第122話 ひどい人

 数時間後、約束通り品子は昼過ぎにビルに帰って来た。


「ただいまー、冬野君。さっき二階に九重君がいたよ。今のうちに、お礼を言っておいた方がいいんじゃないかな。このビルに来るのは今日で最後だからね」


 確かに資料探しは今日で終了だ。

 今、言わなければ連太郎に会うタイミングは難しくなる。


「ありがとうございます! ちょっと二階に行ってきます!」


 品子と入れ替わるように、つぐみは慌てて下の階へと降りていく。

 二階の部屋では、出雲が書類を段ボールに詰め込んでいる。

 こちらの部屋も今日で撤退するのだろう。

 がらんとした部屋には出雲しかいない。


「すみません、出雲さん。九重さんってどちらにいらっしゃいますか?」

「あら、こんにちは冬野さん。九重君は資料を車に積み込んでくれているの。下に行けば会えると思うわ」

「ありがとうございます! では下に行ってみます」


 手短に礼を言うと、部屋を出て階段を下りていく。

 一階へ降りるが、連太郎の姿はない。

 車に向かったのならば、裏手にある駐車場にいるはずだ。


 外へ出て駐車場に向かおうとすると、ちょうど資料を運び終えたであろう連太郎がこちらに向かってくるのが見える。

 彼も、こちらの存在に気付いたようだ。

 なんだか気まずそうな顔をしたのが、つぐみにも見えてしまった。

 昨日のこともある、当然の反応だろう。

 先程の彼の表情に、逃げ出しそうになる心をぐっと押さえる。


「逃げるな、つぐみ! 今、自分は何のためにここに立っているの!」


 気持ちが揺るがように呟き、ゆっくりと彼の方へ向かっていく。


「こっ、こんにちはっ! 九重さん」

「……こんにちは」


 相手が発した言葉と雰囲気の重さにくじけそうだ。

 それでもつぐみは、目を合わさない連太郎へと話を続けていく。


「昨日は私の未熟な判断のために、沢山の人に迷惑を掛けてしまいました。きちんと反省していきます。自分の立ち位置を間違えないように。これからはそれを心がけていきます。だから私……」

「冬野さん!」


 連太郎はつぐみの言葉を遮る。


「冬野さん、自分は。……自分はあなたを。本当はもっと早く、助けることが出来ました」 


 目をぎゅっと閉じ、連太郎は絞り出すような声で語り始めた。


「あなたに、とてもひどいことを言いました。それだけでなく、すぐに助けずにいたのです。そんな自分のようなひどい人間に、あなたが謝る必要は、……ありません」


 連太郎は、うつむいたまま話し続ける。

 言葉の一つ一つに、彼の心の痛みが伴っているようだ。

 そんな苦しげな様子に、つぐみはすぐに言葉を返すことが出来ない。


「昨日も言った通りですが、自分はあなたを助けていません。ふさわしい行動をしていなかったのですから」


 強く握りしめた拳は震えている。

 そんな彼を見つめ、つぐみは思うのだ。


 ――あぁ。この人は本当に正直な人だ。

 きっと彼は昨日からずっと自分と向き合い、後悔して、今こうやって話してくれている。

 それはとても怖かったことだろう。

 勇気が必要だったことだろう。

 この人は、本当に優しい人だ。


 自分は知っている。

 本当にひどい人と言うのは……。


「ねぇ、違うんですよ。九重さん」


 声が、とても低い。

 その変化に気付いた連太郎が、顔を上げる。


「本当にひどい人と言うのは。そんなに苦しいという思いを抱いて、話はしないのですよ」


 つぐみと目があった連太郎の顔に、驚きの表情が浮かんだ。

 それでもつぐみは言葉を続ける。

 頭の片隅では、続けるべきでないと気付いている。

 それなのに、こぼれ出た『それ』を。

 もう止めることは出来ない。


「本当に、本当にひどい人は。その言葉を、笑いながら言うんです」


 あぁ、私は一体どんな顔をしているのだろう。

 自分も今、笑っているのだろうか。

 そんな考えを抱きながら、つぐみはただ言葉を出していく。


「……さん! 冬野さん!」


 呼ばれたその声で我に返る。

 連太郎がつぐみの肩を掴んでこちらを見ていた。

 頭が混乱しているために、連太郎の姿がぼんやりとした輪郭で映し出されている。


「あ……、私?」

 

