちらを見つめている。
テーブルの上には昨日、自分がこの部屋に入った時と全く変わらずお茶の入ったガラスのコップが二つ置いてあるのみ。
今日もチョコレートは、ない。
「ご期待に添えるかは分かりませんが、手土産を持ってきました。二つと言ったので、二個ちゃんと買ってきましたよ」
そう言って惟之は、右手に持った紙袋を掲げる。
薄く笑った品子が立ち上がろうとするのを、清乃が制した。
そのまま清乃は立ち上がると、惟之の元に向かってくる。
清乃の目にあるものは、……焦燥やもどかしさだろうか。
果たしてそれは、自身に対してなのか。
それとも『もう一人』の人物が、成しているものなのか。
そう考える惟之から清乃は紙袋を受け取り、二つある内の一つを取り出す。
「毒見をしておいてやるよ。話でもしていてくれ」
清乃は紙袋を惟之に返しがてら肩を軽く叩き、部屋から出て行く。
彼女なりの応援といったところか。
どこまで希望に添えるかは分からない。
だが、この菓子の一缶分の成果は出しておきたいものだ。
惟之はそう思いながら扉が閉まるのを見届け、振り返る。
そこでソファーに座ったまま、自分を見ている品子と目が合った。
「立っていないで、座ってくださいよ」
穏やかな口調で促されるままに、惟之は彼女の正面に座る。
紙袋から残った一缶を取り出すと、テーブルの上に置く。
「見舞いの、土産だ」
「……言葉そのままですね。先輩らしいです」
惟之の言葉に小さく笑い、品子はその缶をただ見つめるだけだ。
「すみません。私、ご飯を食べたばかりなんです。ですから後でいただきますね」
「そうか、俺は今から食べたいんだ。ここで開けるがいいか?」
「もちろんいいですよ。あら? だったら飲み物が要りますね」
席を立とうとする品子を、今度は惟之が制する。
「いや。もう少ししたら、誰かが届けに来てくれるだろうさ。まぁ、話でもしようじゃないか」
缶をこつりとこぶしで軽く叩き、惟之は施されていたリボンや包装紙を外していく。
その言葉に、品子は
「先輩? 何を考えているのですか?」
「何をって、クッキーを食いたい。それだけだが?」
惟之は話をしながら、缶の中からクッキーを取り出す。
缶の中には個包装のチョコクッキーが全部で五つ入っていた。
これだけならば、確かに軽いな。
妙な納得をして、惟之はそのうちの一つを開封する。
開けた途端に広がるカカオの香りを感じながら、口の中へと放り込む。
柔らかめのクッキーは、噛まずともほろほろと惟之の口の中で溶けていく。
――確かに、美味い。
二度目の妙な納得をした惟之は、品子と再び目を合わせる。
先程からの表情を変えることなく、彼女は自分を見続けていた。
「何だ? 俺の顔ばかり見て。何か言いたいことでもあるのか?」
惟之は缶の中からクッキーを一つ取り出すと、そのまま品子にクッキーを差し出してみる。
その行動に、彼女はビクリと体を震わせた。
明らかに自分に。
『男性』に対して怯えを抱いている。
品子は真っ青な顔で、自分を見たあとに顔を伏せる。
そうして小さく「ごめんなさい」と惟之へと謝ってくるのだ。
「なぜ謝るんだ? 別に、お前は何もしていない」
「いえ、失礼な態度を取りました。私ったら、すみません」
再び惟之を見上げる品子の口元には、小さな笑みが出ている。
だからそれが駄目なんだよ、品子。
その思いを込め惟之は口を開いた。
「無理矢理に笑って楽しいか? 偽物の自分を作って楽しいか? なぁ、品子?」
惟之の問いかけに、彼女の顔が歪む。
だが、それも一瞬。
唇を一度、強く噛み締めた品子は目を閉じると、すぐに口元に笑みを戻して話を続けていく。
「作るも何も、これが私ですよ。どうしたんですか? 先輩」
「お前も分かっているんだろう? 今の状態は、正しくないのだと。前に進まねばならないということを」
品子は惟之の言葉に、大きく目を見開いたまま何も言わない。
この言葉は品子を傷つけるだろう。
わかっていながら惟之はその行動を続けていく。
「偽りの自分でここにいれば、これ以上は傷つくことも無い。ここにいれば、傷つけてくる人もいない。止まっていれば、確かにそこは穏やかだろうさ」
だがその偽りの平和の中の停滞では。
そのままでは淀み、腐っていくだけだ。
そしてそれは、品子をじわじわと狂わせていくことだろう。
そうさせるわけにはいかないのだ。
惟之には、品子に一年前の借りを返す必要があるのだから。
閉ざされていた惟之の未来を品子が開いてくれたように、今度は自分がこじ開ける番なのだ。
「借りっぱなしなんて、まっぴらごめんなんでね。だからまずはお前を、ここから引きずり出す。……さぁ。話をしようじゃないか、品子」
強くこぶしを握り締めると、惟之は品子を見つめた。
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