第138話 千堂沙十美は戻る
医者が、ヒイラギを検査の為に別室へと連れて行く。
品子は惟之と共にそれを見送ると、ソファーで未だ眠り続けているつぐみの元へと向かった。
何か大変なことが起きているのは、こちらでも分かった。
なにせ突然、つぐみの右腕に歯形が浮かび上がってきたのだから。
出血があったということは、かなり強い力で噛まれたということになる。
「なぁ、惟之。ヒイラギから何か聞いているのか?」
「……ああ。どうやらあちらの世界に、小さな女の子がいたらしい」
「ふぅん。つまりその子が、冬野君に噛み付いた相手だと?」
「俺もそう考える。ヒイラギの眠りを妨げようとした彼女に攻撃したのだろうな。俺はその子が変化した毒だと思う」
「同意見だね。いずれにしてもヒイラギが目覚めたとい……」
思わず言葉が途切れる。
消えたときの時と同様に突然、千堂沙十美が部屋の中に現れたからだ。
彼女はよろめきながら、品子達の方へと向かってくる。
かなり無理をさせたようだ。
品子は足早に近づくと、そっと沙十美の肩に手を添える。
彼女はかろうじてといった様子で微笑み、辺りを見渡した。
「私は大丈夫です。ここにヒイラギ君がいないということは……」
「心配ない。君の、……いや、君達のおかげでヒイラギは意識を取り戻したよ。本当にありがとう」
品子の言葉を聞き、沙十美に安堵の表情が浮かぶ。
「良かった。……あの、私達が彼の心の中に入ってから、どれくらい時間が経っていますか?」
「あ、あぁ。えっと、一時間位だよ。千堂君、顔色が悪いね。少し座るなりして休んだほうがいいと思うのだが」
「いいえ、平気です。それより人出先生。つぐみを起こしてあげてください。私はこのまま失礼します。……あいつを、かなり待たせていますし」
「そうか。室はこの近くでずっと待機していたのだったね」
彼がしびれを切らして、自分達を襲う可能性もあった。
その事実に改めて気づき、品子の背筋にぞくりと寒気が走る。
「実に勝手なのを承知で言うが、どうかこれ以上は無理をしないでくれ」
「心配ありません。あいつのところに戻ったらすぐに休みます。それから改めて、後片付けをすることにします」
「後片付けかい? もし私達にできるなら、それを任せてもらえないだろうか。さすがにこれ以上、君にばかり負担がかかるのは、こちらとしても心苦しい」
「お気持ちは本当に嬉しいです。ですが私にしか出来ないものですから。でも、そうですね。もし目を覚ましたつぐみが……。何かとんでもないことを実行しようとしても、見守ってやってくださるとありがたいです」
品子達に一礼をすると、沙十美は病室から出ていく。
「千堂君、ありがとう。俺達が君に礼を返せることがあるならば、いつでも言って欲しい」
沙十美に向けて、惟之が声を掛ける。
彼女は品子達へと振り返り、綺麗な笑顔を見せるとそのまま去っていった。
次に彼女に会えた時に、自分は何か出来るだろうか。
何が出来ているだろう。
ここの所、借りが増えるばかりでちっとも『大人』になれていない。
もどかしい思いを、品子はつい惟之にぶつけてしまう。
「ねぇ、惟之。私、全く大人のお仕事が出来てないんだけどさぁ」
「おいおい、同じく出来てない俺に言うなよ。……まぁ、今は目だけしっかり開けとけばいいんじゃないか? いずれは俺達にしか出来ないことがきっと出てくるだろう。そん時にしっかりと見据えて『大人』を頑張ればいいんじゃないの」
「……そうだねぇ。ちゃんと開けとけば、いつか見えるものもあるかな」
確かにそれは清乃にも言われたのだ。
視野を広げ、正しく動く。
つぐみ達の活躍に焦って、動こうとする今の自分は、……きっと違う。
ならば今は、自分がすべきことをしよう。
まずはつぐみを起こして、頑張ってくれたことをたくさん褒めてあげたい。
だが、沙十美が言っていた「とんでもないこと」とは一体、何なのだろう。
いや、それはいい。
なぜならそれは、今から聞けばいいのだから。
品子はつぐみの頭にそっと手を乗せる。
「……さぁ、冬野君。君の話を聞かせて?」
◇◇◇◇◇
……苦しい。