 つぐみはとっさにうつむいてしまう。

 先程の自分の行動に、彼は何を思ったのだろう。

 怖くて情けなくて、動けない。


「冬野さ……。あ、あのこれを、使ってほしいです」


 連太郎がつぐみの肩から手を放すと、自分のポケットからハンカチを差し出してくる。

 受け取る理由が分からずにぽかんとしていると、彼はそっとハンカチをつぐみの目の下に当てた。


 その時になってつぐみは、自分が泣いていたことに気付く。


「え、私? え。す、すみません。嘘? これは、あのですね……」


 つたない言葉しか出せないつぐみを、連太郎は黙って見ているだけだ。

 その言葉ですら途切れると、彼はハンカチをぐっと強く握りしめる。


「所用がありますので、自分はここで失礼します。本当に、本当に所用です!」


 くるりと背を向け、ビルとは反対の方へ、彼は凄い速さで走り去っていった。

 取り残されたつぐみは、その後ろ姿を見つめ茫然ぼうぜんとすることしか出来なかった。



◇◇◇◇◇


 前へ前へと連太郎は走る。


 ここから遠くへ。

 どこでもいいから遠くへ行くんだ。

 とにかく、あの人から離れるという一心で。

 あの時、彼女はこちらに向かって話しかけながら、泣いていた。

 そして笑っていた。


 悲しいだろうに、苦しいだろうに。

 感情のやり場がなくただ泣き、笑っていた。

 そのきっかけは自分の放った言葉。

 冬野家の特殊な家庭環境は、調査書を読んで知っていたのに。

 傷つけてしまった。

 昨日だけでなく、今日も。

 息苦しさにようやく足を止め、振り返る。

 当然だがつぐみがいないことに、連太郎はほっとしてしまう。

 

 幸いにして、今日であのビルは撤退するのだ。

 更に言えば品子の発動で、つぐみはもうじき記憶を失う。

 もう連太郎を知る、彼女と会うことは無いのだ。

 とはいえ、ここですぐに戻って顔を合わせてしまうのもかなり気まずい。

 出雲に電話をして、つぐみがビルを出たら帰ろうとスマホを取り出す。

 何故か耳にじくじくとこびり付くようなコール音を聞きながら、手のひらで目を覆う。


 目を閉じていることで、やけに辺りの蝉の声が頭の中に聞こえてくる。

 じんじんとひびくのは、なき声。


 鳴いているのは、何?

 泣いていたのは、誰?


 ぐるぐると回るのは、いつもの自分らしくない考え。

 そんな思考に戸惑いながら、出雲が電話に出るのを、連太郎はただ待ちつづけるのだった。



◇◇◇◇◇



「すみません。ただいま戻り、……靭さん?」


 つぐみはしばらく、ビルの前で連太郎を待っていたが、戻ってくる様子はない。

 仕方なく三階へと戻って来れば、どうも惟之の様子がおかしいのだ。


「あぁ、安全だ。確かにあの子は安全だ。だけど俺の安全が……」


 彼は何か一人で、ぶつぶつと呟いている。


「やぁ、お帰り! 遅かったね。九重君には会えたかい?」


 対して品子はとても元気そうに、満面の笑みで出迎えてくれた。


「はい、会えましたが。……あの、靭さんに何があったのですか?」

「あー、気にしないで。ちょっと動揺しているだけだから。あと惟之は全面的に協力するって!」


 惟之の姿を見ている限り、とてもそのような雰囲気には見えない。

 彼の独り言である「なんであの人が」や、「まさか来るなんて」と聞こえて来るその内容に、つぐみは戸惑うばかりだ。

 いつも冷静な惟之が、ここまで言う相手とは一体どんな人物なのだと、謎ばかりが増えていく。


「それで、早速なんだけどさ。今日の夕方に、計画を実行してみようかと思ってるんだ。冬野君は大丈夫かい?」

「え、そんなに相手の場所が早く分かるものなのですか?」

「うん、そいつがね。どうやら夕方過ぎに、特定の場所に現れるらしいんだよ」

「特定の場所に、ですか? こちらはいつでも大丈夫です。とりあえず私はどうしたらいいですか?」

「そうだねぇ。君がいきなりそいつとのご対面は危険だと判断している。だからまずは私達が先に接触しようと思っているよ」


 まずは惟之と品子で話をするということか。

 理解したつぐみはうなずく。


「それで交渉が上手く行けばそいつと君と会わせて、千堂君の件を話してみる。この流れでどうだろうか?」

「はい、わかりました。よろしくお願いします」

「うん、上手くいくといいね」

「えぇ、そうですが。……靭さんは一体、何にそんなに動揺しているのですか?」

「あぁ、惟之はね。久しぶりの対面があるから。あと惟之はサングラスじゃなくて、この後は普通の眼鏡かけてね」


 久しぶりの対面、眼鏡を変える。

 わからないことばかりだが、一歩前進できたことはつぐみとしては喜ばしい。


「とにかく、最優先は君の安全。危険と思ったら、すぐにその場から離れるつもりでいてね」

「はい、先生達も気を付けて」

「うん。そうあるように、こちらも出来る準備はしていくから」


 品子が時計をちらりと見て席を立つ。


「というわけで、そろそろ行きますかね。その場所に」

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