第106話 さらわれる人、掴まれる腕

「ふぁ〜。満足満足。食後のコーヒー堪能たんのう完了~。じゃあ、そろそろ帰ろうか」


 コーヒーカップをソーサーに置くと、明日人はつぐみに笑みを向けてきた。

 果たしてそのコーヒーカップの中に、幾つの角砂糖が放り込まれたことだろう。


「あの。井出さんはお砂糖の取り過ぎとか、大丈夫なんですか?」

「え? 何で? そんなに入れてないから心配ないよ〜」


 言葉に反し、相当な量が入れられていたのをつぐみは目撃している。

 それはもう、ふんだんに。

 タルトをかなり食べたつぐみが言うのもおかしな話だが、明日人の血糖値がかなり心配ではある。


「あ、それでね。今日のタルト代なんだけど、僕が払ってもいいかな? 連太郎君ばかりにいいところ持っていかれても、寂しいからさ」

「え? さすがにそれは申し訳ないので……」

「でも僕、この間の生チョコのお礼してないもん。だからいいよね?」


 明日人はそう言って、頬杖をつきながら軽く微笑む。


『……冬野君は、少し人に気を遣いすぎるところがあるね。もう少し、私達に甘えてもらってもいいのだけどね』


 生チョコの時に、品子から掛けられた言葉が。

 あの時の苦笑いをしている品子の顔と、明日人の表情が一瞬だけ重なる。


(少しだけ、優しさに甘えてもいいだろうか?)


「そう……、ですね。井出さんのお言葉に甘えてもいいですか?」

「うん、いいんだよ! じゃあ先にお店を出て、待っててもらっていい?」

「はい! ご馳走になります。あ、そうだ。うちの大学の近くにも、とても美味しいタルトを出してくれるお店があるんです。今度そちらにも行きませんか。その時は私がご馳走します!」

「本当に? そんな話を聞いたら、行かないという選択肢は無いよ! うわぁ、第二回の会場をそこにしちゃう?」

「井出さんにお任せします。ふふ、楽しみが増えました。では先に出ていますね」


 鞄を持ち、つぐみは店の出口へと向かう。

 ヒイラギの件は、決定的な解決策は見つけられなかった。

 さらに蝶の毒の変化という、新しい考え方が出てきている。

 考えなければいけない要素が増える一方だ。

 でも諦めるわけにはいかない。

 くるりと後ろを振り返る。

 目が合った明日人が、ひらひらと手を振ってくれる。

 そうだ、自分は一人ではない。

 改めて前を向き、つぐみは歩き出した。

 


◇◇◇◇◇



 店から出て少し離れたところに日陰を見つけたので、そこで明日人を待つことにする。

 諦めないという決意を持てたのはいいことだ。

 しかしながら、自分のやるべきことが見つけられないというのは本当にもどかしい。


「むー、これは困った」


 思わず呟き、ふと視線を泳がせた先にあるものに、つぐみはくぎ付けになる。


 そこにいるのは髪の長い女性。

 距離にして二十mくらい離れているだろうか。

 こちらを見て口を動かしている。

 その口の動きは。


「たすけて」


 そう言っているように見える。

 目が合ったと思った途端に、その人は奥の路地に消えた。

 いや、違う。

 引きずり込まれたのだ。

 とっさにそちらに向かい走り出す。

 スマホで明日人に連絡を取る。


「もしもしー。どしたの? ごめんね、レジ待ちなんだ。会計もうすぐ終わ……」

「井出さん。女性がさらわれているみたいなんです。お店から東の方の路地です! 私、追いかけます! お店の人に、警察に連絡するように言ってもらえますか?」

「だ、駄目だよ! 君はそこにいて! すぐに行くから」


 一度スマホを耳から離し、周囲の人に向かい叫ぶ。


「人がさらわれているみたいなんです! 誰か警察に電話を!」


 周りの人達はぎょっとした顔で、走り出すつぐみを見ている。


(誰か一人くらいは、警察に連絡してくれるといいのだけれど……)


 再び受話器を耳に当てる。


「……さん! つぐみさん! お願いだからその場にいてくれ。今、店を出た。どこにいるんだ!」

「でも、無理やり連れていかれているみたいなんです。このまま通話を続けます! お店から見て、東に黄色の猫の絵の看板があります。その二つ先の左の辻を入ったところを今、走っています」


 少し先に、女性が二人の男性に無理やり連れていかれている。

 抵抗しているので、こちらが走れば追いつけそうだ。


「嫌がっているじゃないですか! 止めてください!」


 つぐみは叫びながら近づく。

 そのまま道は突き当たりになっており、左に緩やかに曲がっていて先は見えない。

 女性も、強引に引きずらながらも抗ってはいる。

 だが二対一ということもあり、そのまま角へと消えていってしまう。


「井出さん。先程の辻を、そのまま真っ直ぐに進んでいます。先にある突き当りを左に、道なりに進みます。女性が二人の男性に連れていかれてい……」


 突き当りの手前まで来た時に、つぐみはスピードを緩める。

 おかしい。

 つぐみの中で違和感が膨れ上がる。

 あの女性はなぜ先程から、声を出さないのだ。

 そうすれば、他の人にも気づいてもらえるのに。

 これは、つまり。


(……しまった! すぐに引き返さないと。これは、……これは罠だ!)


 踵を返そうとしたその時、腕を何者かに掴まれた。

 その強い力に驚き、思わず振り返ってしまう。

 目に入ったのはつぐみの腕を握る先程の女性。


「こんにちは」


 そういってその女性はにたり、と笑った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る