第107話 倉庫にて
何ということだ、先程までは一緒にいたのに。
支払いを済ませ、明日人は店を飛び出す。
どうして自分は、目を離してしまったのだろう。
彼女が落月に狙われる可能性は、ゼロではないというのに。
せめて店内で待たせていればと、自分の促した行動が悔やまれる。
彼女が通話で示した道をたどりながら、スマホで惟之に連絡を入れていく。
「もしもし、惟之さん! 井出です。つぐみさんがさらわれました。シヤさんにリードをお願いします。僕は今、彼女がたどった道を追いかけています。お願いです。鷹の目とリードで場所が分かったら連絡を下さい。僕の不注意で本当にすみませんが、よろしくお願いします!」
そのまま一方的に電話を切り、再び走り出す。
彼女が最後に言っていた、辻の先の左に緩やかに曲がる道。
角を曲がった先には、人の気配はない。
そこにはただ見覚えのある、彼女の鞄がぽつんと落ちているだけだった。
◇◇◇◇◇
「そんなに怯えないでぇ。私はあなたと、少しお話がしたいだけなんだから」
先程までの怯えた表情はすっかり消え、上機嫌に女性はつぐみへと声を掛けてきた。
彼女と一緒にいた男性の一人が、つぐみの鞄から財布を出し金を抜き取る。
彼らは鞄をその場に捨て、少し離れた場所にある倉庫へとつぐみを引きずり込んだ。
いずれ明日人が鞄を見つけ、辺りを探すだろう。
だが、屋内であるこの倉庫にいると気づいてもらえる可能性は低い。
更に言えば今いる場所は、倉庫の入口からさらに奥に進んだ所。
仮にこの倉庫を明日人が見つけたとしても、奥にあるこの部屋に気付く可能性は低い。
さらに自分は、両手首と足首をそれぞれ女性の持っていたスカーフで縛られているのだ。
今は部屋の奥に積んである土のう袋の上につぐみは座らされている。
この位置から部屋の出口までは十五mほど。
何とか拘束を解いたとしても、そこまでたどり着く前にまた捕まってしまうだろう。
当初はこの女性達が、
だが今の状況を見る限り、金が目当ての窃盗犯ではないかというように思えてくる。
いずれにしてもつぐみは、犯人の顔を見ているのだ。
そう簡単に帰されるとは考え難い。
ましてや、まだ相手の目的が分からない今は、自分から何かを話すのは危険だ。
「私ね、あなたを見たときにかわいい子だなって思ったのよ」
女性は一方的に話し続けている。
そうしてつぐみの正面に立ち、そっと両手で頬に触れてきた。
「何だか、とても不思議な雰囲気を持っているから。だから気になってしまって、つい連れて来てしまったって訳。だから……」
じくり、とつぐみの左頬に痛みが走った。
女性の親指の爪が頬に食い込んだ後、横にゆっくりと引かれていく。
熱さを感じるような痛みが、爪の後をなぞるようにじわりと頬に広がっていった。
その動きが二度ほど続くと、女性は指を自身の口元へと運ぶ。
そのまま、爪に付いたつぐみの血をぺろりと舐めると不思議そうに呟いた。
「うーん、別に特別な味がするわけではないのね。ざんねぇん。じゃあ一体、何なのかしら?」
言葉と共に、つぐみの前髪を掴むと、無理やり顔を上げさせる。
恐怖と痛みで、涙が出てくるのをつぐみは止めることができない。
泣き顔を見て女性は嬉しそうに笑い、傷をつけた同じ指でつぐみの涙を拭った。
楽しそうに舐めてから、今度は髪へと手を伸ばしてくる。
「泣かなくていいのよ。それにしてもこの不思議な香りはって、……え?」
つぐみの髪をかきあげる様に撫でていた女性の顔が、みるみる青ざめていく。
「嘘、嘘よ、こんな! ……そんなのって」
蒼白になった女性は、がたがたと震え出した。
男性二人が、その様子に慌ててそばに駆け寄ってくる。
男性達が女性に話しかけるが、彼女はただ怯えるだけで何も語ろうとしない。
あまりの変化に、それぞれが戸惑うことしか出来ないでいたが、やがて女性の震えがピタリと止まった。
「あ、ああああああ!」
