第129話 蛯名里希
「うぅ、終わった」
三条管理室から出た品子は呟く。
惟之と共に頬の痛みと疲れを抱え、ただ足を前へ前へと進めていく。
……とにかく、気まずい。
惟之に、余計なことを知られてしまった気まずさが品子を沈黙させる。
一方の惟之も、品子と目を合わせることもなく先を歩いていく。
二人で黙々と歩み続ける中、品子達の後ろから声が掛かった。
「おや、これは二条と三条のお似合いコンビのお二人ではないですか? 相変わらず仲がよろしくて良いですね」
丁寧だが、一切の情を込めていないであろう言葉。
声を聞いた品子によぎるのは、面倒くさい男に見つかったという思いのみ。
聞こえないふりをして、そのまま立ち去ろうかと一瞬よぎるが、そういった訳にもいかない。
何せ相手は、品子達よりも立場が上の人物だ。
小さくため息をつくと、品子は笑顔を作り振り返る。
「
彼は一条の上級発動者であり、里希の父親であり一条の長でもある
その功績を認められ、彼は品子より年下にもかかわらず立場はかなり上の存在となる。
「はい、少々
近づいて来て、ちらりと品子達を
「先だっての落月の発動者の件。待機との指示だったのに無駄に動き回り、更にはお二人とも足に怪我をなさったとか。そこまで仲良く揃えることもないでしょうに、ふふ」
心の中でそう呟き、品子は口を開いた。
「ご心配を掛けてしまったようで、申し訳ございません。私共は、すっかり回復いたしましたので」
互いに口元には、笑顔がこぼれている。
今の品子と彼の共通点。
笑いたくもないのに上げた口角。
そして偽りしかない、互いを思いやるように作られた会話。
少なくとも十年ほど前までは、こんな間柄ではなかったのだ。
かつては彼を品子は当たり前のように「里希」と呼び、彼も品子のことを「品子先輩」と呼んで慕ってくれていた。
彼の右目の下にあるほくろにちょんと触れると、嬉しそうに偽りのない笑顔を品子に向けていたというのに。
彼の言葉を聞きながら、そんなことを考えていると、無理やりに視線が横へと流されていく。
頬に感じるのは痛み。
里希が自分へと平手打ちをしてきたのだ。
視線を前に戻せば、口を真一文字に結び、鋭い眼差しの里希の姿が目に入る。
「そうやって私を見下すのは、やめていただけませんか」
……そんなつもりはちっとも無かったのだが。
互いの過ぎた時間と距離の違い。
それらの相違にじくりと心に痛みが走り、比例するように顔もうつむいていく。
「……蛯名様。私どもに、かかずらっていることもないでしょう」
今まで黙っていた惟之が口を開く。
里希は驚きの表情を見せると、惟之を覗き込むかのように見やった。
「あぁ、惟之さん。そこに居たのですね。あなたは人に任せてばかりで、何もしようとしない。だから、全く気が付きませんでしたよ。……確かにこの時間は、互いに必要のないものですね」
見送るように彼の後ろ姿を眺めながら、品子は呟かずにはいられない。
「なぁ、惟之。人はどんどん変わっていくんだな。……つまんないほうにさ」
「変わらないというのも、つまらないものかもしれないけどな。まぁ、ここでおしゃべりをする必要はないし帰るとしよう」
「しっかしさぁ。野暮用って私を叩くことかよ。一条の偉いさんが、こんな三条の管理箇所に来る用事なんて絶対ないじゃん」
「絶対とは言い切れないけどな。……しかし俺達は、えらく里希に嫌われたもんだな」
「んー。ここまでされると、さすがにちょっとへこむよな。というかそんなに嫌いなら、関わらなければいいのに」
彼の態度に変化が起こった理由に思い当たることといえば二つ。
一つ目はマキエの事件。
あの事件以降、態度が変わっていったように品子は感じられる。
里希も惟之と同様に、事件の場所にいた当事者でもあった。
その際に、何かあったのだろうか。
そしてもう一つは……。
だがこれはこちらが『お断り』された方だ。
恨まれるのは筋違いだろう。
「なぁ、惟之。マキエ様の事件の時に、里希に変な様子ってなかった?」
「……悪いな。俺は自分のことだけで全く余裕が無かったんだよ。あいつの様子がどうだったかは覚えていないんだ」
当時の惟之は重傷者だ。
周りに気を配る余裕は無かっただろう。
報告書では、里希は怪我もなく帰ってきたと記憶している。
せっかく本部にいるのだ。
里希の当時の状況も気になる。
資料室に寄ってもう一度、マキエの事件の資料を読んでから帰ることにしよう。
「惟之、私は資料室に寄ってから帰るよ。お前は先に帰ったら?」
「何だ? 調べ物なら、二人の方が効率はいいから手伝うが?」
「いや、マキエ様の事件の時の里希の動きが気になってしまって。一度、読み直したくなってさ」
「それほど時間はかからなそうだな。俺も行くよ」
「わかった、じゃあ行こうか」
品子だけでなく、惟之に対しても里希の態度は冷淡なものだ。
惟之は里希のことを、どう思っているのだろう。
先に歩き出した惟之の後を追いながら考える。
昔から惟之は面倒見がいい。
品子よりも里希と接点があったのだから、きっと感じるところも多いはずだ。
だが惟之から、里希に対する愚痴などは聞いたことが無い。
いや里希に限らずだ。
他人に対する不平不満もあるだろうに、彼は一切それを出さない。
何でもかんでも溜め込んで、疲れないのだろうか。
留めておかずに、誰かに少しくらい吐き出せばいいのに。
『……足りない所はあるだろうし。それならば、違うところで互いに補っていけばいいんじゃないのか』
昔、ある事件の際に、惟之から語られた言葉をふと思い出す。
今はだいぶ、補えるようになったと思うのだが。
あの時を再現するかのように、品子の手が惟之へと伸びる。
だが、背中に触れる寸前で品子は手を止めた。
時を経ているからこそ思う。
言わないことも、補うという方法の一つだということに。
伸ばした腕を下ろす。
先を歩く惟之の背中をほんの少し見つめた後、二条の資料室へと品子は向かうのだった。
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