第212話 忘れたいコト その1

 惟之がクッキーを食べるのを見つめ品子は考える。


 彼は普段、自らこういった甘いものを食べたがる人ではない。

 いつもは自分が勧めて、「しょうがないな、品子は」と言ってからようやく口にする人だ。

 ――本当は甘いものが好きなくせに。


 そんな男が、普段しない行動をしているのだ。

 何かあると思うのは、当然のことだろう。

 そしてそれを尋ねるのも、自然の流れだろうに。

 そう考え品子は目を閉じる。

 瞼の中に浮かび上がるのは三日前の出来事。

 

 数日前の、あの事件以来。

 品子は一人になることが出来なくなってしまった。

 だが付き添ってもらうのは、女性でないといけない。


 男性が、恐ろしい。

 正直に言ってしまえば、目の前にいるこの慣れた人物ですらだ。

 彼ですら、今の自分には恐ろしいのだ。

 だがこの気持ちを、あらわにしてしまうわけにはいかない。


 ただでさえ今のこの自分の状態を、清乃を筆頭に何人もの人が心を痛めている。

 こんな自分を何とかしようとしてくれているのだ。

 これ以上そんな優しい人達に、自分が駄目な人間と知られたくない。


 だから自分は。

 元の人出品子に、徐々に戻っているといるように『作ろう』。

 弱い自分を知られないように『壁』を作り、そこにしまい込もう。

 そうしているうちに、過ぎていく時間がきっと。

 本当に元の自分へと戻してくれるのを期待して。


 『女』であること。

 それをこの体に焼きつけられた、あの日以来。

 品子はこの家から一歩も出られなくなってしまっていた。


 やり直せるものならば、あの日に戻りたい。

 今までに何度、願ったことか。


 あの日もいつも通りに依頼をこなし、何もなく帰るはずだったのに。



◇◇◇◇◇



 品子に届いた依頼は、ある人物の記憶消去だった。

 対象者は今、人気の若手男性俳優の陣原じんばら あまね

 芸能人にあまり興味のない自分でも、ドラマや映画で目にする人物だ。

 もっとも品子にとっては、特に興味もないただの対象者でしかないのだが。


 そんな彼が、とある大企業のイメージキャラクターとして採用される。

 仕事を介してその企業の会長の孫娘と出会った彼は、孫娘と『仲良し』となった。

 そこで彼は孫娘から得た企業の大切な情報と、彼女の実に大胆な姿を見せている『写真』を手に入れる。

 そして自らを、企業の経営に携われるようにと売り込みに来たのだ。


 企業としては、当然ながら拒否したい。

 だがいかんせん、相手に握られている情報もあり強気に出ることが出来ない。 

 そこで白日達の出番となったのだ。

 彼と孫娘には今までのことを『忘れて』もらい、互いに今後は会うこともなく新しい人生をやり直してもらう。


 孫娘の方を品子はすんなりと片付け、もう一方の陣原を残すのみとなった。

 彼は仕事の都合であるホテルに滞在中ということなので、企業の交渉役という体で品子は陣原の滞在するホテルの部屋に向かう。


 作戦としては穏便に話をして、売り込みを諦めてくれればよし。

 さもなければ品子の記憶操作の発動を使い忘れて頂く。

 その際に彼が暴れたりしないように、本部から男性を二人、品子に対する護衛を兼ねてついて来てもらっている。


 今回、同行してもらっている二人は発動者ではない事務方の人間だ。

 ホテルの前で品子達は互いに自己紹介をした。

 二人からは一人目は斉藤、二人目は江藤の『藤コンビ』だと紹介される。

 気さくな自己紹介にくすりとさせられながら、品子は指定された部屋を目指す。

 二人とも品子は本部で会ったことは無かったが、どうやら同じ三条の所属らしい。

 両名ともがっしりとした肩幅と、立派な体格の人物だ。

 そうそう陣原も、愚かな行動をすることはないはずだと品子は安堵する。


 本部からの連絡で部屋番号を確認すると、部屋のチャイムを鳴らす。

 事前に企業からの連絡を受けていた彼は、上機嫌で自分達を迎え入れた。

 企業側から全て彼の望みを呑む、ただし具体的な話を詰めるため、彼一人のみでなら交渉に応じる。

 この条件を企業側から事前に陣原へは出してあった。

 それが守られているか、この部屋に他に誰も居ないか確認をしたい。

 品子達は彼にその旨を伝え、部屋の中を確認し始める。


 聞いていたといえ、三人もの人間が部屋を物色するかのように動き回っているのだ。

 その様子が気に入らなかった陣原は、次第に憮然ぶぜんとした表情になっていく。

 当初はソファーに座ってゆったりとワインを飲みながら待っていたが、確認を終え品子が彼の前に立ったその時だった。

 陣原は持っていたワイングラスを上に掲げると、あろうことか品子の頭上に中身を注いできたのだ。


 売れている、人気があるからといってうぬぼれるのもいい加減にして欲しい。

 そう思うと同時に品子は怒りがこみ上げるものの、冷静になれと自分に言い聞かせる。

 相手と同じように、激高したところでなんら意味がないことを品子は理解しているからだ。


 慌てて寄ってきた斉藤に、品子は新しい服の手配を依頼する。

 もう一方の江藤はやり過ぎだという抗議を陣原へとしていた。


 彼らに状況の収拾を任せ、品子は赤く染まってしまった服や髪を何とかしようと、洗面所へ向かう。

 後ろからは斉藤が電話で誰かに連絡を取っている声が。

 そして江藤が冷静になるように、陣原に話しかけている声が聞こえてくる。


 向かった洗面所には大きな鏡の前に洗面台が二つ。

 品子は備え付けのタオルを、洗面台の下の引き出しから一枚取り出す。

 服に掛かったワインを拭きとると、洗面台の蛇口をひねりお湯を出しておく。


 洗面台の鏡の向こうでは、むっとした表情を浮かべている自分。

 アメニティからシャンプーを、引き出しから数枚のタオルを取り出し、洗面台の横に添える。


 顔を洗い、そのまま髪を解くと髪に付いたワインを洗い流していく。

 洗面台を通っていく泡と水が赤から次第に透明になる頃、品子は背後から気配を感じた。


 誰かが来たようだが、あいにくと今は振り返ることが出来ない。

 品子がそのまま髪を洗っていると、肩を掴まれ後ろにぐいと強く引かれる。

 目に入る水と、突然に触れられたという不快さ。

 それらを同時に感じながら、その行動をしてきた相手を確認しようと振り返る。


 次に品子が感じたのは痛み。

 相手が自分の前髪を掴むと、思い切り引き上げてきたのだ。

 痛みで声を出さぬよう歯を食いしばり、忌々しい行動をしてきた相手の顔を確認する。

 予想はついていた。

 にやにやと自分を見て笑う相手を品子は睨みつける。

 やはり相手は、陣原周だった。

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