女はおもむろに叫び、一人で倉庫から飛び出していった。
残された男性二人も、何があったか分からないようで
やがて二人は、つぐみから一旦離れると、小声で会話を始めた。
しんと静まった部屋で、残された二人の会話がとぎれとぎれに聞こえてくる。
「だって、顔を見られて……」
「置いてきた鞄を回収して。……指紋が付い……」
「ここまでは誰にも見ら……、だから何とか、……片付けたら山にでも……」
聞こえてくる会話は、逃げられる可能性が低いことを告げてくるばかりだ。
「……車をこちらに持ってくる。今から鞄も回収してくるから」
一人が倉庫から出て行く。
相手が一人になったとはいえ、両手も両足も拘束されている。
何か、方法は無いのだろうか。
つぐみは残った男に声を掛ける。
「……なぜ私を、こんなところに連れてきたのですか?」
まずは、落月かどうか確認をするべきだ。
問いかけに男はにやりと笑う。
「俺は別にあんたじゃ無くても、誰でも良かったんだよ。こうやっていつも通りに、あんたみたいな人と、あの女から金を貰えればいいんだから」
男は
ここまであけすけに語るのは、つぐみを解放するつもりは無いということ。
更に今の話から、主犯はあの女性だったことは理解できた。
「あ、あなた方は、そういった犯罪の組織なのですか?」
「組織って……、ははは。三人だけでいいのなら、組織と言ってもいいかもな。……さてと」
男はつぐみに、嫌な笑顔を向けた。
「車が来るまで、少し一緒に遊びましょうかね」
そう言って土のう袋に座っていたつぐみを、どんと突き飛ばした。
反応が遅れ何も出来ず、そのまま頭と肩を強く地面に打ち付けてしまう。
痛みに顔をゆがめる姿をみて男は嬉しそうに笑いだした。
嫌だ、怖い、怖い。誰か助けて。お願い。
ぐるぐると同じ単語が頭の中で回る。
怖くて、目が開けられない。
閉じたまぶたから、次々と涙が溢れていく。
自分が勝手に暴走して、ここに来てしまった。
自分の行動が、今の状況を生んでいるのもわかってはいる。
それでもつぐみは助けを求めずにはいられない。
「嫌! 誰か! 誰か助けて! いやぁぁ!」
「……ちっ、うるさいんだよ!」
つぐみの腹に痛みが走り、口から「がっ」という声が勝手にこぼれ出て行く。
目を開き痛みの元をたどれば、自分の腹の上には男の足が乗せられていた。
痛みに加え、見下ろしてくる男の目の冷たさに声が出ない。
次の痛みが襲い来るのが怖くて、呼吸すらままならないのだ。
ただ涙だけが、際限なく流れていく。
静かになった姿を見て、男は再び満足そうに笑う。
ゆっくりと足を下ろすと、そのまま自分へとのしかかってきた。
近づいて来る顔に嫌悪感を抱き、つぐみは顔を背ける。
今度は頬に痛み。
口の中にじわりと血の味が広がっていく。
もう、嫌だ。
目を開けたくない。
何も見たくない、知りたくない。
だってこれはかつて何度も体感した感覚だ。
そう、そんなときにはこうするのだ。
いや違う、『こうするしかない』のだ。
だからつぐみは、それを行う。
「……ごめんなさい。ごめんなさい。もう叩かないで」
口から勝手に出てくる言葉。
それはかつて、毎日のように言っていたもの。
「ごめんなさい。お兄ちゃんごめんなさい。ごめんなさい」
つぐみの言葉に「何だ?」と男は呟いている。
だがもう自分は、それを止めることができない。
「全部、私のせいです。だからもう叩かないで。おねが……」
つぐみの最後の言葉に、重なるように聞こえた音。
何か太めの木が折れてしまったような、鈍い音がつぐみの耳に届く。
同時に聞こえてくるのは絶叫。
つぐみの体の上にあった重みが消える。
再び目を開いて見たものは、己の右腕を抱え転げまわっている男。
そして無表情でこちらを見つめている、九重連太郎の姿だった。
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