第130話 千堂沙十美は決意する
「あ、先生! もう沙十美が居ます」
「おや、本当だ。待たせてしまったようだね」
時刻は午後十二時三十五分。
施設に入ってすぐに、総合受付前に立っている沙十美の姿が見える。
つぐみ、そして惟之と品子の三人は足早に彼女の元へ向かっていく。
一緒に病院に行きたい。
シヤからそう言われたものの、彼女には木津家で待機してもらっていた。
室の機嫌を損ねて、万が一のことがあってもいけない。
以前の経験や、品子の意見もあり、今回は三人で向かう。
その結論を出した時、シヤはつぐみ達にこう言ってきたのだ。
「つぐみさん。兄さんがどれだけ嫌がっても、必ず起こして帰ってきてください。兄さんがいない間のことを、早く報告しなければなりませんから。……兄さんがいるのはそこでは無くこちらだということを、しっかりと伝えて来て下さい」
あの時のシヤには、一緒に行けないもどかしさが表れていた。
今日こそは沙十美に協力してもらい、ヒイラギを目覚めさせ一緒に帰るのだ。
その決意を新たに、品子達を見つめる。
やがてその視線は、二人の頬へと向けられていく。
昨日の品子と惟之に、一体なにがあったのだろう。
最近は二人が出かけると、どちらかの頬が大変なことになって帰ってくるのだ。
昨日はなんと、二人そろって頬を腫らして帰ってきたではないか。
つぐみが保冷剤とハンカチを渡しながら理由を聞けば。
「お、大人の事情です」
と品子が言ったきり、何も教えてもらえなかった。
一体、大人の事情とは何なのだろう。
総合受付に向かっていく途中で、沙十美がつぐみ達に気付いた。
軽く微笑むと、手を振りながら近づいてくる。
「来てくれてありがとう、沙十美。あれ、室さんは?」
「いるわよ。あっち」
沙十美の視線の先、ここから十mほど離れた窓際で立っている室の姿が見える。
窓の外の景色を眺めているだけの姿。
それだけなのに、彼は人の目を吸い寄せるような存在感を放っている。
「なんだか室さんって、何もしてなくても目立つんだね」
つぐみは思わず呟く。
「そうなのよね。最初は一緒にここに居たんだけど、周りの視線が気になっちゃって。だからあそこの隅っこに追いやっておいたわ」
「……あの室を相手に、追いやったってすごいな」
さらりと出された沙十美の言葉に、惟之は驚きの声を上げる。
「さて、手早く済ませましょう。あいつ煙草が吸えないってうるさくて。傍に居なくても、ちゃんとあいつは距離を空けてついて来てるから。気にせず行きましょう」
確かにあまり時間を取らせてもいけない。
沙十美を連れて、ヒイラギへと病室に入っていく。
静かな部屋。
ヒイラギはそこで眠り続けている。
入ってくる日の光で部屋は明るい。
それなのに、そのまぶしさを知ることなく彼は眠り続けていた。
体の上を通っている、いくつかのチューブが痛々しい。
沙十美はしばらく彼を見つめた後、そっとヒイラギの腕に触れてから、つぐみ達の方を向いた。
「ちょっと席を外しますね。五分程で戻れると思います」
はっきりとした声で語り、沙十美は部屋を出て行く。
室に話をするために彼の元へ向かったのだろう。
いずれにしても、こちらは待つことしか出来ない。
願いを託し、つぐみは呟く。
「お願い、沙十美。どうかヒイラギ君を……」
◇◇◇◇◇
ヒイラギの病室から出た沙十美は、目を閉じ気配を探る。
「あいつは、……こっちね」
再び目を開き、歩き出す。
廊下を進んだ先には、椅子の傍らにいながら座ることもなく佇んでいる男。
思ったより響く、自分の靴音を耳にしながら近づいていく。
室は一度ちらりとこちらを見たが、背を向けたまま動こうともしない。
沙十美はそのまま振り向きもしない室の後ろに立つと、服の裾をそっと掴み尋ねる。
「ねぇ、あんたさ。私がいなくなったら寂しい?」
突然の問いに動ずることも、振り返ることもなく室は答える。
「寂しくはない。ただ今回の件でお前が消えたら、俺はあいつら全員を消す。……それだけだ」
彼の返事に、驚きよりも先に沙十美の口元には笑みが浮かぶ。
予想外だった答え。
でもそれは沙十美の心に、今までになかった感情を芽生えさせた。
「随分と穏やかじゃない答えをありがとう。じゃあ私が消えるまであんたは、私の傍から離れないで。……今回に限らず、これからも」
「それを決めるのはお前ではない。さっさと済ませてくれ」
「わかった。勝手にどこかへいかないでね」
「それを決めるのもお前ではない」
「はいはい、素直じゃないわね。……じゃあ行ってくる。だから待ってて」
「ここの空気は好きではない。そんなには待たない。早く行け」
掴んだ時と同様にそっと指を離し、再び来た道を戻っていく。
きっと彼は、あのまま自分の方を見ることもないだろう。
そして沙十美も、振り返るつもりもない。
約束した。
すぐに済ませて帰ると。
約束した。
だから必ず戻る。
念いを、強く持つ。
大丈夫だ。
念いの力を、今こそ。
沙十美は、真っ直ぐに前を見据える。
私を必要としているつぐみとの。
そして室との約束を果たしにいこう。
◇◇◇◇◇
「ヒイラギ君の心の中の変化した蝶の毒。これと接触するのは、可能だと思います」
沙十美は病室に戻り開口一番そう言うと、ヒイラギへと近づいていく。
「本当に? ありがとう沙十美!」
沙十美の言葉につぐみが駆け寄り、ぐっと手を握り締めてくる。
「でも、そう簡単な話ではないの。確かに接触は出来るわ。ただその相手は、今のこの現状を変えたくないと思っている。つまり彼を目覚めさせたいと願っているこちらには、敵意を向けてくる可能性が高い。それを説得して、彼の目が覚めるように促す必要があると考えられるわ」
「説得をして促す? どうすればそれが出来るの?」
つぐみの問いかけに沙十美は答える。
「今から私は、その変化した毒に接触を試みる。でも私一人では説得は無理なの。だって私はヒイラギ君のことを知らない。だから彼の心やその毒に、目覚めるように話すことが私には出来ない。だから……」
一瞬ためらった後、沙十美はつぐみを真っ直ぐに見つめる。
「つぐみ、あなたに一緒に来て欲しい。彼の心の中に」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます