第三章 十年前の昔話
第145話 十年前の昔話 その1
これは十年前のお話。
品子は十七歳。
惟之は十九歳の時のお話になります。
―――――――――――――――――――――――
部屋の前で品子は一度、深呼吸をする。
ここは二条の管理区にある一室。
右手の軽く握った手を、扉に二回打ち付ければいい。
そう、それがノックだ。
そして『先輩、入りますよ』と言えばいいだけなのだ。
たったそれだけのこと。
だが品子はそれが出来ずに、かなりの時間を費やしながら扉の前で立っているだけ。
学校が終わってからの
「……だめだ。こんなことでは!」
軽く握っていたはずの手は無意識のうちに力が入っていたようで、広げた手のひらにはくっきりとした爪の跡が見える。
ふるふると首を振り、前を向く。
一緒に揺れるおさげ髪にそっと触れ、ぐっと気合を入れる。
「しっかりしろ! 人出品子。こんな弱気でいるのは私らしくない!」
大きく手を振り上げノックを一回、二回。
次は笑顔でこの部屋に入っていけばいいだけだ。
もっともこの部屋の主は、品子がどんな表情をしているか知ることはない。
それに今の彼は自分の表情などは、どうでもいいことなのだろうから。
「先輩、失礼します。人出です」
品子の声は震えている。
その原因はこの薄暗く、光が拒まれた部屋のせいなのか、あるいは……。
「……品子か。毎日くる必要はないと、昨日も言ったが」
「そうでしたっけ? 私、そんなことを言われたなんて覚えていませんけど」
品子は声を掛けながら、窓に向かい鍵を開ける。
カラカラと音を立てながら窓が動く。
心地よい風が彼女の頬を撫で、部屋の中に入ってくる。
目は見えなくても、風は感じることは出来る。
今は何でもいいから、何か彼の心を揺り動かすものを……!
品子はそう願い窓を開けたまま、振り返りベッドにいる人物を見つめる。
相手は上半身こそ起こしているものの、こちらを向く気配が全くない。
その顔には両目の部分を覆うように巻かれた包帯。
彼は。
薄暗い部屋でないと目に痛みが走るということ。
ここ本部ならば、治療班が誰かしらは滞在している。
それもあり体調が急変しても対応できるということで、事故の日からずっと彼はこの部屋で過ごしている。
『事故』
そう言われても品子にはちっとも納得ができない。
だがそれを
品子以上に納得が出来ないであろう人達が、何も語らないのだ。
今回の事件の部外者ともいえる品子が、何を言えるというのだろう。
「品子。ヒイラギとシヤは、……どうしている?」
惟之は品子が来ると、まず第一にこの質問をする。
申し訳ないが答える返事はいつも一緒だ。
「三条の管理区にいますよ。今は母が一緒にいるので、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」
「……そうか」
「たまには違う質問でもしてくださいよ。『品子はどうして今日も可愛いんだい』とかでもいいんですけどね」
「……」
品子なりに頑張って出した会話は、沈黙をもって強制終了となった。
わかってはいる。
そもそも彼は、普段からそんな言葉を出すタイプでもないのだ。
ヒイラギとシヤ。
品子の大切な従兄妹。
彼らは大好きな母親を失った。
あろうことか周りの大人達は、その母親の最期の姿まで小さな彼らに見せつけたという。
品子が報せを受け、彼らの元に着いた時。
二人とも
絶望の中で、品子に救いを求めてきた。
それなのに品子はただ、抱きしめることしかしなかった。
……それしか出来なかったのだ。
何も出来ない無力な自分。
今もその時も品子の立ち位置は、全く変わらないままだ。
「とにかく! ヒイラギ達は私達に任せてください。彼らを心配してくれるのはありがたいのですが、まずは自分の心配をしてください。はい! 今日の手土産は、私のお気に入りのお店のチョコですよ。二個しかないから、一個しかあげませんからね」
そう言いながら部屋の隅に置いてあったベッドサイドテーブルを、惟之のそばへと寄せる。
そうして持ってきたチョコレートを一個、テーブルに載せた。
ことん、と小さな音がして載ったチョコレート。
昨日と同様に、惟之は触れようともしない。
さして大きくもないテーブルにぽつりと置かれたチョコレートは、薄暗い部屋の中にもかかわらずさらに小さな影を作っている。
品子は下唇をかみ、うつむく。
(今は、今だけは先輩の目が見えなくてよかった……!)
