第140話 千堂沙十美は導く

(……もう、あの時のような苦しさはない。大丈夫のようね)


 回復をするのに、随分と時間がかかってしまった。

 沙十美は体がきちんと動くことを確認し、安堵の息をつく。

 

 さて。

 自分が今から室の体の中で行うことは、彼の体に拒絶反応を起こすだろうか?


(何かあって文句を言われるのも面倒か)


 沙十美は、室に呼びかける。


「ねぇ、ちょっと散歩したいんだけど」

「……勝手にしろ」


 いつも通りの愛想の無い返事を聞き、沙十美は室の体から出る。

 室はといえば、読書の最中だったようだ。

 コンクリート打ちっぱなしの壁、ソファーとテーブルのみの生活感を感じさせない部屋。

 無機質なこの景色は、実に彼に似合っている。

 ソファーに座った室は、沙十美の方をちらりと見た後に、再び本に目を戻す。

 さすがに、ここでおしゃべりは不向きのようだ。

 ぱらりとページをめくる音を聞きながら、沙十美は室へと口を開いた。


「隣の部屋、借りるわよ」


 室のいる部屋から離れ、隣の部屋へと入る。

 寝室でもあるこちらの部屋も、ベッドとサイドテーブルが置いてあるだけの飾り気のない無機質な部屋だ。

 ベッドに腰掛けると、沙十美は手のひらに力を集中させる。

 ぽぅと小さな光が彼女の手のひらの上に現れると、それは小さな白い蝶をかたどる。

 そっとベットの上に蝶を乗せる。

 次第に光は大きくなり、ついには白い服を着た少女がちょこんと沙十美の隣に現れた。


 この子の世界を去る時、彼女の心の欠片を沙十美は捕まえ、自身の中に留めておいたのだ。


『大きな私、なぜ私はここにいる? あと、ここはふわふわしてやさしい』


 小さな自分とも言える少女、さとみはベッドの感触に驚いているようだ。

 両手でさわさわとシーツに触れている。

 心を欠片でしか捕まえられなかった為だろうか?

 その語彙ごいは以前よりも幼くなっているようだ。 

 その分あまりに純粋で可愛らしい返答に、思わず沙十美は彼女の頭を軽く撫でる。

 すると少女は、以前と同じように顔を真っ赤にして、自分の頭に乗せられた沙十美の手に触れながら見上げてくる。


「さて、小さな私。ここにあなたを呼んだのは答えを聞きたかったから。あなたは今まであの子の声を聞いていたでしょう? ずっと呼んでいるのが聞こえていたでしょう? あなたは、この声にどう答えるの?」


 つぐみは、今でも彼女を呼んでいる。

 その念いは、この子どころか沙十美にまで響いてくる。


 とても深い、この子に会いたいという念い。

 とても強い、そばにいてほしいという願い。


 本当はこの子をもっと早くに。

 こちらの世界に連れて来て、つぐみに会わせたかったのだ。

 しかしながら、沙十美自身の回復に時間が掛かってしまった。

 ようやく今になって、この少女を連れてくることが出来たのだ。

 

『ずっと冬野の声は聞こえていた。よんでいる声は聞こえていた。……でも私は、生まれてきたいみが終わっている』


 うつむき、か細い声でさとみは伝えてくる。 

 自分の存在理由が、もう終わっていると知った直後からの突然の覚醒。

 生まれて間もないであろう彼女にとって、戸惑うのは当然だろう。

 何より自分の存在意義が見つからないという今の状態。

 これにどう向かい合ったらいいか、分からないというのもあるのだろう。


『それにもし、……もし冬野が私のことをいらないと言ったら。私はまた一人になる。私はまたさみしいを、……そんないやな思いはしたくない』


 両腕で強く自身の体を抱きしめながら、正直な気持ちを伝えてくる少女の姿。

 思わず沙十美はそっと腕に触れ、優しく撫でる。

 その腕は、彼女の沈んだ心を表しているかのように冷たい。


「要らないと思う子を、こんなに求めるものかしらね?」


 つぐみを守りたいという自らの強い意志で発現した沙十美とは違い、この子はヒイラギという存在を介して発現した子だ。

 存在するということに、自信が持てないのも仕方がない。

 