品子と別れ病室を出てすぐに、沙十美は胸に手を当て息を吐く。
ただ歩くだけなのに、ここまで苦しいとは。
病室を出て数歩あるいた後、こらえきれずに壁にもたれ掛かる。
「駄目だ、……止まるな! 一歩でも前へ進むのよ」
今の自分がすべきこと。
――約束を守ること。
今の自分が分かること。
――約束を守ってくれている、あいつがいる。
「だから私は、約束を交わした場所へ戻る。だって『勝手にどこかへいかない』って言ったもの」
呼吸を整えながら向かった先に、室が見える。
一時間前と全く同じ場所で、この男は約束と共に自分を待ってくれていたのだ。
室は自分の腕時計に目を移し、沙十美へと声をかけてくる。
「十五分も待った。待たせ過ぎだ」
ため息をつく室を見つめ、沙十美は思う。
随分と長い『十五分』を過ごさせてしまったようだ。
自分との時間の認識の違いは、この男なりの気遣いといったところか。
ささやかな動きですら
「お待たせして、……ごめんな、さいね。せめてものお詫びに、……今日は、静かにしてるわ」
とぎれとぎれでしか言葉が話せない。
自身の体に、沙十美はもどかしさを覚える。
室は黙ったまま、そばにあった椅子に座ると隣の席をちらりと見た。
ここに座れということなのだろう。
隣に並んで座り、ゆっくりと息を整えていく。
横にいる男を眺めながら、小さな自分が言っていたことを思い返す。
『主がいなければ世界が終わる』
自分が発現した当初は混乱していたが、今ならば室は沙十美を拒否することが出来る。
そうなれば自分は消えるのだろうか。
今はまだ、反動を抑えるというメリットがあるからここにいられる。
ではもし、この力がなくなったとしたら。
――彼は、私をためらいもなく消すのだろうか。
力をかなり消費したからであろうか。
どうもよくない考えばかりが浮かんでしまう。
「おい」
突然に声をかけられ、沙十美は思わずビクリと反応してしまう。
「……煙草を吸いに行きたい。まだ動けないのか」
廊下にはまばらとはいえ、まだ人がいるのだ。
室の中に戻るにも、場所を変える必要がある。
「っ! ごめんなさい。……すぐに移動するわ」
慌てて立ち上がった。
……そのつもりだったのに、ぐらりと体が
倒れると思った瞬間、室の右手が沙十美の手首を掴んだ。
そのまま室は左手を沙十美の体へと伸ばし、自身の方へと引き寄せていく。
倒れずに済んだことにほっとする一方で、距離の近い彼からの視線に沙十美は戸惑いを隠し切れない。
いつも通りの無表情ではある。
だがここまでまっすぐに、見つめられることなど今までなかったのだ。
「ごめっ……、もう、大丈夫だから」
沙十美は室の胸に手を置き、体勢を整えながら少し距離を空ける。
彼は今、何を思っているのだろう。
こんな情けない姿を見て、失望しただろうか。
そう考えうつむく沙十美に、室は何も言わない。
ただ握ったままの右手を離すこともなく、ゆっくりと歩き出す。
とぼとぼと付いて歩きながら、やがて沙十美は重い口を開いた。
「約束したのにすぐ戻れなくて、……ごめん」
「……十五分は、長い方とは言わない」
「約束を守って、待っててくれてありがと」
「別にお前を待っていない」
ならば、誰を待っていたというのだ。
その言葉は、握られた彼の手の温かさに溶かされたように消えていく。
ぽつりぽつりと、沙十美の口からは代わりの言葉が出始める。
「あんたの手って、温かいのね。もっと冷たいと思っていたけど」
「無駄口を叩ける余裕があるなら、早く戻れ」
その言葉に周りを見渡し、人がいなくなっているのを確認する。
目を閉じると、沙十美は室の中へと戻っていく。
「私、もっとこれから強くなる。だから、……あんたも強くなって」
憎まれ口しか叩けない自分勝手な言葉。
その自覚がありながらも、室の中で沙十美は意識をその闇の中に戻すと眠りにつく。
彼女が自身の中に入ったのを確認すると、彼は小さく笑いたった一言だけ呟いた。
「……気が向いたらな」
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