自分の頬をつねり、無理やりに笑顔を作る。
「もう! 食べないんですか? だったら私、食べちゃいますからね! 後で欲しいって言ったってあげませんよ」
なるべく大きな音を立てて包装紙を取り、チョコレートを口に放り込む。
「ふもぅ、せっかくおきにいりのひゃつを持ってきたっていふのに。……私がダイエット中だって知っての
チョコレートはあっさりと品子の腹に収まり、部屋は再び沈黙が支配する場所となる。
「……治療班に、目の治療を拒否したというのは本当なのですか?」
沈黙に耐えられず品子は問いかける。
治療班は言っていた。
右目は完全に視力を失っていると。
瞼を開けることも出来ないらしい。
なのに治療を拒否しているのだと。
「今は、何も考えられない。……着替えたいから、今日は帰ってくれないか?」
……どうやら、今日はここまでのようだ。
「はーい、わかりました。チョコも食べたし帰りますね。何か必要なものあれば明日くるときに、持ってきますけど?」
「特にない、俺は大丈夫だから。……そう毎日、来なくてもいい」
「はい。わかりました」
品子は窓を閉めながら、惟之の言葉の前半部分に返事をし、後半部分は聞き流しておく。
「ではお邪魔しました! ちゃんとご飯を食べなきゃだめですよ!」
返事は、ない。
本当に大丈夫だというのならば、答えてほしいのに。
言おうとした言葉を飲み込み、品子は扉を静かに閉めた。
◇◇◇◇◇
「あら、里希? どうしたの。こんなところに居るなんて珍しいね?」
三条の管理区に居たのは
品子より二つ年下で十五歳の一条所属の少年だ。
いつもにこにこと、品子の話を楽しそうに聞く姿は本当に可愛らしい。
彼の傍にはヒイラギとシヤが居る。
ヒイラギの手には、猫の小さなぬいぐるみがぎゅっと握り締められている。
数日前に品子がガチャガチャのおもちゃで手に入れたものを、ヒイラギが珍しく欲しいと言ってきたのであげたものだ。
「あ、品子先輩。父からの使いで今日はこちらに来たんです。それじゃあ、ヒイラギ君、シヤちゃん。……またね」
里希は二人の顔を一人ずつ正面から見た後に、彼らの頭を撫でてから品子の方を向く。
「では失礼します」
その言葉と共に立ち去ろうとする里希を、品子は呼び止める。
「待って里希。私のお気に入りのチョコレート最後の一個、里希にあげるね」
鞄から先程たべ損ねた自分の分のチョコレートを取り出し、里希に差し出す。
里希はそれをそっと受け取り、こちらに笑いかける。
「ありがとうございます。とても美味しそうですね!」
チョコレートと品子の顔を、交互に見ながら再び笑う。
「ふふふ、里希は可愛いからね。あげちゃうよ!」
そういって品子は彼の右目の下にあるほくろにそっと触れる。
いつものように彼は顔を真っ赤にして言うのだ。
「からかわないでください。男なのに可愛いと言われても、……困ります」
そう言ってうつむく仕草が、やはり品子には可愛らしいとしか思えない。
なにせ彼は、品子が羨ましく思うほどの色白な肌の持ち主だ。
加えて柔らかな笑みとすっきりとした顔立ちに儚げな立ち姿。
何だかこちらが守ってあげたくなるではないか。
こちらを見つめる瞳も、黒というよりも薄い茶色の透き通るような色合い。
そんな瞳で見つめてくるのだ。
可愛いと言っても仕方がないだろうと品子は思ってしまうのだ。
だが本人が困っているというのなら程々にしておかねば。
そう思いつつ彼へと別れの挨拶を済ませる。
「また美味しいもの見つけたら、里希にもあげるからね! 気を付けて帰るのよ」
「はい、ありがとうございます。では、今度こそ失礼します」
ペコリと礼をして、里希は帰っていく。
自分達も帰るべく、品子はヒイラギ達に声を掛ける。
「ヒイラギ、シヤ。そろそろ帰ろうか。……あれ、どうしたの?」
二人ともじっと下を向いたままで、動こうとしない。
ヒイラギに近づき肩をぽんと叩くと、彼の体がびくりと揺れた。
「え、ちょっと。どうしたのヒイラギ? どこか痛いの?」
「ちっ、ちがうよ、しなお姉ちゃん」
「でも顔色が悪いよ。熱とかあるのかな?」
品子はヒイラギの額に触れる。
汗ばんではいるが、熱はないようだ。
「よかった。熱があるわけではなさそうね。さぁ、帰ろう! 私は母さんを呼んでくるからここで待っていてね」
「嫌だ! 一緒に行くよ! ……一緒に、行かせて」
一緒に行きたいなんて、可愛いことを言ってくれる。
品子はその言葉に、にんまりと笑う。
「ふふふ。いいよ、じゃあみんなで母さんを迎えに行こう! さ、手を繋ごうか」
両手を前に出すと、二人ともぎゅっと品子の手を握ってくる。
ヒイラギは猫のぬいぐるみをせっせとポケットに入れると、慌てながら手を差し出してくる。
小さくて温かい大好きな二人の手。
ぎゅっと握り返し、自分の両腕をぶんぶんと振りながら進む。
「しなお姉ちゃん、手をにぎってるのむずかしい!」
ヒイラギが品子に言う。
「そりゃそうだよ。これだけ大きく振り回しているからね~!」
品子は、ヒイラギを見ながらにやりと笑うと、もっと大きく腕を振るのだ。
きゃあきゃあ言いながら、二人共ようやく笑ってくれる。
可愛い笑顔を両側に見ながら、品子は母の居る部屋へと向かって行くのだった。
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