「答えは急がなくてもいいと思うわ。……ところであなたは、いま息が苦しいとか、どこか痛いところってあるかしら?」


 沙十美の問いに、きょとんとした表情を浮かべていた少女は、自分の体をぺたぺたと触った後に答える。


『いたい所は、ない』


 宿主である室から長時間、あるいはある程度の距離が離れると苦痛が襲う沙十美と違い、どうやら彼女は行動するのに制限が無いようだ。

 これは元の宿主である、ヒイラギとの別離が済んでいる為だろうか?

 それならば、これはいい機会かもしれない。


「ねぇ、つぐみのいる場所は分かるわよね? だったらあなた自身がつぐみを見て、一緒に居てもいい相手なのか決めるのがいいのじゃないかしら」

『自分で見る?』

「そう、しばらく彼女の様子をこっそりと見てみるの。それでこの人なら大丈夫と思えたら、彼女の前に現れてみればいいと思うの。どうかしら?」


 沙十美の話を聞き、彼女は考えこんでいる。


『わかった。私は冬野を見る。そしていっしょにいるか決めよう』

 

 目的が決まったという安心感だろうか。

 真っ直ぐ見上げてくる瞳には、明るさが戻っている様だ。

 彼女の様子に、こちらも思わず嬉しくなる。

 あとは何か、自分がこの子に出来ることはあるだろうか?


「よかったわ。何か聞きたいことや気になることがあれば私に教えてちょうだい。あなたにアドバイス位ならきっと出来ると思うから」

『ありがとう、大きな私。では今から見てくる。あの、……見るのにつかれたら、ここに帰って来てもいい?』


 こちらを見上げながら、話してくるあどけない様子。

 自分の昔の姿と分かってはいるが、なかなかに可愛らしいものだ。


「えぇ、もちろんよ。と言いたいところだけど、隣の部屋にいる男が居たわね。……そうね、だったら現実と夢の間のおぼろの場所で会いましょう。あなたは胡蝶こちょうの夢を使えるのかしら?」

『こ、こちょうの、うめ?』


 困ったように首をかしげ、こちらを見ている少女を眺める。

 そういえば、この子が発動を使っているところを沙十美は見たことが無い。

 

「ねぇ、あなたは力を使えるのかしら? 例えば他の人の体を動かしたりとか、人を治したりとか」

『……力? わからない。私はちょうを……、友達は出せるけど他は知らない』


 以前、つぐみに噛み付いていたのも、攻撃をする術を知らなかったからなのだろうか?

 幼い自分の姿をしていることといい、これから徐々に成長して、いろいろ出来るようになっていくのだろうか?

 ならば今は自分が出来る導き方で、この子の成長を促していくべきだろう。

 そう考えた沙十美は少女へと語りかける。

 

「私に会いたくなったら呼んでくれる? そうしたら私は、あなたとお話が出来る場所へ連れて行くから」

 

 沙十美の言葉に、彼女はうなずく。


『では行ってくる。ありがとう大きな私。また話を聞いてほしい』


 するりと彼女は白い蝶に姿を変え、空中に溶ける様に姿を消した。

 それを見届けると、沙十美は再び隣の部屋に戻る。

 部屋の主は、相変わらず読書の真っ最中のようだ。

 男の傍らに向かい、彼の座っているソファーの背面にまわりこむ。

 そのまま、背中合わせのようにもたれ掛かりしゃがみ込む。

 空から降ってくる流れ星のような、ページをめくる音。

 ただそれに耳を傾ける。

 目を閉じて、このゆるやかに流れる時を過ごす。

 このささやかな時間に、沙十美は幸せと愛おしさを静かに感じていくのだった。

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